第224話 便利すぎる魔法
翌朝。
俺は王立学院の寮の自室で目を覚ました。
窓の外には、夏の朝の光が差し込んでいる。
いつもなら、学院で迎える朝は少し落ち着く。
だが今日は違った。
昨日は、あまりにもいろいろなことがありすぎた。
その結果、司法院の調査官は護衛付きでハル領へ向かうことになった。
たぶん、すでに早馬で出発しているはずだ。
俺も、ハル領へ戻らなければならない。
父上は病床にいる。
ノルとレナードには、司法院の調査官が向かっていることを伝えなければならない。
ガザルと思われる男は、まだ騎士団の詰め所にいる。
黒い魔石片も、西の森の術式跡も、これから調べられる。
だが、その前に一つだけ済ませておくべきことがあった。
学院長への報告だ。
俺は、王立学院の自室を転移先として使った。
しかも、学院長からは福嶋亮太の魔法を自重するように言われていた。
緊急だったとはいえ、何も言わずに戻るのはまずい。
ヴァレスト公爵にも、学院長へ説明するように言われている。
俺は顔を洗い、最低限の身支度を整えた。
そして、学院長室へ向かった。
◇
夏休み中の学院は静かだった。
廊下を歩いても、生徒の姿はほとんどない。
普段なら聞こえる話し声や足音も、今はかなり少ない。
それでも、学院が完全に止まっているわけではなかった。
事務方らしき職員が、書類を抱えて歩いている。
教師の姿もいくつか見えた。
夏休みとはいえ、新学期の準備もあれば、研究資料の管理もある。
学院長がいる可能性は高い。
そう思って取り次ぎを頼むと、すぐに中へ通された。
扉を叩く。
「入ってくれ」
中から、いつもの低い声が返ってきた。
俺は扉を開けた。
学院長は机に向かい、何かの書類を読んでいた。
こちらへ顔を向けた瞬間、少し意外そうに眉を動かす。
「おぉ、ハル。まだ実家には帰ってなかったのか」
自然な声だった。
学院長からすれば、夏休みに入った生徒が、まだ学院に残っていたように見えたのだろう。
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「いえ。帰っていました」
「ん?」
学院長の目が細くなる。
「帰っていた?」
「はい。昨日、ハル領から王都へ戻りました」
部屋の空気が、そこで変わった。
学院長は、ゆっくりと書類を机に置く。
「……どういう意味だ」
ごまかせる話ではない。
俺は背筋を伸ばした。
「学院長。自重するように言われていた福嶋亮太の魔法を使いました」
学院長の表情が、一段低くなる。
「自重しろと言ったはずだ」
「はい」
「それで?」
怒鳴られはしなかった。
だが、声は明らかに重い。
俺は頭を下げた。
「今回は、使わざるを得ないと判断しました」
「理由を話せ」
学院長は短く言った。
俺は頷き、昨日ハル領で起きたことを説明した。
◇
できるだけ要点だけを伝える。
ハル領西の森で、死骸魔物の群れが出たこと。
その魔物たちの胸には、黒い魔石片が埋め込まれていたこと。
核を壊すと、動きが止まったこと。
王都西南の森で見つかった黒い魔石片と、特徴が似ていたこと。
森の奥で術者らしき男を捕らえたこと。
その男が、灰狼の牙の頭目ガザルである可能性が高いこと。
さらに、誰かから依頼されて動いていた疑いがあること。
ただし、貴族関与については、まだ証拠がないこと。
そして、王都ギルドと司法院へ報告したこと。
「ヴァレスト公爵にも説明しました。司法院の長として、調査官をハル領へ送る判断をされています」
学院長は黙って聞いていた。
最初は、転移魔法を使ったことへの厳しさが顔に出ていた。
だが、話が進むにつれて、その表情が少しずつ変わっていく。
怒りだけではない。
事態の大きさを測っている顔だった。
「黒い魔石片。灰狼の牙。ガザル。貴族関与の可能性」
学院長は、低く繰り返した。
「確かに、早馬の二日を待つには重い話だな」
「はい」
「君が王都へ急いだ判断は、理解できる」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、学院長はすぐに続けた。
「だが、それと転移魔法を勝手に使ってよいかは別だ」
「はい」
「転移魔法は、まだわからないことが多く、安全に使える保証もないはずだが?」
「分かっています」
「分かっている者ほど危うい」
学院長は、俺をまっすぐ見た。
「自分は分かっていると思って使うからだ」
その言葉は、かなり刺さった。
確かに、俺は危険性を理解しているつもりだった。
だからこそ、今回だけは必要だと判断した。
けれど、そこが危ない。
自分で必要だと判断できてしまうから、使えてしまう。
前世でも、そういうものを見てきた。
便利な仕組み。
便利な抜け道。
便利すぎる人材。
最初は、今だけだと思って使う。
だが、何度か使ううちに、それが当たり前になる。
学院長が言っているのは、たぶんそういうことだ。
「今回は、情報の遅れそのものが危険だと判断しました」
俺がそう言うと、学院長はしばらく黙った。
そして、深く息を吐く。
「その判断は、間違っていない」
「ありがとうございます」
「だが、次からは必ず報告しろ。事前が無理なら事後でもだ」
「はい」
「今回は事後にあたるがな」
「……すみません」
俺はもう一度頭を下げた。
学院長は眉間を押さえた。
「まったく。夏休みに入ったと思ったら、ハル領で事件を拾い、王都へ飛び、司法院まで動かしているとはな」
「拾ったわけでは……」
「巻き込まれたと言いたいのか」
「はい」
「君の場合、それも半分しか信用できん」
言い返しにくい。
俺は黙った。
学院長は呆れたように鼻を鳴らしたが、目はまだ厳しいままだった。
◇
「それで、今からどうするつもりだ」
「ハル領へ戻ります」
学院長はすぐに察した。
「転移魔法でか」
「はい」
「昨日、王都へ来るために使ったばかりだろう」
「ハル領と王都の距離では、一日一回が安全圏だと思っています。昨日は王都へ来るために使いました。今日は戻るために使えます」
「確信はあるのか」
「絶対ではありません。ただ、昨日の転移後の魔力消費と体調から考えると、一日置けば可能だと思います」
学院長は、俺の返答を吟味するように目を細めた。
「他人を連れては?」
「まだ試していません。現時点では危険です」
「司法院の調査官は?」
「早馬で向かっています。ヴァレスト公爵にも、そちらの方が早くて確実だと伝えました」
「なぜだ」
「同伴転移は未検証です。短距離で試してからでなければ、長距離には使えません。
しかも検証に時間をかければ、結局早馬の方が早い可能性があります」
学院長は、少しだけ頷いた。
「そこを分かっているなら、まだよい」
褒められているのか、最低限の失点で済んだのか分からない。
たぶん後者だ。
「ハル領へ戻る理由は?」
「司法院の調査官を迎える準備が必要です。
父上は病床ですし、ノルやレナードには、王都で確認できたことを伝えなければなりません。
ガザルと思われる男の拘束も続いています」
「なるほど」
学院長は椅子に背を預けた。
「戻る必要はある、ということか」
「はい」
「なら、今回の帰還については認める」
「ありがとうございます」
「ただし、条件をつける」
俺は姿勢を正した。
ここからが、本題だと分かった。
◇
学院長は指を一本立てた。
「まず、王立学院の敷地内を転移の起点、あるいは到着点として使う場合、必ず私に報告しろ」
「はい」
「事前が原則だ。緊急時でも、使用後ただちに伝えること」
「分かりました」
二本目。
「他人を伴う転移は禁止する。検証なしにやるな。必要があるなら、私か、信頼できる教師の立ち会いをつける」
「はい」
三本目。
「目印を増やす場合、場所と目的を記録しろ。
勝手にあちこちへ置くな」
「はい」
四本目。
「王都とハル領のような長距離転移は、緊急時、または明確な必要がある場合に限る」
「分かりました」
最後に、学院長は声を少し落とした。
「この魔法について、不必要に他者へ話すな」
「はい」
「これは正式な学院規則ではない。今この場での暫定措置だ。だが、守れ」
「守ります」
学院長は、俺の顔をしばらく見ていた。
「君は、便利なものを見つけると、すぐに実用へ落とし込む」
「……そうかもしれません」
「それは長所だ。領地を動かすには必要な力でもある」
意外な言葉だった。
俺が顔を上げると、学院長はすぐに続ける。
「だが、魔法によっては、その早さが危うさになる。転移魔法はその最たるものだ」
「はい」
学院長がじろりと俺を見た。
「不満そうな顔をするな。君が使った魔法は、その程度には影響が大きい」
「……はい」
何も言えない。
実際、昨日の転移一つで、王都ギルドと司法院の初動は二日早まった。
距離を消す。
時間を縮める。
その意味は、俺自身が一番感じている。
学院長は、少しだけ声を和らげた。
「ハル」
「はい」
「今回、君が王都へ飛んだ判断そのものは責めない」
俺は顔を上げた。
「ただし、その魔法に慣れるな」
「慣れるな、ですか」
「ああ」
学院長は、机の上の書類を指先で軽く叩いた。
「便利な手段は、何度か使ううちに当たり前になる。
最初は緊急時だけと思っていても、次第に理由をつけて使うようになる」
その言葉は、前世の記憶にも重なった。
便利なものは、人を助ける。
だが、使い方を誤れば、判断の基準まで変えてしまう。
俺は静かに頷いた。
「分かりました」
「本当に分かっているかは、今後の君を見て判断する」
「厳しいですね」
「当然だ」
学院長は即答した。
「君は十三歳で、すでに放っておくには危なすぎる」
褒められているのか、警戒されているのか。
たぶん両方だ。
◇
学院長室を出る時、俺はもう一度頭を下げた。
「報告が遅れて、申し訳ありませんでした」
「次からは早く来い」
「はい」
「ハル領へ戻ったら、まず大人たちと連携しろ。司法院の調査官も向かっている。君一人で抱えるな」
「ヴァレスト公爵にも、同じことを言われました」
「なら、二人分聞いたことになるな」
「はい」
学院長は鼻を鳴らす。
「行け。だが、無茶はするな」
「分かりました」
「……その返事が一番信用ならん」
最後にそう言われた。
俺は何とも言えない顔で学院長室を出た。
◇
自室へ戻る途中、学院の廊下は相変わらず静かだった。
だが、さっきとは少し感じ方が違う。
昨日、俺はここへ転移してきた。
そして今日、ここからハル領へ戻る。
学院長に報告したことで、少なくとも完全な無断使用ではなくなった。
しかし、許されたから軽くなるわけではない。
転移魔法は、やはり重い。
俺は自室に入り、扉を閉めた。
床に刻んだ目印は、昨日と同じ場所にある。
見た目にはほとんど分からない。
だが、魔力を向けると、そこに確かな反応があった。
持ち帰るものを確認する。
王都ギルドで確認された灰狼の牙の記録。
司法院が調査官を送ったこと。
ヴァレスト公爵の判断。
学院長に報告済みであること。
これらを、父上達に伝えなければならない。
俺は目印の前に立つ。
ハル領の自室に設置した目印を思い浮かべる。
机。
窓。
床板の継ぎ目。
昨日、自分で刻んだ術式。
目を閉じ、魔力を流す。
王立学院の目印が淡く反応した。
遠くにあるハル領の目印を探る。
昨日よりも、少しだけ感覚が掴みやすい。
俺は呼吸を整えた。
入口を開く。
出口を固定する。
道を通す。
視界が白く弾けた。
◇
次に目を開けた時、そこはハル領の自室だった。
朝の光が、窓から差し込んでいる。
見慣れた机。
端に寄せた荷物。
床の隅に刻んだ目印。
淡い光が、すぐに消えていった。
戻ってきた。
俺はしばらく動かず、体の感覚を確かめる。
めまいはない。
吐き気もない。
魔力の消耗はあるが、昨日ほどの緊張はない。
転移は成功した。
だが、安心している場合ではない。
王都での報告は終わった。
司法院も動き始めた。
学院長にも筋は通した。
けれど、事件が終わったわけではない。
俺は自室の扉へ向かった。
まずは、ノルとレナードに伝えなければならない。
ハル領は、王国の司法院の調査官を迎える準備に入る。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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