穿たれた楔
順調かのように見えた、朔とさくら。
しかし、無情にも運命は二人を裂いた!
蘭渓の魔の手が、さくらに迫る!!
そして……。
「ほう、人間の女がおるではないか……か弱そうな奴だ、ヘドが出る」
海を眺望する事ができる断崖にいるさくらを、一羽の射干玉の鳥が見ていた。
いや、見ているのは鳥ではなく蘭渓だった。
本人の目からではなく、遠く離れた場所から鴉の眼を介して見ているのだ。
部下達に潜伏使令を出し、蘭渓は単独で動いているうちにさくらを見つけたのだった。
「ふ、余興がてら…楽しませてもらおうか?」
そう呟いた矢先に、ぱたり、と鴉が墜ちる。
元の死骸に戻ったのだ。
「見つけたぞ………兎族の弱点を」
青い双眸をニィ、と歪ませて、彼は音もなく、するりと地脈に体を滑り込ませた。
しかし蘭渓が去った後、‐‐――単に彼が気づいていないだけなのか、彼が触れた地面は焼けただれ、夥しい腐臭をあげる。
彼の体は、つもり積もった怨嗟が蝕み始めていたのだ。
破滅へのカウントダウン……。
壊疽が、始まっていた。
『ヘンね、朔ちゃん? さっきまで隣にいたのにな…おぉい朔ぅ!』
〈外に出るは危険〉と押しとどめる周囲を拝み倒して、海が見たいと駄々をこねた自分を朔が、ここまで連れてきてくれたのだ。
朔がいない。
朔がいない。
可笑しい……。
だがすぐに、さくらは異変に気が付いた。
なにが、可笑しいのかにも。
妙に悪寒がして、震えが止まらない。
最近は、色々と口うるさい目付役の朔が、つかず離れず傍にいるのに。
その朔がいないなんて、可笑しい。
『朔、朔ぅ! どこにいるのっ、返事して!』
彼女は、すっかり術中に嵌りこんでしまっていた。
廻りは物音一つしない。
景色には、どこにも変わりなどないのに。
叫ぶさくらの声は、無情にも、ことごとく虚無に喰われて消えてゆく。
『イヤよっ、イヤ! 誰か返事してよ! 一人はイヤぁあ〜……』
一人はイヤだ。
怖い。
孤独に対しての恐れは沸くのに。どうしてか無気力になり、なにも考えたくなくなる。まるで、思考する能力を奪われたよう。
なにかが、そうさせるのだ。
「さくら、さくら! しっかりしろよっ、俺はここにいるだろ!」
「イヤ……イヤぁぁ」
さくらの傍を、朔は一度たりとも離れてはいなかった。
朔は、どこか虚ろにとり乱すさくらの肩を揺さぶって呼びかけるが、彼女はまるで見えていないかのように無反応で、しきりに震えている。
「その女には聞こえない」
朔は虚ろなさくらを抱いたまま、声がした方向をきつく睨む。
「きっ、貴様…敵軍の将かっ‐‐―‐‐彼女になにをした!」
朔の睨んだ先には、冷笑する、鎧姿の男が佇んでいた。
「ああ……彼女なら夢を見ているよ。最高の悪夢を、ね」
底からこみ上げた激情が、朔の瞳を、髪を異色に染めあげる。
「こ…のやろっ、胸くそ悪いツラしやがって!」
欠伸をするように言った彼に、朔は堪らず飛びかかった。
だが、身軽に躱して嗤う蘭渓には無意味でしかない。
「……あまり、調子に乗るなよ?」
「なっ」
彼の間合いに入りかけて、紙一重で避けたはずだった。
だが、軽々と瞬歩で朔の間合いに入った蘭渓は、耳元で冷たく囁いた。
そして‐‐――。
「口を慎め青二才がっ!」
「がっ……かはぁっ!」
しなやかな健脚が、朔を蹴り飛ばす。
蹴り上げられ、朔はもんどり打って地面を転がった。
「他人の楽しみを邪魔するでない。暫く、黙って見ておるがいい」
蘭渓は、朔に向けて縛執呪を切った。
「やめろ、やめてくれ!! ……さくらから離れろっ!」
重い鉛のような呪縛が朔を戒め、彼に一切の動きを許さなかった。
『あなた、誰? あたしを迎えに来てくれたの?』
虚ろな目で見あげるさくらに、蘭渓はニヤリとほくそ笑む。
『そう、俺は君を迎えに来たんだ。おいで、家族が待っているよ』
『あなた……だ、れなの?』
さくらの眉間に、明らかな抵抗が浮かぶ。
術に嵌りながらも尚、どこまでも呪を振り切ろうと抵抗するさくらが気に食わなかった。
蘭渓は、さくらを抱きすくめながらその笑みを深くする。
嗤いながら、彼女に一撃を加えた。
残酷な楔の、一撃を。
『それは、知らなくていいよ。お前はこれで死ぬんだから』
さくらの体が宙を舞う。
打ち掛けの袖が、天女の羽衣のようにはためいたが、彼女は宙を舞わずに、重力に従って落下を始めた。
「やめてくれ‐‐―――‐‐っ!?」
朔は渾身の力を込めて、結界として張られていた、襲撃者の術式を破壊した。
「つまらん。実につまらぬ……だから人間が好かんのだ。今日は引きあげるか」
崖下を覗き込んで座りこむ朔の脇で、蘭渓は消えていったのだった。
逆巻く海流同士が、大渦をなしている海域だ。
さくらが助からないのは明白だった。
「さくら……さくらぁ‐‐―――‐‐―!!」
狂ったように、悲痛な慟哭をする朔を駆けつけた弖阿が見つけ、爆ぜんばかりにその目を張った。
「朔、朔! しっかりせいっ、あの子、さくらはどうしたんじゃ!?」
「うあぁ……うああああ‐‐――――っ!」
声にならない悲鳴をあげ続ける朔を抱え上げ、弖阿はそれ以上なにも言わずに、城館へと引き返した。
(朔……一体どうしたんじゃ! それに、さくらの気配が消えた!)
ずず、と緊迫した空気を薬湯を啜る音が濁す。
朔だ。
「どうだ……落ちついたかい? 話してくれぬか、さくらはどうしたんじゃ。あの子の気配が消えたんだ…皆知りたがっている」
蓬色の薬湯を啜っていた朔は、ややしばらく間をおいて辿々しく、抑揚のない口調ですべてを語った。
「……さくらが、死んだ」
弖阿を含め、その場にいた一同は驚きに、愕然と朔を見た。
「まさか……そんな、気配が消えたのは、なんてことっ」
「蘭渓だ、あ奴の仕業に決まっている」
突然割って入った声に、弖阿は泣きはらした目でふり返る。
「刹霞、戻っていたのか……さくらが、さくらが」
ゆっくりと、弖阿は格子戸に凭れる刹霞を振り向くと、震える声をなんとか抑えて小さく呟いた。
「徳島に残した、俺の部下共は皆殺されていた。あ奴め、遂に堕ちる処までおちたな。簒奪状を置いていきおった」
「なに!?」
目を剥いたのは、弖阿だけではなかった。
今まで抜け殻の如く萎れていた朔も、僅かにだが身じろぐ。
「楔を打ち込みおって……だが皆の者、慌てるな。闘うべき相手が分かっただろう。奴を、蘭渓を必ず倒すのだ!」
ハラハラと、朔と弖阿を見交わす紫生。
「弖阿、そなたも…もちろん闘ってくれるな?」
「当たり前だろうが。この弖阿、兄上のためにここに在るのだから」
微笑みあう、弖阿と刹霞。
「ああ、猛獣の檻が壊された……」
はぅ……と溜息する紫生に、弖阿はなぜか怒らなかった。
どうも、維月です。
蘭渓が……さくらに集中攻撃。
蘭渓のバカ…(怒)