ショートスリーパー(1)
ショーウィンドウには雪が残っていた。昨日降ったものでもなければ、一昨日降ったものでもない。そもそもこの都会で本物の雪なんてそう残っているものではなかった。しかしだれかがこうでもしなければ、いまが冬だと思うこともめったになかった。
「べつにそういうつもりじゃないんだけどさ──」
そう、すれ違う女が言うのを片耳に入れながら、私は宮益坂の並木道を横切った。ノースロープ・ヒルズという名前の雑居ビルはこの通りから裏路地に踏み込んだ場所に入口がある。度重なる増改築が終わったネオ渋谷駅の巨大なスカイウェイから降りて十数分、まるでここだけ文明の進歩からすっかり取り残されて、埃をかぶった時間が堆積しているかのようだった。
階段を登って三階まで上がる。だれともすれ違わなかった。郵便受けに名前があるのもほんの二、三個といった具合で、呼ばれて来なければ決して足を踏み入れようとする民間人はいなかった。
〈沢良宜アート・アトリエ〉
真鍮製のドアプレートには、そのように刻まれていた。私は礼儀としてノックを数回したが、応答はなかった。代わりに腕のVisioHandのベルが鳴り、依頼人の在住を告知する。私はドアを開けて、古い映画スクリーンから切り抜いてきたような懐古趣味の世界観を土足で踏みにじるように入室した。
「初めまして」部屋の主は、大きなカンバスを前に、背中を向けたまま語りかけていた。まるで背中に自分の目と口があって、会話をするためには背中を向けないといけないかのように。「散らかっていて済まない。芸術活動には、こういう空間が必要なんだよ」
「あいにくアートには詳しくないもので、おれにはどうコメントすればいいのかわからないが」
「では、わたしの作品はご存じない?」
私は肩をすくめた。「依頼内容による」
「とても素直な回答だ。気に入ったよ」
男は──沢良宜優一は、椅子から振り返って私を見た。白いシャツにデニムのジーンズ、長すぎる黒髪が半分目にかかっていて、この手の芸術を語る連中に多い自己陶酔と憂鬱を混同したような、陰影のある表情を我が物としていた。しかもおもしろいことに、自分ではその陶酔を疾うの昔に枯れ果てた才能の残滓だと思い込んでいる。失くしてしまったものを夢見るのが自分の芸術活動なのだと言わんばかりに。
「名前をどうぞ、名探偵」と沢良宜は言った
「日本語名は等々力仁。それほどでもない、どこにでもいる私立探偵だ」
「謙遜するなよ。それなりに実績はあるだろう」
「仕事の宣伝だよ。いちおう問題解決業で売っているんだ。穴を開けたことのないドリルを買いたい人間なんていないだろう」
乾いた笑いが部屋に響いた。かすれた声が、あまりに小さすぎて、埃の欠片が部屋の空気を乱していることによって初めて気づく程度の、か細い笑いだった。
「さて。オンラインで伝えられない依頼ってのを教えてもらおうか」
「まあ言葉にすれば大したことじゃないんだ。わたしの《夢》を取り返してほしいんだ」
「すまない。日本語は難しいんだ。もう少していねいに説明してくれないか」
「きみは日本人じゃないのか?」
「ミドルネームは〝リーアム〟。わかりにくいかもしれないが、アイルランド系のクォーターでもある」
「ははん。歩く国際人ってワケだね」
「人種差別趣味のフリートークはサービス料に入っていないんだが」
「そういうつもりじゃないんだ。ただ、ヒトと話すのがにがてでね……」
この手の人間は、芸術を理由にすればなにを言っても許されると思っている。
「うまく説明できるかわからないが、わたしは自分が見た《夢》を創作の原動力としている。つまり、文字通りの、睡眠時に見るそれだ。そのなかでわたしは、なんというか、インスピレーションを得る」
「わからなくはない」
「ありがとう。それで、その、インスピレーションを原動力にモノをつくり、それをアート・オークションに売らせてもらっている。そういうわけなんだ」
ただ──沢良宜の顔ははっきりと曇っていた。
「どうも私の《夢》は盗まれているらしい」
「盗作ということか?」
「盗作だなんて言われるのは甚だごめんだ。だが、偶然の一致としてみるにはあまりにも……」
かれは自分自身の手にはめている指ぬきグローブのようなVisioHandを中空にかざし、まるで絵筆のように自身の拡張現実を具現化した。物理現実から目を離すと、そこには虹色の螺旋がうねりを上げて繰り出されたARアートが完成したのだった。
「これはわたしの制作中の作品だ。このアトリエにいる人間にしか参照権限を与えていない」
沢良宜はそのまま、指を鳴らして次のシーンへ切り替えた。急に世界が遠ざかって、視界がふたつに分割される。そこにはミニチュアサイズに展開されたARアートがふたつ、まるで複製したものを配置して間違い探しをするみたいにそこにあったのだ。
「これは、いま《メタ・ストリート》でわたしの新作だと言われているARアートなんだが、そっくりだろう」
「似てないものを探すほうが難しそうだ」
「そういうなよ。でも、これは決してわたしが夢遊病になって、うっかり複製データを流出させたわけじゃないんだ」
かれは作品の来歴を示す証明書が、まったく異なるルーツから公開されたものであることを説明した。NFTトークンとブロックチェーンによる台帳管理システムは、少なくとも過去の記録の改ざんを防ぐ。
「だからこそ、よくわからない。まるでわたしが寝ているあいだに見た《夢》を、だれかが盗み見たかのような、そんな気がしてしまうんだ」
「──これは弁護士事案じゃないのか」
「そうかもしれない。ただ、誹謗中傷があるわけじゃないうえに、わたしのあるべき利益を奪っているという法的根拠もないんだ。明らかにわたしの営業活動を妨害しているわけでもないしね」
「ただ、創作活動に支障はきたしている」
「そうだ」と沢良宜はうなずいた。「こう見えても、わたしはスポンサーがいてね。新作をいつも期待されているんだ。だが、このままでは本格的によろしくないんだ。だれかがわたしを嵌めようとしている。そんな気がするんだよ」
私はただ黙って聞いていた。
沢良宜優一のプロフィールは、じつは調べていた。二十七歳、若きARアーティストでその身体性とまどろむような感覚で生み出される現実拡張体験は、AIと人間の共同制作によってこそ生まれる新時代のアート活動の一環として国の支援金と企業の支持を得ていた。かれの作品はとくに海外の政治家や活動家のファンが多い。作品自体の非言語的なところもより印象深かった。かれを旗頭にして外交や経済安全保障のトークが進むほどには世界的だった。〈文化産業複合体〉において、文化活動と経済活動、そして政治活動は無関係ではいられないのだ。
夢は金になるかもしれない。金は夢のない男を救ってくれない。
私はアトリエを出て、ネットに復帰するなり、事務所に引きこもっている相方に連絡を取った。
「テッド」
《んー?》
「いま音声と視覚のデータを送った。どう思う?」
十秒程度待った。何倍速かは知らないが、テッドはハイスピード・リーディングのスキルを持っていて、AIで要約するよりもこっちの方が向いているらしい。
《んー、とりあえずいろいろ調べてみないことにはわからんね。でも、依頼人自身の身も洗ってみないと、なにが出てくるかわかんないよ》
「わかった。そっちの調べ物は任せる。おれはいくつか足を使って考えてみるよ」
《いいね、ぼくは手を動かし、きみは足を動かす》
「十五時にそちらに戻る」
《あいよー》
言ってから、テッドは通話越しに舌なめずりする感覚を共有した。
《さあ、詮索を始めよう》




