When tha’s love―もし、それが愛ならば?―
さくらと朔が、あくせくしている一方で、奈与も、ある想いを抱えて葛藤していた。
なんと、さくらに想いを寄せていた奈与。
しかしまた、それが新たな波乱を呼ぶことになろうとは誰も予期していなかった。
奈与は、一人湖畔に佇んでいた。不思議な色の水を湛える、あの、いつかの泉である。
尤も、いま水は、鏡のように色を変えているが。
「なぜ、気になるのだ? たかが、人間の小娘一匹に……」
ぽつりと、しかしはっきりと言った彼は、水鏡に映し出されるさくらの姿だけを、食い入るように見つめていた。
「朔め、あいつ……オレの獲物を横取りおって、許さぬっ」
水鏡に映るのは、互いに寄り添い、睦み合う二人の姿。
奈与はまだ幼さの残る美貌を歪め、水鏡の中にいる、さくらの唇に手を触れてから、そっと唇を合わせた。
(オレは兎族・森の民の長だっ、手に入らぬ物などないのだ! さくら……必ずや、手に入れてみせるっ)
触れた(水鏡にだが)唇を押さえつつ、頬を染める奈与は、少年らしく初々しい。
あの唇に、直に触れてみたい…と思うのは、罪だろうか?
人を恨むのをやめた先代‐‐―‐‐―‐今の兎族で、人を恨む者など自分を除けば無に等しい。
『なぜ、なぜです長……闘う理由など、どこにもないのに』
奈与の中に、一頻り琥珀の声が蘇った。
4年前、兎族でありながら、人に与した男である。
(のう、琥珀よ……そなたも、こんな気持ちだったのか?)
どうやら、お前が正しかったようだ。
「そなたが欲しいのだ……さくら、オレのものになれ」
水鏡に夢中で口づける様子は、一見、水を飲んでいるようにも見える。
しかし傍観者には、そう解釈されなかったようだ。
「なにをしてる……水鏡なんぞに発情して」
「ぶはっ、うわっ……父上!? いや、先代っ」
からかいを含んだ中音に、奈与はバランスを崩し、水しぶきを上げて泉に落下。
「覘覧の術か、まだ解かれていないな……どれ、奈与、そこをどきなさい」
奈与の父・先代長は、青い髪を、腰辺りまで伸ばしている若い男だった。
面影が、奈与と瓜二つだ。
兎族‐‐――‐‐いや、全『森の民』は、ある一定の年を取ると、それ以上の変化はない。大体が、二十代の真ん中あたりの外見なのである。
先代長は、軽々と奈与の背を抓むと、草の上に転がした。
先代長は、水鏡の中のさくらを見た刹那、その身を凍り付かせた。
彼は、動揺を押し殺して、なんとか声を出すことに成功した。
「ほう? これはまた……美しい女子だなぁ。奈与、彼女が欲しいのか?」
「バッ、バカをいえっ! オレが、人間の女を欲しがるわけがないっ」
ニヤニヤと笑う、ご隠居もとい、先代長。
奈与の口調が変わっているが、これが彼の地であり、公私をちゃんと使い分けている。
「発情してたクセに、嘘はいかんぞ」
「してないっ! この変態がっ」
がうがうと、歯がみしている奈与の額を押さえながら、先代は小さく呟いた。
「椿を消したようだな、それと息子も。どうしてだ」
それに、奈与はぴたりと動きを止める。
「オレに、刃を向けたんだ、友を守るためだとか言って」
先代の深い溜息に、奈与は憤りを露わにして怒鳴った。
「その友が、さくらでも…か?」
奈与は一頻り目を張ったが、すぐに目をそらして低く唸る。
「オレが欲しかったのは、椿じゃない…さくらだ。ずっと昔、さくらの幼い頃から慕っていたのに」
「奈与、お前はまだ若い……すべてが、自らの思い通りにならないことがたくさんあるのを知るべきだ。例えば、身分や、人同士の絆」
「父上は、オレが間違ってるというのか?! すべて父上の、言うとおりにしてきたのにっ」
「だからこそ言っている。私は間違っていた、殺戮からはなにも生まれないし、不毛だ。だからもう二度と、我々も人間も、争わないと決めたんだ」
「……父上は、変わったな」
奈与は、悲しげな瞳を先代に向けると、小さく溜息した。
「変わるさ、どんな者も…生きている限りな。お前も変われ」
先代は、懐から緑青に輝く宝珠を取り出すと、奈与の目の前に突きつけた。
「それは……」
緑青に輝く、大小の宝珠‐‐―‐椿と、澪の魂魄だ。
「椿と澪には、私から新たな体を与えておこう。お前は、もう少し成長すべきだ」
「父上」
背を向けた先代に、奈与は凍りそうなほど、冷淡に言った。
「オレは、さくらを手に入れる。邪魔をするなら、例えあんたでも…容赦はしない」
「それならば、仕方あるまい……その時は、その時だ」
重い沈黙を破っていった先代の瞳には、過去の、もう一人の自分が映っていた。
若く、愚かだった自分が。
(もう、なにも失うわけにはいかない……その時は止むを得ん、あれを、殺そう)
先代は、静かに踵を返すと、来た道を戻っていった。
「父上には分からない、分からないんだっ」
去っていく父の背中に、奈与はきつく唇の端を噛みしめる。
滲んだ血を吐き捨て、そのまま水鏡の中に、身を投じたのだった。