面影
『千年前の悲劇』その発端である奈与が原因で、再び2つの兎族間に波紋が広がっている。
刹霞は、その乱を止めるべくして朔とさくらの後を追ったのだ。
乱を止める手段はただ一つ、奈与を殺すことだ。
だが、刹霞は悩んでいた。本当にその他に方法はないか、と。
「なにも失う訳にいかないのに……あの子は死んでもいいの!?」
悩み抜いた末に、さくらは刹霞に訴えた。
2つの兎族間で、再び波紋が拡がりつつある。奈与がその発端であり、刹霞はその乱を止めるべくして、朔とさくらの後を追ったのだという。
「あいつをあんな風にしたのは、俺の責なのだ……だからせめて、俺の手で屠ろうと思う」
「でも…そんなのって、ないと思う。キレイ事かも知れないけど、誰かが誰かの命を奪う権利なんてないよっ」
ぱしん、と勢いよく障子戸が鳴る。
すっくと立ちあがると、さくらは憤然と部屋を出て行ってしまった。
「さくら……」
ぽつりと取り残された朔は、刹霞と、さくらが出て行ってしまった方を見比べてオロオロする。
彼自身もどう動いていいか分からずに、困っているのだ。
「朔殿…すまない、彼女を怒らせるつもりはなかったんだ。二人には、いやな思いばかりさせる」
心底すまなそうな刹霞に、朔はゆるゆると首を振る。
「いや、俺もあなたと同じ事を考えてた……他人の事は言えない」
「あいつを殺したくない……だが、やむを得ん。彼女に会って、変わりはしないかと…切に願っとるよ」
朝方の海辺を、さくらはザクザクと歩調荒く進む。
「どういうつもりかしらっ、自分の息子なのに!」
さくらは、きーっ! と髪を束ねていたリボンを、力任せにほどいて放り投げた。
朝風の中に、色の薄いさくらの髪が、光を通してサラサラと舞う。
「あれじゃあ、あの子が可哀相じゃな…い」
さくらはそこまで言って、言葉を途切らせた。
驚きに、その目は大きく見開いている。
砂の上に丸まっている、奈与を見つけたのだ。
(なにしてるのかしら、生きてるのかな?)
巨大な体躯を投げ出している脇に、さくらはそっと屈む。
どうしてだろう。
以前はあんなに、奈与が恐ろしかったのに……今はどうしてか、彼に触れてあげたいと思っている。
艶々とした毛並みは朝焼けを映して、紫陽花色に透けて目を惹いた。
(不思議な色……きれい。触っても、怒らないかしら? 寝てるみたいだし)
そっと手を伸ばしかけたその時。
「なにを、している?」
静かな声に問われて、さくらはウサギのように跳び上がってしまった。
「お、起きてたのね……」
「まあな……それくらい分かる、さくらの気配がしたからな。どうした、朔は一緒ではないのか?」
大型犬よりまだ大きな体をぶるん、と震わせてから、奈与は前足を突っ張り豪快な欠伸をする。
「うん。ちょっと成り行きで置いて来ちゃった」
「……そうか……」
朝の穏やかな時間を、潮騒が旋律を奏でる。さくらも座ったまま、縦に伸びをした。
「ねえ」
「なんだ?」
「撫でてもいい?」
目を細めて毛繕いをしている、彼の頭にさくらはそっと触れてみる。
「……好きにしろ」
「うん……あったかい。あったかいのね、あなた…お日さまの匂いがする」
さくらは奈与の頭を包み込むように抱いて、懐かしそうに目を細めた。
「なあ、さくらの母上は……どんな人だったんだ?」
奈与は、愛嬌たっぷりにさくらの膝に前足を置くと、身を乗り出した。
さくらは目を瞑る。
今でも瞼の裏に浮かぶのは、まるで仙境のような里で暮らしていた、人口こそ少ないが賑やかな人たちの笑顔。
そして、頼りない父の代わりに厳しかった母。
「厳しい人だったわ……でもそれだけじゃなくて、ちゃんと皆を気遣える、優しい人でもあったの」
「それを、俺たちが壊した……さぞ憎いだろう、理不尽だと悔やんだろう」
奈与は少し距離を取ると、真っ直ぐにさくらを見つめる。
「恨んでないって言えば嘘になるけど、許せる事じゃないけど……あなたも、色々あったのね?」
そっと、けれどしっかりと抱き締められた奈与は、震えながらその先を紡ぎ出す。
「なぜ、そんな穏やかな顔ができる? 俺を恨んでいるのに」
「似てるから」
即答したさくらに、奈与は、ぱちんと一つ瞠目をした。
「え? なにが…」
「目よ……あなたの目、すごく寂しいって言ってる。孤独の目、あたしも、よく分かる」
「俺の母は人間だった。いつもオレと、父上の傍で笑っていて…ただただ、幸せだったのを覚えている」
「ええ……お父さん、刹霞さんから話は聞いてるわ。あなた、口が悪くて粗暴だけど、根っからの悪って感じじゃなかったもんね?」
「母上と、そっくりだな。名前も顔も……けど、やっぱりなにかが違う。そこが、好きなの…かも知れない」
さくらの喉元に鼻面を寄せながら、奈与は涙声で言った。そして、さくらは悟る。
‐‐―‐この子の心は、割れている。
喪失したものの存在が大きすぎて。
この気持ちを、なんて言うだろうか?
本当の母親じゃないのに、放っとけない。
傍にいてあげたい。
未来を変えてあげたい。
「泣かないで? ね? 泣かないの。ねえ奈与……あたしが、お母さんになってあげる。よく、今まで我慢したね?」
声を上げて泣きじゃくる奈与をそっと包みながら、さくらは彼の滑らかな青毛を撫で続けた。
「さくらが、オレの母さんに? ホント?」
一頻り泣いたあと、奈与は鼻を啜ってからさくらに問うた。
ひた、と真っ直ぐに、澄んだ色違いの双眸に見つめられて、さくらは思いきり微笑み返す。
「そうよ。今からあたしが、奈与のお母さん」
幻のように兎の形が透けて、人間の姿に戻った奈与は、改めてさくらに抱きついた。
「朔、朔はおるか!?」
突如、客間の障子が勢いよく引かれた。
「んあ?」
青畳に寝そべっていた朔は、不機嫌モード全開でふり返った。
昼寝中だったのだ。
「朔っ、大変じゃ!」
語気荒く部屋に飛び込んできた弖阿に、朔は幾許か後ずさる。
「来い! さくらが、さくらがぁ‐‐――」
弖阿は、今しがた見てきた状況を朔の耳元で小声で伝えた。
あまりのショックに、朔は総毛立つ。
「は、はぁあ!?」
屋敷が揺れた。(たわんだ、とも言う)
どうも、維月です。
書いているうちに、奈与が段々幼稚化してしまいました。
なっち、ごめんなさい(汗)