13th Name 【ROSY ROSE】
~ROSY ROSE~
それはある日のことでした。
わたしがいつものように、ベッドに下半身を縫いつけたまま本を読んでいる夜のこと。
わたしの真正面には、ぽっかり開いた四角い窓。
そこから見える狭い空の向こうには、まるいまるいお月さま。
そして、
そして、
そして――
「今晩は。お嬢様」
人がいました。
大きなお月さまを背に乗せたまま、窓のへりに平然とその人は座っています。
小石を落とせば、少し忘れたころに落っこちる音がする高さの場所に、です。
これはどうしたことでしょう。
とてもとても不思議な出来事が起こっているはずなのに、わたしの心臓はまるで寝ぼけているように脈を刻まなくて……。
そして、目の前の人はわたしににっこりと微笑みます。それは意外と親しみのあるものなのかもしれません。
わたしは読みかけの本を閉じてから、その目線にわたしの目線と軸を合わせます。
その人は、その笑顔のまま話を続けました。
「あなたの魂をもらいに来ました」
と。
その人は、自分を悪魔といいました。
よく見てみれば、闇のように真っ黒なコートを着ているようです。
そして肌はひどい灰色に見えました。でもたぶん、この人――悪魔自身の肌はもっと違う色のはず。
それもそのはず。
わたしの目は色彩を失ってしまったのですから。
だからどんなに美しい薔薇を見ても白と黒と灰色の濃淡でしか『もの』を見分けられない。
それでも、会話をするぶんには何の不自由もありません。
おかげで悪魔の切り出した取引を逐一聞き漏らすことなく、その内容を吟味することができました。
…………。
…………。
…………。
……どうやら悪魔は、わたしの魂と引き換えにわたしの望みを叶えてくれるらしいです。
願いは一つ。そして魂も一つ。ケース・バイ・ケースというところでしょうか。
「もちろん今とは言わないよ」
砕けた口調のわりには馴れ馴れしさのない、紳士的な響きを含めて悪魔は話しかけます。わたしが本を置く小机を、彼が即席の椅子がわりにして座っているのですが、その姿はなかなかサマになっています。
「考える時間をあげるよ。期限は一ヶ月。それまでに君は願い事を考える。それで僕に叶えてもらう。早ければ早いでよし。何も思い浮かばなかったなら僕はそのまま退散する。――これで問題はあるかな?」
言葉で言いくるめるでもなし、力で押し通すわけでもない、完全にわたしの選択肢に任せた口調でした。この悪魔はセールス精神というものに欠けているのでしょうか?
それじゃあね、といいながら、悪魔は自分が入ってきた窓に足をかけます。
…………。
「……あの」
「? 何?」
帰りを止められたにもかかわらず、悪魔はとても人懐っこい笑顔でわたしのほうを振り返ります。
「ここは3階ですよ?」
「…………。――!」
しばしきょとんとしていた悪魔の顔は、コンマ単位の間をおいた直後に、輝くような笑顔に変わります。どうやら、ようやくわたしの話の意味を理解したようです。
そうか、彼女は僕と人間基準で話しているのだな、と。
「それなら問題ないよ。僕は、カカトを泥で汚すよりも、風に身を任せる時間のほうが長いんだ」
「そうですか。申し訳ありません」
わたしはお辞儀をして謝罪。
「いいよ。別に」
「ではこれを片付けてもらえますか」
言ってわたしが差し出したのは、一冊の書物。『生体医工学のテクノロジー』
「…………何それ?」
顔を引きつらせ――それでもスマイルを決して崩さないように必死に表情の筋肉を調整しながら、彼は尋ねました。
「いえ、どうせ帰るのならこの本を本棚に返してもらおうと思いつきました。ちょうどあなたの進行ルートと重なるので」
わたしの部屋は円筒形状で、天井が高い部屋なのですが、室内の半径はおかしいほどに狭い構造です。
いえ、部屋自体が狭いのではなく、壁に敷き詰められている本棚のせいで、部屋の広さが侵食されているせいなのですが。何せ床にも平積みになった本がたくさんあるくらいですから。
「足がこう不自由だと動くのも難しいものですから。せっかくですし、持っていってください。ていうか行け」
「………………。念のためきくけど、これって願いとしてカウント?」
「わたしの命を代価にするのなら、わたしには不可能な要素を選択します。しかしこの行為は、わたしが這って進めば問題は容易に解決できます」
「だったら……」
「しかし、あなたには足がある。どちらが動いたほうが作業効率が向上し、無駄なカロリーを消費しないですむかは自明の理であるはず」
「…………。悲しいね。涙が出ちゃうよ」
『女の子だもん』ってフレーズも入れるべき? と問いかけた悪魔のジョークを無視してわたしは言いました。
「知っていますか? 本当に悲しいと涙は出ないものなんですよ」
「手厳しいね」
困ったように指先でこめかみを掻いて、悪魔は困ったように楽しそうに笑います。
わたしを笑っているのでしょうか? それとも自分に呆れているのでしょうか?
どちらにせよ、彼はこくりとうなずいて一言。
「いいよ」
――それが、彼の答え。
「また読んでる」
頭の中に残っていた声は、意外と早く聞き取ることができました。
また狭い空の向こうから悪魔がやってきたのです。
「何の本読んでるの?」
興味津々に覗き込んだ悪魔は――内容を知るや顔をしかめます。ちなみにタイトルは『遺伝子工学の真髄』
「それ面白い?」
顔こそ笑っていますが、その目に笑みがありません。まるでトカゲの丸焼きを上手そうに食っている珍グルメでも見るような目つきですね。失礼な。
「面白くない本を読むほどヒマに見えますか?」
「あまり忙しそうにも見えないけどね……」
寝たきりのわたしの姿を見ながら、悪魔は静かに嘆息します。
「たとえば?」
「――?」
「その本の話。とりあえず理解くらいはしないとね」
「書物の情報を理解するのは大切ですね」
「君を理解したいんだよ」
「……わたしを理解して何か得がありますか?」
「一応、君の魂の保有者になる男だからね。――知ってる? O型の人って取説を見ないで自分で機械を操作していくタイプなんだよ」
「…………」
しばしわたしは熟考し、わたしの知識とわたしなりの解釈の中から、最も興味を惹きそうな対象を選択してみます。
「……青い薔薇、というのを知っていますか?」
悪魔のアタマに、いくつかのクエスチョンマークが浮かびます。しかし、顔つきから見るにまったくわけが分からないというふうでもありません。
「それって、確か存在しないんじゃなかったっけ? 確か……もともと薔薇には遺伝子の中に青の色素が最初から無いって……」
「デルフィニジン。――色素の名前です」
わたしは、抑揚のない声でつぶやきます。
「あ。そうそう、それそれ」
対して、彼はとても弾んだ声。
「別の花からその色素を抽出して、薔薇に植えつける。そういった技術が確立されつつあるんです」
「なるほどね」
言いながら、悪魔は腕を組んで何やら真面目な顔を作ります。
「薔薇は嬉しいのかな。自分が、まったく別のものになることを……」
「……――!?」
思いもしない彼の反応に、わたしはしばし黙りこくってしまいます。
意外と、彼は誠実な性格なのかもしれません。
「嬉しくは無いと思います」
わたしははっきりと告げました。
「でも……」わたしは思うのです。
「もし、別のすべてが青い薔薇だったら……」
「………………」
今度は、彼が黙りこくる番でした。
彼はいったい、その頭で何を考えているのでしょうか。そして、心の中で何を思うのでしょうか。
残念ながら、わたしにはそれを探るすべはありません。
「あの」
だからわたしは、別の話題を持ち込むことにしました。
「美味しいお茶があるんですけど……」
「へえ、いいねぇ。お茶は大好きだよ」
きれいな子が淹れてくれるならなおさらね、と彼は付け加える。
しかしわたしは笑いませんでした。
「実はお茶も給湯器も『下』にあるんです」
「…………」
『何』か『ヤな予感』を『察した』のか、悪魔の顔が引きつります。この顔を見るのも久しぶりですね。
だから追い討ちをかけてやります。
「誰かが『降りて』行かないといけませんね」
「…………」
「…………」
途切れたのは会話か、それとも交渉か。
視線の殴り合いにも似た戦いは、一分と持ちませんでした。
彼が先に降参したからです。肩をすくめ、微苦笑を浮かべて。
ドアの手前で、彼は少し逡巡。わたしに「本当にいかなきゃダメ?」と視線で訴えてくるので、わたしは「黙れ」と睨んでやりました。未練がましいですね。さっさと行きなさい。
「やれやれ。身勝手なお姫様だね」
口のわりに、楽しんでいるような顔で笑って、彼はうなずきます。
そしてノブをつかむと、わたしを見て、
「いいよ」
――やはりそれが、彼の答え。
――いつの間にか、というのはこういうときに使うのでしょうか。
すっかり悪魔はわたしの部屋に入り浸るようになっていました。
いつものように窓から入っては、わたしとつたない談話をして、ときどきお茶(いつも淹れる担当は悪魔)を味わって、それから同じように窓から出て行く。
そのあとは消えているのか飛んでいるのか――羽ばたく翼どころか足もつかえないわたしには分からないですけど。
彼は、わたしに何を求めているのでしょうか?
話をしている限り、わたしに何かを勧める様子はありません。
意図的な誘導もありません。
願いを求めないわたしを叱る気もないみたいです。
わたしには、悪魔の意思が分からなくなっていました。
この疑問の種はとても大きく、みるみる膨らんでいくのがわたしの胸の中ではっきりと感じられるようになっていっていたのです。まるでしこりのように。
そして、
そして――
「あなたは何を考えているんですか?」
それはわたしにとって、彼に対する興味へと――発芽するきっかけになったのです。
「……どうしたの? いきなり?」
ブランデー入り――おや、いつの間にお酒なんか見つけたんでしょう――の紅茶を口に含んで、悪魔はたずねてきます。
相変わらずの人懐っこい笑みなのに、わたしにはそれが本物なのか演技なのか、分からなくなっていました。
「あなたはどうしてわたしに願いを叶えてほしいのですか?」
「悪魔だからね」
なんてことは無い、当たり前の返事。
「自分の願いを叶えればいいじゃありませんか」
「…………」
ティーカップを指で浮かせたまま、彼は眉をなだらかな八の字にゆがめて苦笑します。どうしてか、いつもの彼の笑顔と、どこか違って見えました。
「それは無理なんだよ」
困ったように。
「力を使うには、相手の命をガソリン代わりにする必要があってね」
どこか悲しそうに。
「魂を代価にするのはそれが理由なんだ」
あるいは達観したように。
「命を引き換えにしないと願いは叶えられない」
吹きすさぶ風の音が妙に大きく、同時にむなしく白黒の世界に響きます。
「……あなたには魂がないのですか?」
「そういうことになるね」
「ではあなたが、我欲のために使ったら……死ぬのですか?」
「いいや。――ただし能力を失う」
「人間になるということですか?」
「正確には違うかな」
「どうなるの?」
「まず空を飛べなくなる。願いを叶えるための起爆剤も用意できなくなる。たぶん、もしここから落ちたら助からない」
「……分かりやすく言うと?」
「人間に近くなる、かな?」
「一緒ではないですか」
呆れたように、わたしは彼から目をそらしました。
未だにカップには口をつけていません。
彼はいつもわたしの分も淹れてくれるのですが、わたしはこれまで一口たりとも呑んだことはありません。
「……そうだね。きっとそうだ」
それだけ返して、彼は笑います。
夢のようにまどろみ、
人のようにむなしい、
そんな〝儚〟い笑み。
わたしには理解できません。
あなたはどうしてそんなに悲しむのですか?
「君はどうなんだい?」
……え?
「君はいつもここで何を想うんだい?」
……?
それは、今まで聞いたこともない彼の声。
「一日中そこから動かないで、何かを食べるわけでもなく、何かをするわけでもなく、何かを目的としているわけでもない。起きて一番に見る青空と太陽に目を焦がしながら、君は何をしようと思いを馳せたことはあるかい? 眠る前に、窓から見える星空に見つめられながら、明日は何をしようと思い巡らせたことはあるかい? 何もないだろう? 考えたこともないだろうね。君はそうして毎日を無変化のままに過ごしてる。壁のような本をいじくってばかりだ。読んだ本から得た知識を生かす方法すら考えたことなんて一度もないんだろう!」
それは、あまりにも唐突な怒りでした。
そこに、飄々とした道化のような彼の姿は見えません。
そうか、これが彼の正体なんだとわたしは悟りました。
「君は何のために生きてるんだい?」
とても、とても真剣な声。
「こんな機械仕掛けの夢の中にいて……本当に幸せ?」
まるで、彼の心そのものを搾り出しているような……。
「…………」
わたしは、白黒の鳥かごの中で考えます。
このとき、『こんなに考えるのは始めて』と認識する自分に驚いていました。
それでもわたしは考えます。必死に必死に。
わたし、
わたし……
わたしは……
分からない……。
どうして……?
どうして答えが……?
いつもは何十通りでも言葉がすぐ浮かぶのに。
これまで何百種もの喜怒哀楽を見てきたのに。
今までに何千冊もの本を沢山読んできたのに。
たった一つの答えが出てこないなんて……。
「言わないと……いけませんか?」
それはひどく醜い言い訳でした。
飲みもしないティーに口をつけるのは、とるに足らない時間稼ぎ。
ぬるい――中途半端な味しかしません。
彼は静かに、首を振ります。
「いいよ」
――それが、彼の答え。
ああ、言葉とは不思議なものですね。
――いいよ。
今までにも同じ言葉を彼は返してきたのに。
首を横に振るだけで、意味はまったく違ってくるのですから。
あれからというものの……。
彼はやってこなくなりました。
狭い空を見ても、彼がやってくる気配はありません。
ここ何日も、わたしは会話というものをしていません。
話し相手はいつもの、本。
今までと同じ、インクで書かれた文字の数々。
今までと、何も変わらない。
何も変わってなんかいない。
わたしはいつものように、ベッドの上で本を読む。
白黒しか見えないわたしの友達は、『壁』のように囲まれたこの本だけ。
鳥かごのような部屋の中で、わたしは永遠に本を読み続ける。
足の動かぬ不完全な体を抱きながら。紙の知識に囲まれて……。
何も変わってなんかいない。
もう悪魔と話をすることはないのだろう……。
何も変わってなんかいない。
もう一緒にお茶を飲むこともない……。
何も……
文字が、かすんで見える。
わたしは、
わたしは……
泣いているのでしょうか?
涙なんて、流れてなんかいないけれど。
だけど確かに泣いている。
そう、
そう、
そうなのね……。
本当に辛いときは、涙なんて出ないんだ。
だって分かってしまったから。
変わったのは、
本当に変わってしまったのは、
他でもないわたしなのだから。
「こんにちは」
それは、久しぶりに聞いた言葉でした。
同時に、ずっと求めていた声でした。
このときを、ずっとわたしは待っていました。待ち焦がれていました。
「期限だよ」
どこか寂しげに、彼はささやきます。わたしは、夏休みの終わりを惜しむ子供の姿を、彼と重ねてしまいました。
この間の謝罪はありませんでした。わたしも、それを咎めることはしませんでした。たぶん、どちらも分かっているから……。
そう思うと――心が、ほころぶ。
「…………」
わたしは声を乗せずに、こくりとうなずいて返事をしました。
「願い事はあるかい?」
悪魔であるはずの彼の声は、天使のような優しい響きがありました。まるで、願いなんてなくてもかまわないと言いたげに。
「…………」
だけどわたしは、こくりとうなずきました。
「…………。……どんなこと?」
ほんの少しだけ悲しそうな顔をして、彼はわたしに一歩近づきます。
彼の姿がよく見えません。わたしがうつむいて、垂れ下がった前髪が視界を阻むせい。
怖かったから。
壁が。
彼とわたしを阻む『壁』を目にするのが、怖かったから。
だけどわたしは決めている。
もうずっと前に決めたこと。
わたしはそれを知っているから。
だからここにいる。
わたしは、その『壁』を越えるためにいることを。
「…………」
わたしは黙って、顔を上げます。
動かない足の代わりに、心を一歩前に出して、
彼と視線を合わせ、わたしは――ほんの少しだけ口をつぐみます。
まるで何かを溜め込むように。
これまでにもたくさんたくさん溜め込んできたはずなのに。これ以上何を胸に溜めるというのでしょう。
だけど、もう少しだけこのままにしておいてください。
今、とても不思議な気持ちなんです。
まるで夢の中にでもいるような、まるで雲のように空を浮かんでいるような奇妙な感覚。
だっておかしいじゃないですか。
白黒にしか見えないこの世界が、
今、あなたといるだけで――
世界のすべてが薔薇色に見えてしまえるなんて。
わたしは胸いっぱいにあふれる想いを詰め込んで、ずっと言いたかった言葉を口にしました。
「わたしを、人間にして」
それが、この家に置いていかれた機械人形の、ささやかな願い。
魂のないおもちゃの、わがままな願い。
たぶん、わたしの――初めての告白。
静謐の中で、わたしは彼の言葉を待ちました。
脳などない頭をうつむかせ、売り渡す魂もない胸の前で指を絡めて。
ただ、
ただ……
千々になってしまいそうな心の痛みに耐えながら、わたしは待ち続けました。
「いいよ」
――それが、彼の答え。
〈終〉
執筆日 2007年 02月05日
たぶん、わたしがなろう小説で初めて書いた恋愛小説です。
サキュバスのときといい、このお話といい、わたしは悪魔をピュアっぽく書く傾向があるようです……。
……悪魔をメインにしたこのお話が13番目というのは何の因果でしょうか(滝汗)
バラの花言葉ってかなり好きだったりします。
赤いバラが『愛』
青いバラが『奇跡』
黒いバラだと『あなたの全てはわたしのもの』
個人的には、黒いバラが一番情熱的で好みだったりします。