二話「遠い日の記憶」
あーん、あーんとどこかで小さな女の子の泣き声が聞こえる。
「怖いよぉ。怖いよぉ」
どうして泣いているのか、女の子は怯えたように「怖い」と繰り返した。
「みんな嘘つきって言うの。わたし、嘘ついてないのに」
ああ、これは……。
きっと、遠い日の記憶。幼いころ、当たり前のようにわたしに見えるモノが、他の人には見えないのだと分からなかったころのわたしの記憶。
怖い。恐ろしい。嘘つき。変な子。
わたしにかけられる言葉は鋭く痛いものばかりだった。
嘘じゃないよ、本当に居るの。居るんだもん。信じてよ、信じて……。
わたしの声は、誰にも届かなかった。誰も彼もがわたしを理解できなかったし、理解しようとしてくれなかった。
「嘘つき! 電柱よりでっかい人なんか居るわけないじゃん!」
「黒い犬? そんなの居ないよ?」
「ねぇ、コップ一個多いよ。え、女の人? 何言ってるの?」
怖い。怖い。怖い。
わたしには当たり前のように見えているモノが、他の人には見えない世界。
それは孤独で、暗くて、恐ろしい。
「……ごめん、何でもないよ」
そう<嘘>をつくたび、胸がひどく痛んだ。嘘なんかじゃない。わたしには見えるのに……。
「お前、妖が見えるんだろ」
赤い瞳に、黒い羽根。烏天狗の男の子。
ああ、あなたは一体――。
アラームのけたたましい音に、はっと目を覚ます。
何か、なつかしい夢を見ていた気がする……。どんな夢だったかは、忘れてしまったけれど。
体を起こし、のろのろとベッドから降りる。ふわぁ、とあくびをしてうんと体を伸ばす。
寝ぼけた頭でふらふらと洗面台へ向かい、冷水で顔を洗う。ひんやりとした冷水が気落ちいい時期になってきた。
リビングへ入り、台所へ向かう。食材ストックを置いてある棚から食パンの袋を取り出し、食パンを一枚トースターに入れる。パンを焼いている間に冷蔵庫からジャムの瓶を取り出し、スプーンを用意する。
ついでに卵とウインナーを出し、フライパンで軽く焼く。
チーン、と軽快な音と共に、パンが焼ける。
トースターからパンを取り出し、皿に移してジャムの瓶と一緒に食卓テーブルへと運ぶ。
牛乳をコップに注ぎ、これで朝ご飯の完成だ。
パン一枚に、目玉焼きとウインナー。それから牛乳。
朝ご飯は大体このぐらいで済ませている。昼は弁当だ。母が仕事へ行く前に用意してくれたものを持っていく。
焼けたパンにジャムを塗る。パンにかじりつくと、サクッとした触感が伝わってくる。
咀嚼したパンを牛乳で流し込み、目玉焼きやウインナーを口に運ぶ。
朝ご飯を食べ終え、もう一度洗面台へ向かう。
肩で切りそろえた髪をブラシで梳かす。わたしの髪は、多くもなく少なくもなく、ややクセはあるものの、程よく扱いやすい髪質だ。
伸ばしたい気持ちもあるが、伸ばすと伸ばすで邪魔なのだ。おまけに、長いと妖から逃げる際に髪の毛を掴まれやすい。
機動力を重視した結果、肩まで伸ばしたボブヘアに落ち着いた。
自室に戻り制服へ着替え、姿見で全身をチェックしてから家を出た。
駅までは自転車。そこから電車で片道ニ十分ほど揺られると、高校に着く。
駐輪場から自転車を出し、またがる。家で少しゆっくりしてしまったので、爆速で漕ぐ。
はぁはぁと息を切らせながら自転車を漕ぐと、暑いぐらいだ。額ににじむ汗を手の甲で拭いとり、自転車を駅の駐輪場に置いてホームまで走る。
ちょうど階段を上がったところで電車が到着したので、駆け足で滑り込む。
椅子に腰を下ろし、ふぅと息を吐き出す。後は乗ってるだけなので、ゆっくりできる。
電車に乗っている間は、スマホを見るか読書だ。わたしは子供のころから本好きで、色んな本を読む。小説のようなフィクションも好きだし、図鑑なんかも好きだった。
何せ友達が居ないので、休み時間をつぶせるものと言ったら本ぐらいしか思い浮かばなかったのだ。
カバンから小説を一冊取り出し、開く。物語に浸っている時間は穏やかで、静かに流れていく。
高校の最寄り駅に着き、本を仕舞って電車から降りる。
駅から歩いて校舎がすぐに見える。校舎に吸い込まれて行く生徒たちに交じり、わたしも校舎へと吸い込まれて行く。
教室に入ると、まっすぐ自分の席へ向かう。窓際の席は夏は暑く、冬は寒い。しかし、時々外を眺められるこの席は結構お気に入りだった。椅子に腰かけ、また本を開く。
地元から少し離れた高校には、地元の子は居ない。わたしが不気味な言動を繰り返していたころを知っている人は、居ないのだ。
そう思うと何だか気が楽になって、肩の力が抜ける。
そうしていたら、自然と話し相手もできるようになった。少数だけど。
しかし、自分から話しかけることは今でも苦手だ。変なことを口走ってしまったらどうしよう、という不安が付きまとっている。
なので、自分から話しかけることはほとんど無い。受け身ばかりではよくないかもとも思うけれど、長年染みついたものは中々抜けてくれない。
「おはよう、和田さん」
「ああ、おはよう中谷くん」
声をかけてきたのは、同じ文芸部の男の子だった。数少ない文芸部で唯一の同学年だ。
名前は中谷……何だっけ。下の名前はよく覚えていない。昔から誰かと関わることが少なかったせいで、人の名前を覚えることが苦手なのだ。
下の名前をよく覚えていないわたしにも、中谷くんはよく話しかけてくれる。やさしい子なのだろう。
最近読んだ小説の話をぽつぽつと話し、やがて授業が始まると、中谷くんは自分の席へ戻って行った。
ノートへとペンを走らせていると、コン、と窓を叩くような音が聞こえた。
鳥か何かか、それとも虫か。ふと顔を上げ窓へと視線を移すと、木の枝に黒い羽根が見えた。
黒い羽根……烏天狗? はっとなって窓の外をじっと見つめる。
こちらに背を向けた状態で、枝に腰掛けているようだった。
校庭を見ている……?
烏天狗から校庭へ視線をずらすと、そこには昨日追いかけて来たヘドロ妖が居た。思わず、ひゅっと息を飲み、顔を伏せた。
どくどくと心臓が早鐘を打つ。追いかけてきた? 学校まで?
どうしよう……。電車に乗ってこられたら逃げ場が無い。
恐る恐るもう一度顔を上げ校庭に視線を向けると、烏天狗がちょうど木の枝から飛び立つところだった。
何を……とそのまま見ていると、烏天狗は手にした羽根を剣のように持ち、そのままヘドロ妖に切りかかった。
さっくりと体を切られたヘドロ妖は、「おぉぉぉ」と空気が震えるような雄たけびを上げ、消えてしまった。
退治……したの?
妖が妖を食ったり、攻撃するのは当たり前のように横行している。妖の世界もまた弱肉強食なのだ。だから、烏天狗がヘドロ妖を攻撃したこと自体におどろいたわけじゃない。
烏天狗がわたしを、守ってくれたのかもしれない。
そんな風に、自然と考えた自分におどろいたのだ。
たしかに、烏天狗には昨日助けられている。けれど、まさか地元から離れた学校にまで付いてきてるなんて……。
わたしを、あのヘドロ妖から守るために?
でも、一体なぜ……。わたしは、烏天狗に知り合いなんて居ない。そう、昨日も考えたはずだ。
だったらなぜ、あの烏天狗はわたしのことを守り、助けてくれるのか。
……分からない。昨日の既視感と何か関係があるのか。考えるけど、答えは出なかった。
学校の帰り道、電車に揺られながら、わたしはめずらしく窓の外を眺めていた。
そこには、電車と並走して空を飛ぶ、烏天狗の姿があった。力強く羽根を動かし、空を悠々と飛んでいる。もしかしたら、今朝もこんな風に電車へ付いてきていたのかもしれない。
やっぱり、わたしが目的なんだろうか。だとしたら、理由は何だろう。
昨日烏天狗と会った時に感じた既視感。あれが突き止められたら、答えが分かる気がする。
窓の外をぼんやりと眺めながら、うーんうーんと考えてみる。
幼いころの記憶は、正直言うとそんなに鮮明じゃない。
嘘つきと言われたり、傷付くことが多かったからなのか、記憶があいまいなのだ。
それは一種の自己防衛反応なのだろう。悲しい過去を、あまり思い出さないようにするための。
わたしは、幼いころにあの烏天狗と会ったことがあるのだろうか。それが理由で、あの烏天狗はわたしのそばにいるのだろうか。
もう一度、烏天狗と話がしたい。そうすれば、はっきりと分かるだろう。
わたしは、電車から降りると自転車に乗って町のはずれにある丘へ向かった。
丘の上には、それは大きな木がある。学校であの烏天狗は木の枝に止まっていた。目立つ場所なら、居るかもしれない。
自転車で丘を上る。なだらかな坂だけど、上り坂はやっぱりきつい。ぐっと足に力を入れ、ペダルを踏みしめる。
丘の上に着いた。自転車から降り、木の下に停める。
「おーい。か、烏天狗……」
そこまで口に出して、呼び捨てはちょっと失礼かもしれない、と思い至る。「さん」でも付けるべきか? 妖に「さん」って要るのか?
「か、烏天狗くーん!」
無難に落ち着いた。大きな声を出し慣れていないので、少し上ずっている。
「烏天狗くーん! 助けてくれたお礼が言いたいの、居るなら出てきてー!」
「カケルだ」
「へ?」
不意に頭上から声が降ってきた。
ぱっと見上げるが、葉っぱが茂っているだけだ。
「カケル。俺の名だ」
ガサガサと葉っぱをかき分ける音と共に、黒い羽根が上から降ってきた。