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12th Name 【Triazolam Fever】

 くらい。

 くらい。

 くらい……。





 リィリは思った。

 ここから逃げなくては。

 ここはシェルター。薄暗い明かりの下、コンソールの前で口元に手を当て、思案にふける。





 

 リィリは思った。

 どうやって逃げる?

 ここは天王星・ハルシオン研究所。

 太陽系の果てであるこんなところに来るといったら、一ヶ月に一度だけ物資を運んでくる宇宙船くらい。




 


 リィリは思った。

 私は研究員。

 生物学と物理学の博士号と修士号を取得している科学者だ。

 知識がある。狂ってなどいない。

 何か考えなくては。何か、何か……。





 

 リィリは思った。

 そうだ。私は正常だ。

 だから、これが夢じゃないことも知っている。






 ――生き残っているのは、自分ひとりだということを……。







 みんな、殺されてしまったのだ。






【あいつ】に……。












 リィリは思った。 

 空っぽのシェルターの中で、たった独りで。






 リィリは思った。

 ――どうして、主任はあんなものを実験に使おうと言い出したのだろう。






 リィリは思った。

 人の言うことに従うのが、正しいとは限らないって知っていたのに……。






 リィリは思った。 

 それでも従ったのは、そうしければ生きられないとも知っているからだ。

 何より……。






 リィリは思った。

 あのサンプルは何だったのだろうと……。 














 リィリは思った。

 確かガニメデの氷から採取された宇宙微生物だと言っていた。

 ただの微生物とはわけが違った。それは細胞だ。

 たとえば、人の細胞は分裂する。そのカウント回数には制限があるのだ。それが、死のプログラム。

 けれど、あの宇宙微生物の細胞にはそれが無い。

 いくらでも増えるのだ。


 まるでガン細胞のように。






 リィリは思った。

 否、宇宙微生物のあれは生殖せいしょく細胞さいぼうに近い。

 人が卵細胞のとき、そのサイズは小指のツメにも満たない、とてもミクロなものだ。

 ここから赤ん坊になるまで細胞分裂を繰り返せば、あっという間にカウント制限を破ってしまうだろう。

 だけど赤ん坊にしわは無い。なぜ?

 その瞬間だけ、細胞の増殖回数が無限に引き伸ばされるからだ。

 それが生殖せいしょく細胞さいぼう


 その細胞が、この微生物にはある。

 それはがん細胞のようなむしばむ死ではない。生のしるしだ。 






 リィリは思った。

 これは新発見だ。

 私は興奮していた。

 これは人類科学の大きな発展になる。

 ひょっとしたら、錬金術師ホーエンハイムもなしえなかった不老不死だって成し遂げられるかもしれない。

 それをつかめるかもしれないのだ。

 主任じゃない。

 つかむのは、自分だ。






 リィリは思った。

 何が何でも、この宇宙微生物を研究せねばならない。

 まずは500度の熱を与えてみることにした。

 ――死なない。

 今度は絶対零度の冷気にさらしてみた。 

 ――死なない。

 それならと、真空状態においてみる。

 ――死なない。


 なんという不死身性ふじみせい

 まるでクマムシのようなタフさだが、この宇宙微生物はそれ以上だ。



 なんてすばらしいんだ。

 もっともっと調べなければ。






 リィリは思った。

 宇宙微生物をコロニーの中で増殖させることにした。水槽の中で育てるものと考えればいい。

 するとどうだろう。水槽の中はあっという間にピンク色のアメーバみたいなものでいっぱいになったではないか。

 どうやら、細胞表面の突起物同士を結合させることで、ゲル状のような集合体に変身する機能があるらしい。イソギンチャクの群体と同じようなものといっていい。


 わかりやすく言ってしまえば、微生物はドロドロの肉塊にくかいに変身していたのだ。

 それはなんとも、不気味にうごめいていた……。






 リィリは思った。

 こいつはいったい、何を食べるのだろう。

 粘菌のようにオートミールか? それとも植物プランクトンか?


 宇宙微生物――いや、アメーバはさまざまな形に形を変えている。硝子の檻イル・ド・ヴォワルルの中で。


 球のように。ラグビーボールのように。薄っぺらいパンケーキのように。

 柔らかく。硬く。すべすべと。ざらざらと。

 まるで何になればいいのかわからない子供のように、宇宙微生物は迷って歌う。




 


 リィリは思った。

 目に止まったのは実験用のラット。

 ラットは昔から、神経構造が人間に似ていることから実験動物モルモットとして重宝されている。

 ヒトの遺伝子構造と85パーセント類似している点も、実験にスカウトされる理由のひとつだ。






 リィリは思った。

 今にして思えば、どうして自分はあんなことをしたのだろう。

 私は目についたラットの尻尾をつかんで―― 


 水槽の中に放りこんだのだ。


 その瞬間、まるで待ち望んでいたかのようにアメーバが動いた。

 目などありもしないのに、まるで眼が見開いたかのようだった。

 猛禽類もうきんるいのように、あるいは食虫植物のように素早くラットを包みこむ。

 薄い皮に包まれたラットの姿は、まるで中華料理の春巻を思わせた。


 だけどその時間は短かった。

 とてつもない勢いでラットが溶かされていったのだから。アリの蟻酸ぎさんのようなものを使ったのだろうか、骨も残さずに溶かし喰らっていったのだから……。






 リィリは思った。

 たった今起こった、自分が引き起こした現象を目の当たりにして――パニックを怜悧れいりな分析が包み、さらにそれを興奮で内包したような、凶器と理性の狭間ハザマで考える。


 間違いない。


 ――こいつは、生きているのだ。






 リィリは思った。

 こいつは生きている。

 こいつは育っている。

 こいつは食っている。


 何百何千もの時をて、氷の棺桶から蘇ったこいつは、我々ヒトの手によって立ち上がりつつあるのだ。


 だけど、形はまだアメーバのまま。自分の形を作れないでいる。

 この宇宙微生物は、いまだ不完全なのだ。

 まるで人間のように。






 リィリは思った。

 あれから何匹かのラットを宇宙微生物に与えている。

 病理実験で使い捨てたと、偽の記録で作ったエサ


 アメーバが包む。溶かす。食う。

 アメーバが包む。溶かす。食う。

 アメーバが包む。溶かす。食う。

 アメーバが包む。溶かす。食う。

 アメーバが包む。溶かす。食う。

 アメーバが包む。溶かす。食う。


 何回繰り返しただろう。

 何回喰ったのだろう。

 何をしているのだろう。


 このところ、研究は進展していない。ただ餌を与えているだけだ。

 自分の研究だけでは限界がある。

 しかし求めているのだ。もっともっと、と。

 不完全な自分が、こんなにももどかしい。






 リィリは思った。

 思い出した。

 同じスタッフのアレスが、電気実験をしていたことを。

 粘菌は無数の細胞が集まったアメーバ構造で、その細胞間を走る電気信号パターンはまるでコンピュータのように精密で、何度かバイオコンピュータの生産実験に使われていたのだそうだ。 

 その粘菌に使っていた電気実験を、宇宙微生物に転用しているというわけだ。

 これはすばらしい。

 私はこの研究に参加することにした。


 数日後、アレスは実験用のウイルスに感染して強制隔離されたので、私がこの実験のチーフを務めることになった。

 誰かがバイオスーツに細工をしたと言われているが、それは噂の風に溶けて消えていった。






 リィリは思った。

 自分が不完全であるならば、相手の能力を取り込んでしまえばいい。

 ――奪うのだ。






 リィリは思った。

 すばらしい実験結果だ。

 電気を流してみると、アメーバは確かに反応した。

 さらに、電気信号に指向性を持たせて簡単な質問をしてみると、驚くべきことにこいつは返事をしてきたのだ。

 この部屋は狭いか? とか、キャンディーは好きか? のような他愛も無い質問だが、答えたという事実には偉大な快挙がある。

 なんと、この宇宙微生物には知性があるのだ。

 それだけの知性を有しているのだろう。

 チンパンジーか? ボノボか? あるいは……。

 考えただけでわくわくする。

 ほかのメンバーの研究と組み合わせればどれだけのことができるだろう。

 それを考えただけで、笑いが止まらない。






 リィリは思った。

 もっともっと。

 ウィリアが熱にかかった。

 モットモット。






 リィリは思った。

 もっともっと。

 ユーリが怪我をした。

 モットモット。






 リィリは思った。

 もっともっと。

 主任が真空エリアで死んだ。

 モットモット。






 リィリは思った。

 モットモット。

 モットモット……。






 リィリは思った。

 私はすでに、宇宙微生物の実験に関するすべての権利を手に入れていた。

 私は何でもできる。宇宙微生物のことなら何でも知っている。

 私がすべてだ。私はお前を愛している。


 メディカルルームにいるアレスやウィリアやユーリには悪いが、すべては崇高すうこうなる科学のためだ。

 そうだ。これは未来のためなのだ。






 リィリは思った。

 さあ、実験しよう。

 いとしいおまえを、私は実験台に置く。

 怖がる心配は無いんだ。すべてはおまえを知るためにある。

 すばらしい。全身の神経が歓喜に満ちて打ち震えているかのようだった。



 さあ、メスで裂こう。

 さあ、柔らかい肉を血で染めよう。

 さあ、内臓を調べよう。

 さあ、骨を触ってみよう。

 さあ、脳味噌を出してみよう……。

 やはりラットとは比較にならないな。これはすばらしい神経細胞だ。


 いい顔をしているな。まるで主任のようではないか……。




 ……え?




 リィリは思った。

 実験台の上に置かれているそれを、冷えていく脳で、そして瞳で見下ろす。

 それは死体だった。

 人間の、死体だった。


 主任の、死体だった。






 リィリは思った。

 主任が死んでる?

 誰が殺した?

 自分だ。

 自分が殺したのだ。


 どうなってるんだ?

 何かがおかしい。

 私は大急ぎでメディカルルームに向かう。

 アレスでもウィリアでもユーリでもいい。早く何とかしなければ。

 カードキーをスロットに挿しこんで中に押し入る。


 助けを求めに来た私は、思わず息を呑んだ。


 そこにあったのは――死体だったのだ。


 アレスは腕だけだった。

 ウィリアは足の指だけだった。

 ユーリは天を見開いたままの首だけになって転がっていた。






 リィリは思った。

 どういうことなんだ……?


 体が……無い?

 

 腕から先が、足の指から先が、首の下が、完全に無くなっていたのだ。



 まるで溶かされたように。

 ……喰われたかのように。






 リィリは思った。

 あいつだ……。

 あいつが喰ったんだ。 

 宇宙微生物が。

 ラットだけでは飽き足らず、とうとう――人間に食指しょくしを伸ばしてしまったのだ。


 それを導いたのは――自分だ。






 リィリは思った。

 逃げなければ。

 残ったスタッフを連れて、私はシェルターへと逃げる。

 食料も酸素もあるし、救難信号を出しておいたから半月もあれば救援隊が来てくれるはず。

 とりあえずは、ここにいれば安全だ。






 リィリは思った。

 シェルターの中で、思いにふける。もっとも、考えるくらいしかすることが無かったし、このままでは罪の意識に押し潰されてしまいそうだったから。


 どうして宇宙微生物は人間を食ったのだろう。


 普通、未知のものに近づけば、警戒するのが常だ。

 だけどどんな形にせよ、飢えれば口にするだろう。

 そして味をしめたのだ。


 何で味をしめた?

 誰が最初だ?

 誰を喰った?

 





 リィリは思った。















 ――私だ。


















 私を喰ったのだ。










 気づけば、シェルターの中にいるのは私しかいない。

 生きているのは誰もいない。

 当然だ。みんな私が喰ったのだから。


 喰った。

 私が喰った。

 俺が食った。



 俺は飢えていた。

 どれだけラットを食っても物足りない。

 無限に増殖する細胞。

 だが無限に増殖するということは、それに必要なエネルギーも無限ということである。

 つまり、俺の飢えは永遠に満たされることは無い。


 苦しい。

 苦しい。

 苦しい……。

 

 どうしてこんなにも苦しまなければならない?

 俺が何をしたというんだ?

 氷漬けになっていた俺を、勝手に掘り出され勝手に起こされ勝手に電気を流され、なぜこんなに苦しまなければならない?

 

 誰がこんな目にあわせている?

 実験の過程で、俺は知った。

 人間の存在を。



 そうか――貴様らか。


 だから俺は腹いせに、ラットを食わせてもらった人間を最初に喰った。

 豊潤ほうじゅんな栄養源である脳を食って乗っ取った。電気信号を送信して、こいつの動きと口調と思考を真似た。

 何人かの人間を喰った。とても美味かった。

 そして主任と呼ばれていた人間を殺した。解体して調べた。


 人間というものをさらに知った。

 人間は不完全だ。

 未熟な要素を、ほかの同族から奪って補い、そして成長する。

 そうやって生きているのだと学んだ。それが正しいのだと知った。

 これを表現するのにちょうどいい言葉を知った――【弱肉強食】






 リィリは思った。

 貴様らは餌だ。十二分に味あわさせてもらった。しばらく飲まず食わずでもつだろう。

 だいぶ食べ残しが残ったが、それは非常食としてとっておこう。何が起こるかわからない。


 このまま待てば、救援隊が来る。

 俺は唯一の生存者として、お前たちの星へと三食冷暖房の待遇たいぐうで招かれる。

 何百何万何億もの人民は、俺の晩飯に成り果てるのだ。





 くらい。

 くらい。

 くらい……。



 

 宇宙のように暗い。

 飢えをしのぐために喰らい。

 それはすべてを憎むくらい。

 




 やっと俺は、自分の形を知ることができた。


 俺は生きるのだ。

 生きるためなら――  

執筆日 2008年 12月07日


激甘ノベルスからうって変わって鬱展開。

……わたし、こういう小説ばっかり書いてるんだってずっと思ってたんだけどなぁ……。

何げにいちゃいちゃスイーツ系が多いことに軽くびっくりしてます(汗)


こういうバッキバキのカタいSF小説もかなり好きです。

海外ドラマなら【X-FILES】とか、【リ・ジェネシス】とか大好きですし、小説だと星新一やジュール・ヴェルヌ作品とかが好きだったりします。



ちなみにタイトルを和訳すると『トリアゾラム熱』になります。

トリアゾラムは睡眠薬ですが、服用しすぎるとドラッグの作用を引き起こすという代物です。

薬もハマりすぎると、とんでもない毒になってしまう。

何事ものめりこみすぎるとロクなことがない、という話です。

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