Ep.1:無知という平穏(1)
〈別に、ナルシシスティックな思想を持っている訳ではないのだが、正直なところ、俺ほど非の無い人間はいないのではないだろうか……。勉強も人より多少出来るし、運動神経も悪くは無い。見た目だってイケメンとまでは言わないまでも、二枚目と言っても良いくらいだ。背格好も標準体型で、どちらかと言えば身長は高い方だし、友人関係も至って円満。小学生の頃にピアノを習っていたこともあり、相対音感程度ならあるから、別に音痴でもない。文化祭の発表では裏方のサブリーダーもやってたわけで、カリスマがないって訳でもないんだが……。
それなのに、それなのにどうして俺の高校生活はこんなにもパッとしないんだ。
高校生活って言ったら、こう、親友と喧嘩して、仲直りしたりとか、告白したりされたり付き合ったり、そんな青春ドラマみたいな出来事が、たとえ一瞬なりともあるもんじゃないのか。
それだけを求めてるって事はないんだが、もう少し華がある、というか、後から見返してみるとなかなか濃い三年間だったなぁって感じられるようなのが、高校生活ってもんじゃないのかよ。やっぱりそういうのって、ほんの少しで良いから欲しいわけなんだ、高校生男子としてはさ〉
登校中の通学電車に揺られながら物思いに耽る男子高校生の名は「青谷龍二」何をとって見ても平凡な男子高校生である。参考書片手に電車に揺られ、もう片方の手で吊り革を掴んでいるのもいつもの光景。日々繰り返されるルーチンな日常に、彼はもう飽き飽きしていた。
確かに学校でも、やれ体育祭だ、やれ文化祭だといって、毎日淡々と繰り返される日常に飽きが来ないような工夫がなされているとは言っても、それはむしろ、普段の生活の空しさを終わった後に再認識させられるシステムだということは、彼自身中学の頃から重々承知していたのだが、それでもやはり空しさと言うものは感じざるを得ないものなのだろう。
一つ大きなため息を残して、彼は降車駅で電車を降りる。鞄の重さまでいつも通りに感じられてしまうとは皮肉なものだ。タッチ式の定期券をポケットから取り出し、改札の読み取り位置に当てると、そのまま軽快な音と共に改札の外へと誘導される。
普段ならば改札を出た所で同じクラスの「緑川元亀」に出会うはずなのだが、今日に限って彼の姿が見当たらなかった。
〈緑川、今日休みなのかな……〉
いつも快活で、風邪なんて少しも引きそうに思えない緑川の顔を思い浮かべ、青谷はそう一人ごちた。珍しく普段のルーチンな生活から抜け出せたにも関わらず、彼の気持ちは少しも晴れない。
〈まぁ、緑川だって風邪は引くだろ。馬鹿か俺は〉
心の中でそう自分自身につっこみを入れた彼は、そのまま足を学校の方向へと向け、多少大げさに心配した自分に対して自嘲気味な笑みを浮かべた。ルーチンな日常から一瞬抜け出した事の実感が、今になってようやく、少し出てきたのかもしれない。
駅から学校までは一瞬だ。駅から近いことも売りの一つである彼の学校は、県内でもそこそこの評価のある公立高校で、女子の制服も可愛いと、県内から多くの生徒が集まってくる。全学年あわせて千人を有するマンモス校として、近隣の県での知名度も少し高めのようだ。
それ故、通学時間になると最寄の駅は高校生で溢れ返ってしまう。人が多すぎて学校に遅刻するというのもしばしば聞く話だ。それを見越して始業三十分前には教室に着くよう時間設定している生徒も少なくない。青谷もそんな生徒の一人で、毎朝学校では友人と他愛も無い話をして時間を潰しているのだ。
いつも通り八時過ぎに教室の扉を開けた彼は、そのまま自分の席に着く。教室の中には既に、彼よりも早く学校に着いて話している生徒のグループが二三見受けられた。今日はどのグループの会話に参加しようかと、ぐるりと教室内を彼が見回すと、その中でも一際彼の目を引くグループがあった。
「おい緑川、どうしたんだ。今日はやけに早いじゃないか」
彼の目を引いたのは、他でもない緑川だった。
「あぁ、龍二か。今日はちょいと色々あってな」
ニヤリと少し不敵な笑みを浮かべる緑川の後ろで、他の男子生徒もクスクスと笑っている。何やら彼に隠し事でもしているかのような反応だ。そんな彼らの様子を見た青谷が、怪訝な顔をしながら彼らに目線で質問を投げかけた。
「おい、亀ちゃん言っちまえって」
「別に減るもんでも無いんだし、なぁ」
今にも吹きそうな様子で、緑川の肩を叩きながら言う彼らに釣られ、青谷も少し笑ってしまう。しかしそんな彼らの反応とは対照的に、緑川の表情は段々と険しくなっていった。
「もちろん言うつもりだったさ。そりゃこんなこと言わないわけねぇだろう。にしてもお前らひどくねぇか、そんなに笑うことでもあるまいし。別に良いじゃねぇか、これくらいあったってさ」
「おいおい、だからその『これくらい』ってのが何なのか、俺にも早く教えてくれよ。そんなに焦らしてどうするんだよ」
「解った解った、言うってば」
そう言うと緑川はふいに椅子から立ち上がり、体育祭の時の選手宣誓の格好を取った。意外にも野球部で二年生の代表をしている緑川は、野球部のキャプテンとともに体育祭で選手宣誓をしてからというもの、何かある度にこのネタを何度も繰り返すのだ。
「宣誓ぇ、私ぃ、緑川はぁっ」
「良いからパッパと言えって」
「ちょっと位我慢してくれよ、せっかく良いところなんだからさ」
そう言って再び先ほどのポーズを取る緑川は、どことなく誇らしげで、自信に満ちていた。早く事実を知りたい青谷はというと、一々面倒な緑川に少し呆れ顔だ。
「えーっと、それじゃ気を取り直して。私ぃ、緑川はぁっ、マネージャーのさっちゃんと付き合うことになりましたぁっ」
「はぁっ!?」
誇らしい宣誓終了と共にニヤリと笑った緑川を見て、青谷は愕然とする。緑川の後ろでは、そんな青谷の表情を見た二人が爆笑していた。
「ありえねぇだろ、この亀ちゃんがだぜ。このクリックリ坊主の亀ちゃんが、学年でも十本の指に入るくらいの山本さんと付き合うとか」
「しかもしかも、告ったの亀ちゃんからじゃなくて山本さんからだってよ。このクリックリ坊主がだぜ」
ガハハと大声で笑いながら緑川の坊主頭をペシペシと叩く二人が言ったことが、さらに青谷を愕然とさせた。
〈おいおいおいおい、まじかよこれ……。緑川っつったらこの緑川だぞ。こんな、たいして勉強も出来なくて野球ばっかやってる能天気野郎が、俺より先に青春の一ページめくるなんて、そんな事あって良いのか……。しかも相手はあの山本さん。二年生の中でも人気が高く、隠れファンクラブなるものまで存在してるとかしてないとか。そんな山本さんと、緑川が!? こんなもん、信じろって方が無理だろうが!〉
「緑川、悪い冗談はやめとけって。そんな冗談面白くもなんともないぞ」
頭を叩いていた後ろの二人に蹴りを入れていた緑川が、彼の方を向いた。後ろの二人に怒っているような素振りを見せていた緑川だったが、彼の方に振り向いた時、その表情は怒りと言うよりもむしろ喜びに満ちていた。
「冗談なんかじゃねぇよ。今朝早く来たのだって、さっちゃんの朝の電車の時間に合わせてきたからだしさ。てことで、明日から朝合流できねぇわ。すまんっ……て痛ってぇ!?」
気持ちの整理がつかず、自分でも気付かぬうちに緑川の鳩尾にストレートをめり込ませていた青谷は、緑川の苦悶の叫びにはたと正気に戻る。
「あ、あぁ……すまん。つい」
「ついじゃねぇよ、ついじゃ!」
腹を抱えながら痛みに悶える緑川と、そんな緑川の様子に腹を抱えて笑う後ろの二人。そして当の青谷はというと、緑川に笑って謝りながらも、内心なかなかのショックを受けていた。別に山本が好きだったとか、ましてや緑川に恋をしていただなんて馬鹿なことは有りはしないのだが、それでも由縁の解らないモヤモヤとした何かが心にあるのだ。
「にしても、何でなんだよ」
「はぁ? 何がだよ。むしろ急に腹殴られた俺の方が何でか聞きたいわ」
「何でお前の方が先に青春の一ページめくっちゃってんだよぉぉぉぉ!」
「しらねぇよぉぉぉぉ!」
「どう考えたって、お前のクリクリ坊主っぷりなら『青春全部野球にかけてたんで、恋愛とか全く経験したこと無いです。テヘッ』って大学の新歓コンパの自己紹介でおちゃらけるやつだろうがよぉぉぉ!」
「んなこと言われたってどうすりゃ良いんだよぉぉぉ! てか何気に今お前かなり傷つくこと言ったの気付いてんのかぁぁぁ!」
妙にかみ合わない心の叫びの応酬に、段々と人が増え始めた教室の中がクスクスという笑い声で溢れ始める。近くに来た野次馬たちに後ろの二人が成り行きを説明している事もあり、クラスの中は異様な熱気に包まれ始めた。
「行け行け青谷! あの山本さんが緑川の彼女だなんて言わせんな!」
「言い返してやれ緑川! 野球部の意地見せたらんかい!」
そんな野次が飛ぶ中、二人の言い合いは更に激しさを増し、そして……。
「なんで俺はこんなにモテねぇんだよぉぉぉ!」
「……」
青谷の魂の叫びが教室に響き渡った。一瞬の静寂の後、大笑いする緑川。そして彼に釣られて教室中も笑いの渦に巻き込まれた。何が起こっているか理解できないという風に、興奮冷めやらぬ息遣いで周囲を眺める青谷と、彼の肩に手を置く緑川。
「なんだよお前、あんなにムキんなって何かと思えばそんなことかよ。はははは」
「そんなことって何だよ。俺にとっちゃ深刻な悩みなんだよっ」
ひぃひぃと腹を抱えて笑う緑川にそっぽを向け、顔を赤らめながら言う青谷。ようやく自分のしでかした事の大きさに気がついたようだ。
「まぁ一旦落ち着いて。ほら、座れよ」
「ん……、あぁ、すまん」
ひぃひぃといまだに笑い続ける後ろの二人はさておき、緑川もパッと見真剣そうな顔つきになる。とは言っても内心では笑っているのか、眉間がぴくぴくと痙攣していた。かくいう青谷はというと、激しい自責心に悶え、顔すらも前を向けない状態のため、緑川のそんな様子には気付くことはできていないのだ。
「いやぁ……。まぁあれだな、お前も色々考えてんのな。やっぱりモテないことって、男子高校生の尽きない悩みだもんなぁ。俺もなんだかんだ言って、一昨日までは同じようなことで悩んでたけど……」
「おい緑川、今の発言は俺への挑戦と受け取っても良いんだな? え? 良いんだな?」
「いやいやいやいや、ちょっと待て、落ち着いて話そう。話せば解るんだ」
バキバキと指の骨を鳴らしながら椅子から立ち上がろうとする青谷の肩に手をかけ、椅子に座らせようとする緑川の表情は必死そのもの。その表情が、後ろで笑っている二人の笑いを更にそそる。
「まぁ良い。今回の件は俺も四パーセントくらいは悪いしな。ここは俺の寛容さに免じて赦してやろう」
「あ、あぁ。ありがとう……ってなんでだよ! お前が四パーセントだけってどんな計算したらそうなるんだ。そろばんよりも低スペックだなお前の脳みそは!」
今度こそ辛抱たまらなくなった後ろの二人が、ブフォッという音と共に激しく噴出し、後ろ向きに倒れる。ダンダンと床を叩きながら笑い続ける彼らの上に、遂に青谷と緑川のイラつきが振りかかった。
「「うっせぇ、このアホども!!」」
一限目の開始を告げるチャイムが教室に鳴り響く中、頭に大きな瘤をつくった二人の屍と、眉間に深いしわを刻み込んだ緑川と青谷がいた。