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『花を愛する魔女』

作者: 月凪
掲載日:2026/02/23

 さあ、どうか耳を傾けてください。

これは昔々の、ある小さな村のお話です。


 幼い頃、少年は両親から、友から、隣人から、深く深く愛されていました。整った顔立ちに、素直な性格、誰とでも分け隔てなく接する人徳。少し羨ましがられることはあれど、彼を疎む者はひとりもいませんでした。


 村の誰もが彼の笑顔を愛し、彼の笑い声を愛していたのです。朝になれば子どもたちが彼の家の前に集まり、昼間には畑仕事の合間に大人たちが声をかけていきました。そんな、ありふれているけれど確かな幸福が、この少年の日常でした。


 少年が十回目の誕生日を迎えた、春の日のことでした。暖かな陽射しの中で、彼は突然、病に倒れました。


 村一番の名医が診ましたが、見たこともない症状に首を傾けるばかりでした。高い熱が続き、最初は気丈に笑っていた少年の顔からは日を追うごとに笑顔が消えていきました。


 食べ物の味も、外の匂いも、だんだん遠くなっていくような気がして、少年はそれをうまく言葉にできないでいました。指先がいつも少し冷たく、夜中にうなされることが増えていきました。


 両親は悩み、苦しみました。今この瞬間も、息子が病に苦しんでいる。しかし生まれも育ちも村の中、畑仕事しか知らない二人には、どうすることもできません。


 母親は少年の手を握りながら、声を殺して泣きました。父親は夜ごと天を仰ぎ、星に祈り続けました。泣いてもいい、弱くてもいい。ただ、息子だけは助けてほしい、と。


 そこへ少年の幼い友が言いました。


「帝都の医者に診てもらおう」


 しかし帝都へ行く路銀もなく、診てもらう費えもありません。困り果てた両親の前に、今度は隣人が進み出ました。


「そんなこと、この村の皆で出せばいい」


 誰も金を惜しみませんでした。優しい農夫も、綺麗な織り子も、強面の鍛冶屋も、老いた村長も、皆が少しずつ硬貨を持ち寄りました。事情を知らぬ旅人までもが、袋に握り銭を入れていったほどです。


 やがてそれは大きな袋いっぱいになり、馬車と数週間分の食料と共に両親に手渡されました。


「必ず治して連れて帰っておいで」


 村の人々の言葉を背に受け、一家は旅立ちました。


 道中、母親は少年の汗を丁寧に拭い、父親は揺れる馬車の中で息子を抱きしめるようにして眠らせました。粥を冷ましながら匙で食べさせ、熱が上がれば濡れた布で額を冷やし、それでも二人はなるべく明るく振る舞いました。息子の前では泣くまい、と。声が震えそうになるたびに、互いの手を握りしめながら。


 数日の旅を経て、家族はようやく帝都へたどり着きました。


 すぐに名高い医者の許を訪ねましたが、帝国一と謳われる医者でさえ、この症状には皆目見当がつきませんでした。いくつかの薬を試し、いくつかの処置を施したけれど、少年の体は応えませんでした。そして医者は、眼を伏せながらこう言いました。


「このままでは……十六歳の誕生日を越えることは難しいでしょう」


 両親は言葉を失いました。まだ十歳なのに。まだこんなに小さいのに。しかし医者は少し考え込み、静かに続けました。「一つだけ、心当たりがある。国一番の占い師を頼ってみてはいかがでしょう」


 両親はもはや、なりふり構っていられません。すぐさま占い師の元を訪ねました。老いた占い師は少年に水晶玉を翳し、長い沈黙の後にこう言いました。


「彼の身を癒すには、魔女の花が必要だ」


 深い昏い森の奥。『呪いの魔女の暗闇』と呼ばれる場所に、一軒の迷い家があります。ただの人間ではたどり着けません。森に立ち入れば最後、永遠にその闇をさまよい続け、二度と帰れないと言われています。その魔女は花を愛しており、家の周りにはいつも、季節に関わりなくあらゆる花が咲き乱れているといいます。


「その花々の中で、一等輝く花を煎じて飲ませよ。それが、その子の助かる唯一の道筋だ」


 占い師はそれだけ言うと、深く目を閉じました。


 父親は母親に息子を託し、ひとりで森へと向かいました。森は昼間だというのに薄暗く、木々は絡み合い、獣道さえ消えていました。どこを歩いているのか、もうわかりません。


 それでも父親は足を止めませんでした。怖い、とは思いませんでした。息子の顔を思えば、それ以上の感情が湧き上がってきたから。


 そして、見つけてしまったのです。


 昼間に踏み入ったはずなのに、空は満天の星空でした。木々の向こうに一軒の家があり、その周りには春夏秋冬の花々が同時に、信じられないほど鮮やかに咲き誇っていました。まるで時間そのものが止まっているかのような、美しく異様な光景でした。


 父親は静かに、魔女に気づかれぬよう花の中へ踏み込みました。一等輝く花を探して、探して、探し続けました。目当てでない花を踏み荒らしながら、葉を掻き分けながら、それでも父親の眼には息子の顔しか浮かんでいませんでした。探して、探して、探して、探しました。どれほどの時が経ったでしょう。


 とうとう見つけました。どの花よりも美しく、どの花よりも輝く、その一輪を。


 父親はそれを持ち帰り、震える手で煎じて、少年に飲ませました。


 するとどうでしょう。


 長らく床に伏せっていた少年が、みるみるうちに血色を取り戻し、瞳に新緑の光が戻り——やがていつもの、あの笑顔を見せてくれたのです。


 家族が村へ帰ると、村の人々は歓声を上げ、涙を流し、夜通しお祭り騒ぎをしてお祝いしました。少年は心底幸せそうに、柔らかく笑っていました。


 めでたし、めでたし。


……本当に?


**********


 ハッピーエンドから、三年が経ちました。


 少年——ニスト・ギニアは、十三歳の誕生日を迎えませんでした。正確に言えば、迎えられなかったのではなく、迎えても何も変わらなかったのです。


 体が、成長を止めていました。


 肌には傷がつかず、病もせず、空腹さえ感じなくなっていきました。鏡の前に立てば、あの日と変わらぬ顔がそこにいます。十歳の体のまま、若葉色の瞳だけがひっそりと、鏡の向こうからこちらを見ていました。


 両親は最初、喜びました。息子が元気でいてくれる、それだけで十分だと。病が癒えたのだと、神への感謝を口にしました。


 しかし四年が経ち、五年が経ち、六年が経っても少年の顔がいっこうに変わらぬまま、周りの友が背を伸ばし声変わりをし、やがて恋をして所帯を持ち始める頃になって、村の人々の眼が変わりました。


「あの子は呪われているのではないか」


 最初はひそひそ声でした。それがいつしか表立った言葉になり、石になり——ニストは村を追われました。


 彼を追い出したのは、住民だけではありませんでした。老いていく両親もまた、やがて息子に顔を向けられなくなっていったのです。


 周りの子どもたちは成人し、共に酒を酌み交わし、仕事を覚え、世帯を持った。しかしニストだけは、見た目のせいで酒を断られ、まともな仕事も与えられず、伴侶を持つことも許されませんでした。いつまでも子どものような息子は、やがて両親の心の中で、愛しい我が子から、重荷へと変わっていったのです。


 ある夜、父親はニストに背を向けたまま言いました。「お前のことは愛している。だが、もう出ていってくれ」と。母親は泣いていました。しかし引き止めませんでした。その涙がニストには、長い間、忘れられませんでした。

両親との最後の記憶として、長く長く、彼の心に刻まれることになりました。


 ニストはひとりで歩きました。

町から町へ、村から村へ。変わらぬ顔と変わらぬ体で、十年が過ぎ、五十年が過ぎ、百年が過ぎました。


 知った顔は誰もいなくなりました。会う人ごとに不審がられ、時に追われ、時に実験体として狙われ、それでも死ねませんでした。


 体だけは頑丈で、傷がついてもすぐに塞がり、どんな病にもかかりませんでした。痛みはあります。苦しみもあります。ただ、死ねないだけで。


 あの夜、父親が持ち帰った一輪の花。占い師が言った「魔女の花」。それが煎じられて、少年の命を救い——そして同時に、少年の時を奪ったのです。


 魔女が手ずから育てた、世界にたった一輪の花。それを飲んだ者は死ねない。ただし、時間は溜まり続ける。百年分の、二百年分の、三百年分の時が、体の内側にじわじわと、静かに、積み重なっていく。水が器に満ちるように。

堰き止められた川のように。いつか、溢れるその日まで。


**********


 ある冬の日、ニストは気がつくと、森の入り口に立っていました。いつからそこにいたのか、引き寄せられたのかもわかりません。


 深い昏い森。昼間だというのに陽の光が届かない、底知れぬ暗がり。木々は天を覆い、足元の土は濡れていて、どこかから水の音がするけれど、その出どころはわかりませんでした。


「……どうせ死ねないなら」


 ニストは一歩、踏み込みました。


 迷いました。何度も同じ木の前に戻り、何度も同じ岩を踏み、何度も何度も道に迷いました。それでも足を止めませんでした。止める理由がなかったから。立ち止まって考えるべき未来が、もう何もなかったから。


 どれほど歩いたでしょう。気がつくと、空が——星空でした。


 見渡す限りの花が、夜の中に輝いていました。春のフリージア、ガーベラ。夏のペチュニア、サルビア。秋のコスモス、ヒガンバナ。冬のアネモネ、ストック。それらが同じ場所で、同じ夜に、同時に咲いている。あり得ない光景。まるで時間の止まった場所。


 ニストは思わず息を飲みました。

美しかった。恐ろしかった。

そしてどこか——なぜか懐かしかった。


 一軒の家が、花々の向こうに見えました。


 扉の前に、小さな人影がいました。銀髪の、緋色の瞳の、十歳ほどに見える少女。しかしその瞳の奥に宿る何かが、ニストの全身の毛を逆立てました。長い年月をかけて研ぎ澄まされた、見えないはずのものを見通す眼。


「……そこにいる者、何用かしら」


 少女の声には、年齢など関係のない、深く静かな重みがありました。こちらを向いてもいないのに、ぴたりと言い当てるように言葉が頭の中へ飛んできます。


「あら、随分と素敵な祝福を受けたのね、人間」


 細い指が顎にそっと触れ、緋色の瞳が細くなりました。まるで珍しい標本でも見るような目つきです。ニストは思わず後ずさりかけて、踏みとどまりました。


 ニストは問いました。「貴女は……」


「他者に名を問う時は己の名を先にと、習わなかったのかしら」


「ぼ、僕は! ニスト! ニスト・ギニアです! 魔女様、貴女様にお願いがあり参りました!」


 少女——魔女はニストを、上から下まで眺めました。まるで値踏みをするように。それから、ゆっくりと口を開きました。


「そう、ニスト・ギニアね。私はリニア、リニア・ローゼ。この森に棲む怖い怖い魔女よ」


 口元は微笑んでいました。目は笑っていませんでした。


「大方、願いというのはその身に宿した魔術のことでしょう? 私の庭を荒らした、あの愚かな人間の子かしら」


「……っ」


 ニストが謝罪の言葉を探す間も無く、リニアは目の前に立っていました。ほんの瞬きの間に。家の扉の前にいたはずの少女が、花畑の外側に立つニストの、ほんの目と鼻の先に。足音もなく、気配もなく。


ただ、いた。


 その笑みは外見の幼さとはかけ離れ、妖艶で美しく、そして悍ましかった。普通の人間の倍近く生き、数え切れないほどの危難を潜り抜けてきたニストにも、目の前の存在の底は見えませんでした。理解できないのではなく、見ようとすることすら憚られるような、そういう怖さでした。


 そして、リニアは腰の抜けたニストを見下ろすと、小さな鼻を一つ鳴らしました。


「ふっ。その惨めで哀れな姿に免じて、話は聞いてあげる。……その前に、あなたは些か汚すぎるわね。浴室を貸してあげるから、どうにかなさい、雑草」


 パチン、と澄んだ音が鳴りました。


 次の瞬間、ニストは浴室にいました。全裸で。


「へ?!」


 黄色と白のタイルに、美しい金の装飾が施されたバスタブ。バスタブには湯が満々と湛えられ、湯気が柔らかく揺れています。花の香りがしました。甘く、澄んだ、ニストが嗅いだことのない香りでした。百年を旅した体に、その温もりは、少しだけ沁みました。


 呆然と見回していると、突然、シャワーヘッドが持ち主もなく宙に浮き上がり、遠慮なく湯を浴びせてきました。


「うわ! な、なんだ? わっ、ぶっ」


 続けてスポンジが、石鹸が、まるで意思を持った生き物のように動き出し、旅で積み重なった汚れを容赦なく落としにかかりました。驚いて慌てているうちにシャワーの湯が口に入り、ニストがむせ返ると、一連の動作はぴたりと止まりました。次の瞬間、ニストの体は宙に浮き、そのままバスタブへ——。


「ぼ、ぼぼぼが……っ!」


 危うく溺れかけました。死ねない体でなければ、百数歳の旅人は本日もっと情けない最期を遂げていたかもしれません。


**********


 四捨五入すればかろうじて入浴と呼べる時間を終えたニストは、気がつくとどこか高級感のある礼服に身を包まれ、テーブルの椅子に座っていました。


「見られた……すべて見られた……」


 両手で顔を覆うニストを他所に、リニアは対面の席で優雅に紅茶を啜っていました。カップをソーサーに置くと、何者かがいるかのようにティーポットが静かに浮き上がり、カップへと紅茶を注ぎ足しました。


「ガキの見た目して何を言ってるのよ。レディに身支度を手伝ってもらったのよ、男として、これ以上の誉れはないでしょう」


 それはお互い様では、という言葉は飲み込みました。また水責めにされては敵わない。死なないからこそ、ただただ苦しいだけなのです。


 ニストは座り直し、居住まいを正しました。


「魔女様。僕の呪いは、どうすれば解けるでしょうか」


 単刀直入に聞きました。遠回しにしている余裕も、体裁を整える気力も、とうにありませんでした。


「……呪い、ね」


 リニアはカップを持ったまま、少し間を置きました。


「不可能よ。その魔法は解けない」


「な、なぜですか! これは貴女の魔法でしょう!」


 ニストは椅子を立ち、テーブルに両手を置き、前のめりになってくってかかりました。いつもは物静かなニストが、百年以上積み上げてきた疲労と焦りを、ここで初めてぶつけるように。


「ええ、そうよ。それは私がかけた魔法」


 魔女はニストの圧を気にすることなく言いました。


「それなら——!」


「私がかけた対象は『花』よ」


「……え」


 ニストの勢いが、思考のために止まりました。


「いいわ、一から教えてあげる。私は花にこう魔法をかけたの」


 森の魔女、リニア・ローゼは人差し指をぴんと立て、ピンクの唇の前に静かに置きました。


「『永遠に枯れず、永遠に輝く、終わりのない不変の美しさを私に魅せなさい』っとね。そしてその魔法の核となる花には、目印として一等美しい輝きを放たせた。……そう、貴方が口にした花のことよ」


 魔女は緋色の瞳を細めて言いました。


「……っ」


「さて、ここからは魔術の構成のお話。術式の核そのものを体に取り込んだ貴方の場合、本来なら花の術式を解けばいいところを——何者かが変に手を加えたことで、術式が捻じれてしまったの」


 細い指がくるくると宙を回って、捻じれを表現しました。


「術式が……捻じれた?」


「そう。花の組織に沿うように組み込んだ術式が、貴方の体に取り込まれたことで、バラバラに分散されたの。不思議なことに——その術式が貴方の体に馴染んでしまった」


 リニアは続けました。


「本来なら、花が損傷した段階で魔法が綻ぶか、貴方の身体が耐えきれず朽ちるか、どちらかのはずなのだけど。一体、何をしたのやら」


 半分呆れた声で言われ、話が止まりました。


「……その頃の記憶は朧げなのですが、確か帝国の占い師が、薬草や妙な液体を加え、呪文を唱えながら煎じていました」


 ニストは数十年前のとうに錆びついてしまった記憶を探り、答えました。


「ふぅん、帝国の占い師ね。人間に魔力があるわけないから、呪文はただの真似事でしょうけど、大方その妙な液体でしょうね。稀にあるのよ、数多の薬草を混ぜ合わせることで、魔法薬に似たものが生まれることが。花の魔力が、上手く作用したのでしょうね」


「……それでは、この身に宿った魔法は、解けないのですか」


「解けないわね。それに、解く気もないわ」


 リニアはきっぱりと言いました。温度のない、しかし残酷でもなく、ただ淡々と事実を述べるような声でした。


 ニストは押し黙りました。俯いて、膝の上で拳を握りました。二百年分の疲れが、一度にのしかかってくるような沈黙でした。それでも、顔を上げました。


「それでは——魔女様!」


「……何よ」


「僕に、魔法を教えてください!!」


 リニアは動きを止めました。カップを持つ手が、ほんの少しだけ止まりました。


「……は?」


 ニストはリニアの家に置かれることになりました。元から帰るところのないニストは、ここで自分の身に宿った呪いの解呪の方法を探すことにしたのです。


 そしてそれを、リニアは静かに受け入れました。なぜかは、彼女自身にもよくわかりませんでした。五百年の孤独の中で眠り続けていた何かが、微かに、ざわめいたのかもしれません。それとも、ただ退屈だっただけかもしれません。彼女は自分の心の動きを、あまり深く追いかけないようにしていました。


 魔女の家は外観とは異なり広く、廊下は延々と続き、扉の奥には深い闇があって何があるのかわかりませんでした。夜にはグナァグナァっと奇妙な音がして、窓の外には見たこともない生き物が花の間をのんびりと歩いていました。最初の夜、ニストは部屋の隅で膝を抱えて夜明けを待ちました。


 しかしリニアは、特に何もしませんでした。ニストに魔術を教えることも縛ることも、閉じ込めることも、痛めつけることもなく、ただ家に居させました。食事を出し、部屋を与え、「うろうろするな」とだけ言いました。


 魔法は教えてくれませんでした。魔力というものは『魔女』という種族に宿るものであり、人間には不可能なのだと、そして魔法は『魔女』個人個人の感覚で使っているので他者に再現は不可能なのだと言われました。


 ニストはしばらく反論しようとしましたが、リニアの説明の論理的な確かさと、五百年という積み重ねの前には、言葉が出てきませんでした。ならばせめて、呪いの解き方の手がかりだけでも——そう思って留まることにしたのです。


 ニストは最初のうち、魔女の様子をこっそり観察していました。リニアは毎朝、花に水をやりました。一輪一輪丁寧に、話しかけるようにして。冬の花には暖かな言葉を、夏の花にはジョークを効かせた言葉を、秋の花にはひっそりと。春の花には少しいじわるな言葉を。花の種類によって声色が変わるのを、ニストはいつしかそれを楽しみに眺めるようになっていました。


「……ニスト、何を隠れて見ているの」


 ある朝、リニアに声をかけられました。「見てない」と言いかけて、ニストは止まりました。嘘をついても意味がない気がして。


「花に話しかけてるのかと思いまして」


 リニアは少し間を置いてから言いました。


「そうよ。話しかけているわ。それに何か問題が?」


「ないです」


「なら見るな」


「……ごめんなさい」


 そんなやりとりが、幾度となく繰り返されました。リニアは毎回「見るな」と言い、ニストは毎回「ごめんなさい」と答えました。しかしニストが本当に見るのをやめた日は、一度もありませんでした。そしてリニアも、本気で追い払おうとはしませんでした。


**********


 夜中、ニストが眠りにつくのを確かめてから、リニアは庭に出ました。


 月明かりの下で、ペチュニアが白く光っていました。


 リニアは水差しを手に、一輪一輪に語りかけながら歩きました。いつもの習慣でしたが、今夜は言葉が出てきませんでした。


 家の中に、誰かがいる。


 その事実が、まだ慣れません。五百年以上、ずっとひとりだったのです。食事を出せば礼を言われる。驚けばよろける。眠れば寝息を立てる。ただそれだけのことが、いちいちリニアの中で引っかかりました。当たり前のことが、当たり前でなくなる感覚。五百年ぶりの、奇妙な温度。


 ——面倒なことになった。


 そう思いながら、リニアはペチュニアの茎をそっと正しました。花は黙って、夜の中で揺れていました。



**********


 ニストは少しずつ、リニアのことを知っていきました。彼女は花が好きで、しかし花は枯れるから悲しくて、だから枯れない『祝福』の魔法をかけて、それでも枯れた花のことをずっと覚えていること。


 五百年以上をこの森で過ごし、人間をほとんど信用していないこと。自分を呪いの魔女と呼ぶ者たちを憎んでいるわけではなく、ただ疲れていること。


 ある日、リニアは語ってくれました。この森には来る者を惑わし花畑に近づかせない魔法を施していること。惑わした者は少し彷徨わせて森の外に出すようにしていること。


 花畑にたどり着いた父親とニストは少しおかしいのだと、呆れた顔で言われました。ニストはなんとなく、誇らしいような気持ちになりました。


 ニストもまたリニアに、自分の旅の話をしました。孤独な旅でしたが、少し救いもあったのです。一つの場所に留まることのできなかった彼は、世界を歩き続けました。


 緑の国と言われる自然豊かな国の国宝である美しい湖の話、帝国にある小さくて美味しいパン屋さんの話、東方の島国にある気になるピンクの花の話——木の枝いっぱいに咲いて、春になると花びらが雪のように舞うのだと、広い世界の話を、ニストは不思議に思うほどすらすらと語れました。それを話している時間だけは、長い旅の孤独が、少し違う色に見えました。


 リニアはこの森から出たことがなかったので、まるで姿どおりの少女のように、興味深く耳を傾けていました。緋色の瞳が少しだけ輝いて、「それで?」と前のめりになりそうになる自分を、彼女は密かに抑えていました。


 ある秋の夕暮れ、二人は花の前に並んで座っていました。「リニア様は、ここに一人で住んでいたのですか?」とニストが聞くと、リニアは少しだけ緋色の瞳を細めました。


「独りぼっちよ、ずっと、ずっと、ね」


「……五百年も?」


「そう」


「……そっか」


 それきり二人は黙っていましたが、その沈黙は不思議と居心地が悪くありませんでした。夕焼けが花畑を橙に染め、コスモスが風に揺れて、二人の影が並んで伸びていました。同じ孤独を生きてきた者だけが知る、言葉のいらない時間でした。


**********


 ニストは気がつかないうちに、リニアを恐れなくなっていました。そしてもう少し時が経った頃——気がついたら、恋をしていました。


 それを自覚した夜、ニストは花の中に座り込んで、ひとり途方に暮れました。人間のように老いることもできない自分が、五百年を生きた魔女に、恋をしている。どこまでもちぐはぐで、どこまでも滑稽な話でした。しかし、心は正直でした。どれほど打ち消そうとしても、翌朝リニアの声が聞こえると、胸が勝手にざわめきました。


 ある夏の昼下がり、リニアは突然「暑い」と言いました。それだけ言うと、庭の中心に向かって指を鳴らしました。


 次の瞬間、空中から水が降ってきました。細い糸のような水が、花畑の上にそっとかかり、水しぶきが虹を作りました。


 リニアはその中に歩み入り、銀髪を濡らして、目を細めました。


 ニストはその様子を縁側から見ていました。怖い魔女のはずでした。威厳があって、底知れなくて、近づきがたい存在のはずでした。それなのに今、目の前にいるのは、水しぶきに足をとられて少しだけよろけた、小さな少女でした。


「……見てるんじゃないわよ」


 振り返ったリニアの頬が、心なしか赤かった気がしました。気のせいかもしれません。ニストはそっと目をそらしながら、自分でも理由のわからない動悸を持て余しました。


 ある冬の日、城の温度調節を司る術式に不具合が起こり、二人はリニアの火の魔法で暖を取ることになりました。しかしさすがにずっとこのままでは術式を治すことができません。


 そこでニストは、旅の途中に東方で見聞きした「コタツ」というものを思い出しました。机の下に熱源を置き、毛布で覆って熱を逃がさない——その仕組みをリニアに説明すると、彼女は「ふぅん」と一言言って、保温の魔法をかけてくれました。


 術式を治してからも炬燵は役立ちました。二人でまったりしながら、蜜柑を剥いて食べるのが、気づけば冬の習慣になっていました。リニアが「この果物、嫌いじゃないわ」と言ったのを、ニストはなんだかとても嬉しく思いました。


**********


 二人が出会い早くも二百年の時が経ちました。永遠に生きる彼らには瞬きのような時間でした。しかしその二百年の中に、春が二百回来て、花が二百回咲いて、二百回の冬を二人で越えたのです。それは、短くなかった。


 リニアもまた、気がついていました。自分の中に生まれた感情に。それが「寂しさを埋めるもの」ではなく、たしかに「一人の少年への愛情」であることに。五百年かけて冷え固まったと思っていた何かが、じわじわと溶けていく感覚を、彼女は持て余しながらも手放せずにいました。


 しかしリニアは初めから知っていました。彼の魔法を解く唯一の方法を。バラバラになった術式を紐解くことは、砕けた窓ガラスの破片を一粒の欠けなく元に戻し砂に還元するようなものだ、と彼女は考えていました。ただ、一つだけあるのです。御伽噺のような道理も原理も理解できない、解除の方法が。


 それは——『真実の愛のキス』


 それをすれば止まっていた時計が、一瞬で三百年分を取り戻す。それは——死を意味していました。


 リニアは花に水をやりながら、ひとりで考え続けました。春が来て、夏が来て、また秋になりました。そしてまた、春が来ました。告げるべきか。黙っているべきか。どちらを選んでも、何かが失われる。そのことを、リニアはよく知っていました。



 庭のペチュニアが咲いていました。白い花びらが、朝の光の中でかすかに揺れていました。


 ニストは縁側に座って、その花をぼんやり見ていました。隣に、リニアが来て座りました。しばらく、二人は黙っていました。


「ねぇ、リニア様」


「何だ」


「僕、この花、好きです」


「……そう」


「貴女が育てたから、好きなのかもしれないですね」


 リニアは答えませんでした。風が吹いて、ペチュニアが揺れました。


「ニスト」


「はい」


「……ひとつ、聞くね」


「うん」


「——怖くないの? 死ぬのが」


 ニストは少し考えました。草の上に視線を落として、柔らかく笑いました。


「怖いけど」と言いました。


 それから、ぼそっと、独り言のように呟きました。「でも、三百年分、疲れた気もする」


 リニアはその言葉を、黙って聞いていました。リニアは『魔女』として生まれました。それは、幾千の時を生きる土台があるということです。対してニストは『人間』として生まれました。人間の寿命にはどうしても枠というものがある。ニストは『人間』の枠から大きく外れてしまっている。それはいずれ、自我を壊してしまう——そのことを、リニアはずっと前から知っていました。あと何年かすれば、この少年の笑顔が変わっていく。目が濁っていく。それを、ただ見ていることしかできない。そのことが、五百年の孤独よりずっと、耐えがたかった。


「誰かと一緒にいられた。それだけで……充分、すぎるくらいだった」


 長い沈黙でした。ペチュニアが風に揺れていました。


 リニアはゆっくりと立ち上がり、ニストの前に回りました。その緋色の瞳が、まっすぐに若葉色を見つめました。


「……ごめんね」


 小さく零れた声は、花びらよりも軽く、風に溶けそうだった。


 七百年、止め続けた時間。

 枯れさせまいと縛り続けた花たち。

 孤独を覆い隠すための魔法。


 すべてを抱いたまま、彼女は一歩、距離を詰めました。


 彼の手に触れる。温かい。生きている。

 その事実が、胸を締めつける。


 彼女は背伸びをするように、そっと彼の頬に手を添えました。指先が触れた瞬間、森の空気が張り詰める。花々がざわめく。風が止まる。


 彼の若葉色の瞳が、やわらかく細められました。


「リニア」


 名前を呼ばれる。それだけで、永遠が揺らぐ。


 彼女は目を閉じた。そして、唇を重ねる。


 触れた瞬間、熱が走りました。凍りついていた時間が砕ける音がします。森の奥から、深く、鈍いひび割れの音。ペチュニアの花弁が一斉に舞い上がります。彼の体が、微かに震える。


 唇が離れた瞬間——


 風が吹きました。


 その瞬間、魔法が解けました。止まっていた森の時間が、堰を切ったように流れ出す。


 ニストの体に、時間が流れ込んできました。ゆっくりではありませんでした。三百年分の時が、一息に——波のように。体が軋みました。少年の肌に皺が刻まれ、茶髪に白が交じり、若葉色の瞳が穏やかに霞んでいきました。


 しかしニストは、苦しそうな顔をしませんでした。むしろ——ほっとしているように見えました。


「……リニア様」


 声が、少し掠れていました。


「またね」


 リニアの腕の中で、ニストは静かに目を閉じました。ペチュニアが、春の光の中で揺れていました。



 ニストが息を引き取ったとき、何かが解けました。森の中で止まっていた何かが、ほどけるように消えていきました。立ち入る者を惑わす魔法が、解けました。時間を止める魔法が、解けました。


 深い昏い森に、朝の光が差し込みました。鳥が鳴きました。風が吹きました。葉が揺れ、木の根元の草が、そっと動きました。


 庭の花々が、少しずつ変わっていきました。四季が同時に咲き誇っていた花園が、静かに——春の花だけになりました。


 リニアはしばらく、ニストを腕の中に抱いたまま、動きませんでした。


 泣きませんでした。泣き方を忘れたのか、それとも五百年の間に涙が尽きてしまったのか。ただ、抱いていました。長い、長い間。春の風が二人の間を吹き抜け、白いペチュニアの花びらが、ゆっくりと舞い落ちていきました。


 やがて太陽が高くなった頃、リニアはゆっくりと立ち上がりました。家の中を、一度だけ見回しました。ニストが座っていた縁側。二人で並んで眺めた庭。炬燵の温もりを覚えている角。それから、扉を閉めました。


 そして歩き始めました。森の外へ向かって。


 森の道は、もうまっすぐでした。迷いなく、光の方へ続いていました。外に出ると、春の風が頬を撫でました。五百年ぶりの、普通の春の風でした。リニアは少しだけ目を細めました。知っているはずの風が、初めて触れるもののように、柔らかく感じました。


 リニアは、旅に出ました。彼の見た世界と花を、見て回るために。止まった時間の中で育てた花ではなく、季節の中で咲いて、枯れて、また芽吹く花を、見るために。春には春の花が咲き、夏には夏の花が、秋には秋の花を、冬には冬の花が輝く。当たり前の、しかしリニアが長い間忘れていた、命の巡りを。


 『呪いの魔女の暗闇』と恐れられたあの森は、やがて人々に発見されました。四季が巡り、様々な花が咲き、柔らかな光が差し込む、『美しい森』として。子どもたちが遊びに来るようになりました。家族連れが散歩するようになりました。植物を研究する学者が訪れるようになりました。誰も迷いませんでした。誰も帰れなくなりませんでした。


 その森の奥に、今も古い家があります。扉は固く閉じられていますが、周りには毎年春になると、彼の好きだったペチュニアがもっとも美しく咲くのだといいます。植えた者もなく、世話をする者もなく、それでも毎年、必ず。



 旅の途中のリニアは、時々ふと空を見上げます。見知らぬ土地の、見知らぬ花畑の中で。小さな体に、銀髪を揺らし緋色の瞳で。


「——またね、か」


 そう小さく呟いて、また歩き出します。


「次は東方の木になるピンクの花とやらを見に行こうかしら。期待はずれだったら許さないんだからね」


 もう時間を止めない。

 もう花を永遠にしない。


 永遠の魔女は、ようやく、春を知りました。

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ニストの呪いの解き方がロマンチックでおとぎ話らしくて素敵でした。「さようなら」じゃないのがいいですよね。リニアが命の巡りを知るまでの流れが美しく心に響きました。
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