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カンダタの藁  作者: KEY
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第七話 席田和成

 

 郡司神社に到着したのは、五時少し前だった。

「こんばんは、今日と明日、よろしくお願いします」

 頭を深々と下げて、ビデオカメラの準備をする。

 レンズを向けた先では集まった人たちが、二礼二拍手一礼の正しい方法で郡司神社に参拝し、準備に取りかかろうとしているところだった。

 が、見知った顔はない。本当に、ご祈祷のみで終わるような祭りだと言われている通り、会社帰りと覚しきスーツ姿や工場の制服だったり、休日らしく農作業着やラフなスウェットなど、みなまちまちの格好をしている。

 準備というのは神饌を用意することのようで、蒼生たちの倉庫を借りて行われていた。天気が急に崩れても良いようにだろうが、蒼生と直倫は、きっと無償で場所を提供しているのだろう。

 神饌は基本的なもの、米、酒、餅、魚は鯛で、乾物は昆布、根菜と葉物野菜、果物と菓子、塩と水だった。それらが、手際よく、白木つくりの三方に整えられていく。どうやら、三方は五つでワンセットになっており、それを四つ用意するようだ。

 ――珍しいなあ。

 基本的に、神様に奉納される神饌は奇数で揃える。それが偶数、しかも四なのは、かなり独特であると言えた。

「これは、何故、四つ揃えるのでしょうか?」

「……」

「何と呼ばれているのですか?」

「……」

「あの、この御神酒は、濁り酒なのですか?」

「……」

 たずねても、黙々と作業が続けられるばかりで返答が全くない。完全に無視されていると、気分がどんよりしてくる。

 ――警戒されてるっぽいのかな、もしかしなくても。

 それとも、疫病神か死に神とかのように思われているのかもしれない、と棚田は思った。

 得体の知れない余所者が入り込んだ途端に起きた奇怪な死亡事故だったのだから壁を作られても仕方ないかもしれないが、当の蒼生が一切のわだかまりを見せずに対応してくれているから、余計にトゲトゲしさが身に沁みる。

 小さくなりながら、それでもビデオを回していると爆音が近づいてきて、「お~い、学者先生」と呼ばれた。作業を終えた直倫が、トラクターを車庫に戻しにきたのだ。

 トラクターの後ろから、ジムニーも敷地内に入ってきた。蒼生の車である。

「時間ぴったりに来たな」

「直倫さん、蒼生さん」

 気心が知れている直倫と蒼生の登場に、棚田はやっと安心感を覚えた。そして早速、蒼生をとっ捕まえる。不明瞭な事柄は、この際、一切合切つぶさに聞き取ってしまおうという魂胆である。

「蒼生さん、今回のおしらさんって、左義長の時と、なんだか雰囲気が違いすぎませんか?」

「ああ、うん、おしらさんとおしめさんは、おぐんじさんで神饌を用意したら、膳船っていう箱に納めて、それを翌朝、お社まで運んで、神主さんにご祈祷してもらって、神饌を配ってお終いにするんや。大掛かりなのは、左義長と秋の本祭くらいになったな」

 確かに、大祭を年に何度も催していたら逆に生活が破綻するので、本末転倒になってしまう。最も、だとしても異様な回数の祭りをこなしているのにはかわりない。

「最も、ここまで簡略化したんは、そうせざるを得んかったからなんやけどな」

「は? それはどういう……」

「元々は、『おしゃりさん』って呼ばれる子供らの稚児舞奉納があったんや」

「おしゃりさん? どういう意味なんでしょう?」

「子供の事を方言で、ジャリガキとかジャリとか言うじゃん? 単純に子供って意味やないかな?」

 棚田は、なるほど、と呟きながらメモを取る。

「どうして奉納舞をなくしてしまったんでしょう?」

 直倫がわざとらしくため息をつきながら肩をすくめ、そこに蒼生が寄りかかった。

「舞える子供が足りないどころか、居なくなっちまったからだよ」

「あ」

「直ちゃんが最後のおしゃりさん世代だな。俺はやってないから」

 どう答えようかと、棚田は一瞬、言葉に詰まった。確かにこの村の中で、ひな以外の子供の姿を見かけない。

「おえんさんとおあけさんは、またちょっと違うからアレやけど」

「あお、アレ、ってなんや、アレって。説明になっとらへんやろ」

 直倫がゲラゲラ笑うが、「アレはアレやろ」と蒼生は意に介していない。

「おあけさんのアレは、伊勢詣だからお祭りではないって事ですよね?」

「そうそう」

 直倫を肘で小突く蒼生は、そら見ろ立派に伝わっとるやん、と言わんばかりである。

「大昔は夜中に出発してたってさ。出発する前に集会っつうか、呑み会開いてたらしい」

「その話、俺もおじっさに聞いたことあるわ」

「他に何か特別な事は」

「特別な事かあ――お札の回収くらいかな?」

「これも昔はおしゃりさんのお役目だったらしいんだけど」

 口をへの字に曲げて、直倫は頭を搔いた。

「実はこのお役目は俺もやってないんだ。親父たち世代までじゃないかな?」

「つまり、昭和三十年代くらいまでに変わってしまったと?」

「うん、自治会長の役目になったってさ。まー、実際、楽しむのは大人だけだし」

「お地蔵さんは、夏祭りみたいに盆踊りやる感じになっちまってるけど」

「昔はおしめさんから、秋の本祭に向けて動き出すみたいだったらしいよ」

「それの名残でか、太鼓の奉納やるよ。長くやらないと忘れちまうから、練習を始めてくって感じだな」

「おしゃりさんの稚児舞奉納も、する筈だったんだけど、これは大人が代わりにやるようになったなあ」

 何もない何もない、と言いつつ、聞けば重大な情報が満載である。地元民にとっては石ころ同然の価値しかなくても、それを専門として探索研究している者の立場から観れば黄金に匹敵する値がある事柄ばかりである。

 ――やはり、直接聞き取りは重要だ。

「あの、では新嘗祭は、どうなってるんですか?」

「新嘗祭は神官じんかんさん呼んでご祈祷してもらうだけやけど、お宮さん、お郡司さん、おしらさんとおしめさんの他に、『いそべさん』を順繰りに回ってもらうかな」

「いそべさん?」

 棚田がキョトンとすると、ああ、と蒼生は頭をかいた。

「お祭りがないから、分からへんかな。地図で見ると清水屋敷瀬古の、みくの家のとこにある、きよみずさんをお護りしてる神社や」

「これもまた、小っこい神社でさ」

 言いながら、蒼生はサッカーボールくらいの大きさの円を手の平で描いて見せている。

「神社って言って良いもんかね」

 棚田は町内地図のほぼど真ん中あたりにある、鳥居のマークを思い出していた。予想通り、みくの家であったらしい。ならば、ここと同様、一般家庭の敷地内に神社を祀っている、という事になる。

「名の由来などは?」

「う~ん……なんか、地震で村中の井戸水が濁って全滅しちまって、で、新しく井戸を掘り続けて時にさ、五十回目で掘り当てたからとか何とかかんとか聞いたような……直ちゃん、聞いたことねえ?」

「そうそう、そうだよ、婆さま達から、聞かされてたの思い出してきたわ。確か、五十に部室の部で、いそべ、だったよな?」

 ――面白いな。

 興味と好奇心がむくむくと湧いてくる。

「是非、見に行きたいです」

「止めはせえへんけど、こことドッコイドッコイやで?」

 のめり気味の棚田を前に、またかよ、ようやるわ、と直倫と蒼生は苦笑する。

「他に聞きたい事とかあるか?」

「あの、今回に限らず、神饌に特徴とかありますか?」

「特徴って、そんなもんあるかな?」

「お米は何が? お酒とかも」

「米は秋の本祭は荒稲あらしねやけど、それ以外は和稲にごしねや。酒も、秋の本祭は、濁り酒と、それに炭入れた黒酒を用意するけど、それ以外は普通の酒だけになったな。野菜は、今回は大根とジャガイモとゴボウ、白菜とキャベツとほうれん草、果物はミカンと林檎と干し柿。菓子は饅頭。野菜と果物と菓子は季節ごとに臨機応変に変えてくかな。というか、用意する人らの趣味が出るなあ」

 まるで棚田の質問を予め知っていたかのような、流暢な答えである。それだけ、身近なものであるという証であるが、棚田は少し、残念に思った。

 ――揃えられた神饌には、これといった特徴はなさそうですね。

 正直なところ、がっかりした。何かしら奇異なとは言わずとも、一風変わった品が用意されていると期待したのは、これまでの流れから当然といえば当然である。

 しかし、棚田はここで気が付くべきだったのだ。

 普通ならば、この年齢の青年が、こうした質問にすらすらと答えられることは稀である、という事に。

「どうやって運ばれていくんですか?」

「ここに集まっとる人らが、こう、膳船を頭の上まで持ち上げて、おしらさんまで運んで行くんや。『おわたりさん』って言うとるな」

 供物や神饌を運ぶのは一夜巫女たちの役目であることが多いが、やはり、地方の祭りはこういう所が違ってくると、棚田の胸の音は否が応でも期待に高まった。

 わくわく感を隠そうともしない棚田の前に、件の膳船が運ばれてきた。放り出し気味になっていたカメラに慌てて駆け寄る。

 船、というが、酒を入れる朱塗りの木桶を、そのまま子供のビニールプール程にまで巨大化させたような形をしていた。

 無視され邪険に扱われた事などすっかり忘れ、棚田は夢中でカメラを構えて収める続ける。

 ――凄い! 見たことがないぞ、こんなの。

「おわたりさんは、おしめさんでも行われるんでしょうか?」

「……まさかとは思うけどさ、学者先生、おしめさんも最初からついて歩くつもりか?」

「勿論ですよ、勿体ない」

 直倫と蒼生は顔を見合わせると、どちらかともなく、「勿体ないって」と苦笑いした。

「あぁそう言えば、今年のおしらさんは南興瀬古の担当なんやけど、学者先生、聞いとったか?」

「南興? 今年? 担当?」

「うん、そう、おしらさんとかおしめさんとの祭りは、こう、五つの瀬古で順繰りに役目を変えて担当してくんや」

「えっ、伺ってませんけど」

「左義長と秋の本祭は規模がでかいから全戸でやるけど、他のは各瀬古でこう、ぐるぐる回してるんや、どこの誰がどんな役にも就けるようにってね」

「今年は、おしらさんは南興、おえんさんは北裏、おあけさんは西加、お地蔵さんは清水屋敷、おしめさんが東海の担当なんや。新嘗祭は、おあけさんの西加にお宮さん担当してもらって、あとはそのままの担当でご祈祷してもらう手筈になっとるな。きよみずさんだけは清水屋敷がずっと担当やけどな」

「ちょ、ちょっと待って下さい、蒼生さん」

 土井教授も教えてくれていなかった情報である。棚田は、慌ててビデオカメラを三脚にセットすると、メモ帳を取り出し、必死に手を動かした。

 ――ああ、どうして、ボイスレコーダーがないんだろう。

 と言うより、未練たらしくグチグチと探してないで新しいのを買っておけば良かっただけの話なのであるが、それを言うと益々情けなくなるので無意識に避けた、と言う方が正しかった。

 とは言え、日々節約の生活だから金銭的余裕は全くない。棚田は激しく己の懐の寂しさを呪った。

 しかしいざ、懐があたたかくて、ボイスレコーダーに五千円ほどかけられる余裕があったとしても、棚田は即、学術書を購入しているだろう。専門的な書とは、まさに一期一会であり、出会ったその場で買わねば二度と購入できない可能性が大きいからだ。最も、棚田の場合は殆ど本能的というか反射神経のようなもので購入してしまうから、意味は大分、違うのだが。

 メモを終えるのとほぼ同時に、四つの膳船に三方が納められ、それぞれに白い布が被せられ、榊が上にのせられた。それに向かってまた、二礼二拍手一礼が行われた。どうやら、明日の準備が終わったらしい。

「さ、終わった終わった、けえろまいか」

「そやな」

「そうしよまい」

 誰かが呟くと、みな一斉に、ぞろぞろとゲートの方に歩き出した。

「えっ!?」

「言ったろ? 何も見る所なんかないぞ、って」

「……本当に、これでお終いなんですか?」

「おしゃりさんの奉納舞がなくなった分、あっさりしたもんなんやって」

 呆然としている棚田の肩を喉を鳴らして笑いながら、直倫は叩いたのだった。


 蒼生がコミュニティセンターまで送ると申し出てくれたので、有り難く甘えることにした。やはり、南まわりの道である。

「今な、真ん中の道の工事しててさ、通行止めになってる場所があって、こっちの方が近道なんや」

「そうなんですか、工事って、どんな? 電線とかを地中に埋めるとかの? それとも、上下水道とかですか?」

「いや、側溝に蓋する工事」

「えっ……」

 ――側溝に、蓋、それって、つまり。

 何の気なしにたずねた棚田は、すらっと投げつけられた返答に固まった。ごく、と喉が鳴る。

「親父がさ、側溝に落ちて死んじまったからね」

 こういう時、何と答えればよいのだろうか。何を言えば正答なのだろうか。

「死人が出ると早いんだよな、お役所仕事ってのはさ」

 棚田には、そこまでの人生経験がなかったので、結局、何も答えられなかった。


 ※


 翌朝、棚田は六時に目覚ましをセットしておいたのだが、五時半前には目が覚めてしまった。ずいぶん陽が昇るのが早くなってきたとは言え、まだ三月では夜の寒さが厳しく、冷えで起きてしまったのである。

 ――……すっきりしないな。

 電車の音ではなく気温差で起こされたせいか、頭が余計にぼんやりしている。頭を掻いて上半身を起こした棚田は、シャワーを浴びて体を温め、頭を起動させることにした。

 ほんの十分程度の烏の行水だったが、意識がはっきりしてきたので朝食をとる。

 みくが用意してくれていたロールパンは、中にマーガリンが仕込まれているタイプのものだったので、電子レンジで軽くチンすればそれだけでかなり満足できる味になる。あとは、カップタイプのポタージュスープに大きめのカップゼリー、ヨーグルト、ミカン、魚肉ソーセージ、缶コーヒーである。金欠時にはプライベートブランドの十四本入りスティックパンを毎日二本ずつ食べるだけになる朝食など、足下に及ばない豪華さである。

 朝食をとりながら、テレビをつけた。

 ウェザーニューズを観る為である。

 これも、すっかりルーティンになっている。


 今日は午前中はよく晴れますが、午後から一気に下り坂になります

 山間部では二時過ぎに、平野部でも三時頃までに小雨が降り出すでしょう

 ただいまの気温は5度、本日の最低気温の予想は3度、最高気温の予想は15度となっておりますが

 最低気温は朝のものではなく、昼過ぎになりそうです

 雨とともに夕方以降は気温がぐっと下がりますので、お出かけの際には折りたたみ傘と一枚羽織るものを用意しておくと良いでしょう


 ――おしらさんが終わるまでは晴れてそうだけど、バーベキューは大丈夫かな。

 歯磨きをしながら、かつて無く気持ちが弾んでいる自分に、棚田は気がついた。


 ※


 教えてもらった『お渡り』は八時からなので、七時頃、棚田はコミュニティセンターを出た。まだ朝早いからか、山から吹き下ろす風はキリキリしている。が、午前中は晴れという予報の通り、日差しがあり、のんびり歩くとそれも心地よいものだった。

 途中、またまた地蔵像に手を合わせていったので、郡司神社に到着したのは七時四十分くらいだった。

 続々と瀬古の者が集まりだしている。

 今日は昨日のように作業着だのスウェットだのとラフな格好ではなく、礼装に近い紺や黒のスーツ姿ばかりである。左義長の時のように装束に着替える事はないようであるが、神事であるからだろう。

 ビデオを用意していると、左義長の時に会ったが昨日は来ていなかった長老格の老人が現れた。

 ぺこり、と丁寧に頭を下げた棚田に対して、あからさまに異物を、不審者を見る目を向けながら老人は膳桶の方へと歩いていった。

 ――ええと、確か、堀田長太郎さんだったかな。

 年齢的にも『おじっさ』と呼ばれても構わないはずであるが、どういう決まりがあるのか、格上げはされていないようである。

「皆はん、今日はよから良お来てくれはったな」

「……」

「よろしゅうにな、頼んますでな」

「……」

「お疲れさんやが、あんばい良おな」

 瀬古の者たち一人一人に、堀田長太郎は猫なで声で話しかける。

 が、皆、持ち上げられても不機嫌そうに、むっつりしたままである。もしかしたらこれが南興瀬古の普段通りというか、『地』であり、棚田に対して特別冷たいわけではないのかもしれなかった。

 手水舎がないので、皆、ペットボトルの水を使って手を清めているのは、ご愛顧というべきだろう。

 八時を知らせるチャイムがどこか鳴ると同時に、全員で郡司神社の前に立った。背後に、ずらりと南興瀬古の面々が並ぶと、八開手やひらてを行った。

 ――珍しいなあ。

 明治以降、礼拝の仕方も徐々に統一されていったので、八開手を打つのは古い成り立ちの有名な神社、それもごく少数なのだ。それはつまり、この郡司神社は、それらのどれかに連なっていた可能性がある事を示唆している。

 ――もしかすると、村の成り立ち自体が想定していたものよりも更に古いのかもしれない。

 そうなるとまた、これまでの伝承などにも別に隠された意図があるかもしれない。棚田はつい、息を荒くした。

 八開手が終わると、堀田の次に年がいっていそうな人物が榊を三方の上に取り上げた。白い布が堀田の手により払われ、膳船の周りを、三人、五人、七人と奇数ずつで囲み、しゃがんだ。ここは、四ではないようだ。では、四つの謂れは何処から来ているのか、またしても棚田は気になった。

「ほ・そお~れい!」

 堀田長太郎の掛け声で持ち上げられた四つの膳船が、粛々と動き出す。

「お~りゃあ~せえ~」

「よ~りゃあ~せえ~」

「お~りゃ~せぇ~」

「よ~りゃ~せぇ~」

「お~りゃ~せぇ~」

「よ~りゃ~せぇ~」

 ――ああ、これは左義長の時のお囃子と一緒なんだ。

 やはり、古い時代からの伝統の不思議に接すると興奮する。心が飛び跳ねるような喜びに浸りながら、棚田は夢中でビデオカメラを回し続けた。

「よ~いやさぁ!」

 白鬚神社まで、おおよそ一時間半もかけて、膳船はゆっくりと進んだ。そして、自噴水の前に、あらかじめ用意されていた毛氈の上に置かれる。これもまた、準備されていた台に膳桶を覆っていた白い布を被せると、改めて、通常の神饌のように献饌しはじめた。お神酒が甁子にうつされると、八幡神社の社務所から神主が現れた。

 ――……さ、撮影を続けていても良いのかな……。

 訳もなく、ドキドキしていたが、誰からもノーもストップも入らなかったので、棚田はビデオを回し続ける事にした。

 粛々と祝詞が奉納される。

 このおしらさんは、五穀豊穣を祈願する、いわゆる祈年祭に当たるものらしい。本来の祈年祭は二月の十七日から二十三日にかけて行われるものであるが、ここは春祭りとしての色彩が強いようだ。

 だが恐らく、規模は縮小傾向にあるのだろう。でなければ、各瀬古の役目で片づけてしまわないはずだ。それでも、今まで継続されている事実は見逃せない。

 祝詞が終わり、神主の手によって撤饌の儀が行われると、何処からともなく、ふう、と重いため息があちこちから聞こえてきた。これで儀式は終わったらしい。

「皆さん、どうも朝早うから、えらいご苦労さんなことやった。こんで終いやで、帰りがけにお下がりさんを配ってってくれへんか」

 お~う、と気のない返事が上がると、撤饌を持って町内へ戻る者、三方や毛氈、膳船などを八幡神社の社務所へと運ぶ者と、それぞれに動きはじめた。何も指示がなくと蟻が目的地へ向かうように黙々と動けるのは、長い間の暗黙の了解というやつなのだろう。

 そして了解の埒外にある棚田には、誰一人、声かけることなく全員が散っていってしまい、一人、ぽつんと取り残されてしまった。

「……か、帰ろうかな……」

 迷子のまま見捨てられたような気分になってしまった棚田は、ビデオをデイパックにしまい道を引き返しはじめた。そこへ、直倫のランドクルーザーがやってきた。

「学者先生、良かった、行き違いにならんくって」

「直倫さん」

「乗ってくような距離でもないけど、ほら、乗って」

 腕を伸ばして助手席側のドアを開けた直倫の後ろに、後光が差して見えた。

「バーベキューの用意、バッチリしといたから」

 ――蜘蛛の糸を垂らされた時のカンダタの気分は、こんなだったのかもしれない。

 棚田は泣きそうになるのを堪えながら、「お邪魔します」と車の助手席に乗り込んだのだった。

 喘ぐようにして乗り込み、シートベルトを締めると、しかし棚田は早速、いつもの調子に戻っていた。気になっていた、つまり先程の疑問を尋ねてみたくなったのである。

「俺ん家の取材とやら終わったら、早速、おっ始めようぜ」

「あの、直倫さん」

「ん?」

「先ほど、見学していた時に思ったんですけど」

 だが、どう尋ねたものだろうか。

 ――堀田長太郎さんが仲間外れにされているように見えたんですけど、って?

 言えるわけがない、と言い淀んでいると、直倫の方が、ああ、と察してくれた。

「長はに対して、ちょっとみんな、非協力的だったんじゃないか、って言いたいんだろ?」

「は、はい」

 思わず被せるようにして激しく頷くと、直倫は苦笑いした。

「実は、長は、村八分を食らっててね」

「む・ら・は・ち・ぶ」

 突然の、思いも寄らぬ言葉の出現に、棚田の発音も機械的になる。

 やっと気を取り直し、「あの、それはどういう……」と聞き直す棚田に、直倫は笑顔を崩さすにさらりと続ける。

「そのまんまだよ。長はの家、二十年位前になるかな、ちょっと、やらかしたもんでね」

「やらかした、って一体何を?」

 ん~、と直倫は言葉を濁した。

「ちょっと説明しにくいな。と言うか、余所の人には理解しにくいかも知れないな。ま、平たく言えば、それだけの事を仕出かしたんだよ」

 棚田はたじろいだ。

 直倫の口調はいつものように、温和である。横顔は穏やかであり、態度は清廉である。

 直倫の口調からは、村八分、と異様なキーワードを、ごく当たり前の、食事を摂取し排泄する一連の生命活動の一部として捉えているかのように見受けられた。

 禍々しさなど一切無い。

 それが空恐ろしかった。

 そこが寧ろ、まるでこの村の深淵の全容を垣間見させており、不気味さを増幅させていた。

 しかし、気圧されながらもなお、好奇心の方が勝った。

 ――村八分とか、何となくじゃなくて未だに生きた言葉として残っているとか、これはもう、ファンタジーの世界だ。

 食らいつかずに居られなかった。

「あの、村八分って、火事と葬式以外は手伝わない、って言う、あれですよね」

「そうそう」

 村という共同体から外された爪弾き者であったとしても、共同作業が必要な十の作業中の火事と葬式においては、そこに至るまでの確執と怨讐を一時捨て置き、助太刀する。昔の農村の生活様式においては、火事と葬式というのは、それ程の緊急事態であったのだ。ちなみに、残りの八は地域によってそれぞれ差があるが、婚姻や出産、法要や各種祝い事、家屋の建て前、集団での参詣、集団感染時の介抱など、一人力ではどうにも立ちゆかぬ事柄となる。

「ここじゃ、火事と葬式じゃないけどね」

「じゃあ、何の時は手助けするんですか?」

「祭りと田んぼ作業だよ」

 これ以上の質問は拒むかのように、車は席田家に到着した。


 ※


 北まわりの道を使ってたどり着いた席田家は、本来の門の他に裏口門と言うべき門が北側にあり、そこに、実に六~七台は軽く停められる車庫があった。

「こっちや」

 公園の植樹林にある散策用の小径のような、木々の枝をトンネルにした坂道を通される。

 ――で、でかっ……!

 防風林と竹林にぐるりと守られた席田家は、蒼生の護田家など子供だましに見える壮麗さがあった。

 南側にある正面門は、まず、門扉からして違う。三間の瓦屋根付きで、武家屋敷のそれに匹敵する。門をくぐってから屋敷の玄関につくまで、十メートルは歩かねばならない。

 敷地はざっと軽く見積もっても二反半はあるだろう。時代劇などにご老中の屋敷として出てきてもおかしくない迫力があり、圧倒される。屋敷の建坪は六十~七十坪はありそうで、玄関は正面玄関の隣に使用人たち専用だったと覚しき格下の構えの玄関がある。

 庭は武家屋敷風の枯山水、四季折々の庭木を楽しむ為にか、離れに茶室まで設えてあった。

 いつだったか、みくが言ったように大地主に相応しい面構えの家である。

「ひぇっ……!」

 叫び声を上げそうになってしまうのを堪えつつ、棚田はカメラのシャッターをきり、ビデオを回し続けた。

「家の中とか庭とかは今日は置いといて、肝心の水屋を見とこうか」

「は、はい」

 直倫は、腕を振って来い来いと手招きし、屋敷の北側に抜ける小道に入った。ついて行くと、庭木からニョッキリと首を伸ばすように水屋が現れた。屋敷よりも更に五十センチほど石垣で嵩を増してあった。

 水屋もかなり立派で、普通の建売住宅くらいの大きさがある。黒く塗られた壁と白い漆喰と灰色の石垣のコントラストが実に美しい。

「うちの水屋は、余所よか、大きいかな」

「そうですね、普通は土蔵くらいの規模ですから」

 興奮のあまり声を上ずらせながらビデオとカメラを向けている棚田を、直倫は苦笑いしながら見ている。

「こんなもんがそんなに面白いのか」

 こっち来いよ、と直倫は促して水屋の扉を開けた。もっと埃っぽいかと思っていたが、小窓から日差しも差し込み、空気は淀んでおらず透明感がある。定期的に手入れをして、大切にしている証拠だった。

 中に入ると、広い土間があり、筵や木の板が壁に立てかけてあった。全て板間であるのは、水害時専用の為だろう。二階には、梯子でなくちゃんとした階段で上がるように作られている。

 パッ、と中が明るくなった。

 ――電気まで入れてあるのか。

 以前にリフォームしたと言っていたが、この水屋もリフォームしたのだとしたら相当にお金がかかっている。

「そこ、ほら。一応、昭和の大洪水の時は現役で活躍したらしいよ」

 直倫が指を指した先には船が上げられていた。水害があった時の避難用で、このあたりの輪中堤に伝えられているものである。

「うちのには土間とおくどさんと井戸があるけど、まあ、余所の水屋にはないわな」

 こっち、と手招きされるままに竈に近づくと、大きな手桶が幾つもあった。

「これは?」

「汁桶、って言われてるものや。流石にもう、使われる事はないやろうけど、災害時は何日も竈が使えん事が多いやろ? その時に、ここで飲料水用の水と、味噌汁とかを煮込んでおいて、取っとく為の桶なんやな。よう煮込んでおけば、三日くらい大丈夫やったとか聞いたことある」

「三日も?」

 思わずカメラから顔を外して、頓狂な声を上げてしまっていた。

「食い物もやけど、水と塩分の大切さと、火を入れとけば水も長持ちするってのを、昔の人はよう知っとったんやな」

「なるほど」

「水害の時は、ここで作った飲料とか汁物をみんな受け取りに来るんや」

「なるほど」

 赤べご人形のように頷きながら、棚田はメモ帳を取り出して汁桶をスケッチし、特徴を書き記した。

 ――そうか、もしかしたら。

 郡司神社から神饌を運ぶのに使う膳船というのは、この汁桶を起源にしてるのでは、と棚田は唐突に閃いたのだった。

 それにしても、と口の中で棚田は呟いた。

 村八分という制裁を受けていた堀田長太郎。

 直倫は、残りの二分は祭りと農作業だと言っていた。

 ――これが例えば江戸時代とかだったら、どこまで手を借りられたんだろう? お椀一杯分も受け取れなかったのだろうか?


 ※


 水屋の二階の雑魚寝部屋まで見せて貰った後、井戸に案内された。

「こっち、家の北側にあるんや」

 もう一度、小径を使って家の北側に移動する。家と垣根の間に、小屋のような建物が突き出ていた。

「ほら、ここや。家の中からは、勝手口というか、漬物小屋からここに出られるようになってるんや」

 漬物小屋と言うには余りにも立派な小屋の裏手には、椎茸の原木が何本か立て掛けてあり、横からかわいらしい傘が何個も伸びていた。

 サッシにリフォームされた引き戸を開けると石造りの階段があり、直倫は、そこをひょいひょいと降りていく。確かに、階段の上には棚が設えられており、洗って伏せてある漬物用の樽が幾つも並んでいた。

 降りきると、直倫は指さした。チョロチョロと竹の筒の先から流れ出る水を受け止めているのは確かに石造りの井戸舟で、三段式になっている。二槽目に、ぷかぷかと大きなオレンジ色の玉が幾つか浮かんでいた。

「蒼生んとこで採れたオレンジや、冷やしといて、デザートにしよ、思ってさ」

 普通、井戸舟というのは何層かに分けて水を受け入れるようにして利用するもので、一槽目は飲料に、二槽目は野菜などを洗う用に、三槽目は食器などの洗浄用に、などと区別して使用するものだ。しかし、席田家のものは石造りな上に一段が半畳くらいの大きさがあった。これも、余所では共同井戸で使われている規模である。

「この井戸舟な、よう磨いてあるからそうは見えんかもしれんけど、俺にとっての曾々婆ちゃんのそのまた上の婆ちゃんの嫁入り道具やったらしい」

「そんなに古いんですか」

「まあね。嫁入り道具と言えば、この辺じゃあ、さっき見た上げ船とか、田舟とか荷物運ぶ船も嫁入り道具やったらしい」

「船を嫁入り道具として持ってくるんですか?」

 それは初耳である。慌てて、メモ取る。

 ――そうか、それで高灯籠にしてあったんだ。

 昔は、今とは流れが違う用水路などが村の中に複数あったのだとしたら、頷ける話しである。棚田は興奮してきた。読みは当たっていたのだ。

「船の規模は? 残してありますか?」

「いやいや、さすがに荷用の船までは廃棄しちまってるし、そもそも俺も見たことないよ。けど、上げ船の二倍はあったんじゃないかな?」

 棚田の食いつきぶりに、直倫は苦笑しつつ続けた。

「今の奈河川や三輪川からは想像もつかんやろうけど、曾婆ちゃんくらいの年代までは、嫁入り道具は船でどんぶらどんぶら運んできたそうやからな。ほら、昔話で意地悪ババアが嫁入り道具に箪笥一竿着物で一杯にして持ってこい、とか言うけど、ここらじゃ、船一艘満杯にして持ってこい、だったって」

「ひょえっ……」

「船を用意できない場合は借りるしかないんだけど、船持ってこないと失格というか、アカン嫁、出来ん嫁の烙印押されて一生爪弾きにされるとか、曾婆ちゃんが嫁入り前に脅されたって言ってたなあ」

 ボリボリと頭を掻いている直倫の言葉を聞きながら、棚田はふと、『嫁というのは先ず役立たずの出来損ない、子供を産んでやっと半人前、死なないと村の人間として受け入れて、いいえ、認めて貰えない。そんな、とんでもないところですのよ』と語っていた華子夫人の横顔を思い出していた。


 井戸から上がってくると、パラパラと雨が降り出してきた所だったが、屋敷の裏手から炭の匂いと熱気が流れてきた。

 車庫の軒下では、雨など何するものぞとばかりに、いつの間にか結集した蒼生とみく、ひなが手を振っている。田舎は雨だろうが嵐だろうが、軒下で楽々とバーベキューが出来るのがすさまじい。

「直ちゃん、準備万端だぜ」

「よし、そんなら、バーベキューはじめよか」

「はい!」

 思わず手を挙げて、良い返事をしてしまう。内心、赤くなっていると、「ご期待に添えるだけの良い肉用意してるから、食おうぜ!」と言いながら、直倫は背中を叩いてきた。

 早速、蒼生とみくの手によって肉が焼かれていく。

 バーベキューコンロは見たことがあった。そう、蒼生の家の土間にあったものだ。

 コンロの隣には、炭を入れたU字工の上に、素焼きの植木鉢を上下にドッキングさせた奇妙な物が二つ、置いてある。

「なんですか、これ?」

 デイパックを下ろしながらたずねると、蒼生がいたずらっぽく笑った。

「こっちは、鶏のハーブ焼き。もう一つは、パン焼いてる」

「すごい! 蒼生さん、プロのキャンパーさんみたいです」

 喉を鳴らして棚田は生唾を飲み込んだが、「大げさやなあ」と蒼生とみくは苦笑いする。

「そんな、難しいもんじゃないよ。鶏なんか今時、そこらのスーパーで丸ごとのヤツ売ってるし」

「パンは餅つき器のコネ機能使えば簡単だしね」

「ダッチオーブンとかさ、こじゃれた物なんかなくても、そこらに有る物で何とかするのが、バーベキューの醍醐味だよ」

「は、はあ」

 何を大げさに、と言わんばかりの蒼生と直倫だったが、棚田にすれば、もはや別世界の領域の話しである。

 突っ立って呆然としている棚田にむけて、蒼生は軍手をはめて、ほら、と上になっている方の植木鉢を持ち上げてみせた。確かに、漫画やアニメでみる丸ごとの鶏だった。良い感じで、照りと焦げが入っており、ハーブの香りと皮が焼ける香ばしい匂いが一気に周囲に漂った。空腹感を刺激する、実に罪深い香りだった。

「おいしそうですね」

「もうちょっとで焼けるからさ。パンと一緒に食うと格別なんだぜ」

「お野菜はジャガイモとニンジンとネギと椎茸、あとはサニーレタス。畑からの直送便だ」

「ほら、学者先生、せっかく直ちゃんが用意してくれた極上のお肉なんだから、どんどん食べてよ」

「は、はい、いただきます」

「焼きおにぎりは、お醤油と味噌、どっち派?」

「あ、お味噌でお願いします」

「よしよし、お味噌だなんて、分かってるじゃん」

 トングを預かっているみくは、豪快にポイポイとよこしてくるので、紙皿から落としはしないかとヒヤッとする。

 ――でも、楽しいな。

 よく考えなくても、こんなふうに誰かとワイワイしたことなどなかった。

 中学までは一クラスの少人数学校だったし、高校も公立校で真面目さが取り柄とばかりに勉強に明け暮れていたし、大学に入ってようやく都会に出てきたけれど、これまでの生活から人付き合いが苦手であり、そんな田舎者に誰も声をかけてくれなかったし、自分もそれで構わないと逆に壁を作っていた。

 だが、当然ながら周囲の陽気さと人生を謳歌している様子が羨ましかったし、そんな彼らをさもしく意地汚い目で見てしまう自分の心持ちも、寂しかったし辛かった。

 そこから脱するのは、ご大層な努力など実は必要なくて、ただ、自分から親しくなっていこうとする姿勢を見せれば良いだけなのだ、と棚田はようやく気が付かされた。

 雨音が強く奏でられるようになってきた、と気にして空を見上げた棚田は、ちょんちょん、とコートを引っ張られた。「ん?」と下を見ると、ひながいた。

「学者先生、こっち来て、一緒に食べよ?」

 ひなからは、最初の頃の、おずおずした様子が消えていた。誘われるまま、棚田はひなのとなりの席に陣取ると、肉にかぶりついた。

「先生、おいしいね」

「おいしいねえ」

 おしらさんの取材中、ずっと無視されていたのが嘘のように、すっかり懐いてくれている。隣にちょこんと座ってくれたひなが、屈託ない笑顔を披露してくれているのを見ると、棚田の胸にジーンと迫るものがあった。

 みくの手で皿に放り込まれる野菜と焼きおにぎりと肉を次々に食べ、手でむしった焼きたてパンの上にサニーレタスと鶏のハーブ焼きを乗せたものを頬張り、紙コップのジュースで何度も乾杯する。

「学者先生、そんで博士課程の受験はいけそうなんか?」

「はい、何とかかんとか……」

 受験要項などをかいつまんで説明すると、「やべーな、ソレ」と直倫と蒼生は同時に短く叫び、顔をしかめた。大体の仕組みが分かっているので、どれだけ大変かが手に取るように理解できるのだろう。

「にしても、バイトする時間なくね?」

「よく生きてられんなあ」

「カツカツですけど、親の仕送りと祖父母からの産地直送宅急便でしのいでます」

「そんなん、野菜と米中心やろ?」

「次の取材までの二ヶ月分の肉食っとけよ」

「そうさせてもらいます」

「足りんかったら、直ちゃんが買い出しに走るで遠慮すんな」

 蒼生たちと大笑いしていると、不意に、腕を強く引っ張られた。ひなである。みると、あからさまに頬をふくらませておかんむりの様子だった。大人達の会話がつまらないのと、棚田の相手役を盗られて怒っているのだ。

「先生、あのね」

「ん、何?」

「お母さんね、あおちゃんと直ちゃん達とね、一緒にお仕事してるんだよ」

「へえ、すごいんだねえ」

 口のまわりを焼き肉のタレでベタベタにしながら肩をすくめ、うふふ、とひなは嬉しそうに笑った。大人達から棚田を取り返して、してやったりといったところだろうか。とんだモテ方であるが、悪い気はしない。

「お母さんはすごいんだよ、難しい機械を任されてるの」

 ――そうか、みくさん、事務係のバイトを請け負ってるのかな。

 どうやら、ひなにとって、母親のみくが直倫と蒼生の手伝いをしてるという事実は自慢の一つのようだった。

 突然、ひょいと立ち上がったひなは、みくから二人分の肉を貰い受け、小走りに戻ってきた。そして、お箸をひっくり返してお肉を摘まみ上げ、ぽいぽいと棚田のお皿に移して寄こしてくる。

「ほらほら、どんどん食べて食べて」

「はい、頂きます」

 みくの口調や仕草を真似てみせるひなは、古い言い方をすればおしゃまでかわいい。

 ――こんな最高の、贅沢な時間があってもいいのかな。

 しかし、賑やかにしていると、一度引っかかった事が余計に気になって仕方がない。そこで、棚田は意を決してたずねることにした。

「あの、直倫さん、えっと、すごく楽しいんですけど、その、ご家族の皆さんにご迷惑なのでは」

「え?」

 コップを片手に、一瞬、不思議そうにした直倫だったが、ああ、と苦笑いした。家に来てから、一度も家族が出てこなかったのを、棚田が気に病んでいるのだと気付いたのだ。

「うるさくしてるんじゃないかとか迷惑なんじゃないかとか、気にしなくていいよ、親父は今、家のトラクターで田んぼ起こしに出てるし、お袋はそもそも、家にいないし」

「はっ?」

「介護だよ、介護別居」

 今度は、棚田の方がキョトンとする番である。苦笑しつつ、直倫は口ごもりながら理由を話してくれた。

「お袋の方の、俺にとってのお爺ちゃんがさ、太もも骨折しちまって。いや、もう治って元気してるんだけど、家に一人で置いておけないし、ってんで、施設に入れるようになるまで、ショートステイとデイサービス使ってしのぐしかなくて、それで」

「……」

「嫁は自分の親の介護はするもんじゃない、義両親の介護だけするもんだ、自分の親の死に目に会えると思うな、親は葬式だけ出られれば充分とか、アレコレ文句やら嫌みやら言う外野席はまだ多いから、お袋も親父も大変なんだけど」

「バッカじゃないの、自分の親の面倒みて、なーにが悪いってのよ」

 昨今、よく聞く話しだが、女性であるみくは一刀両断で手厳しい。しかし、棚田自身も、自分の幼少期の世話をしてくれた祖父母の事を思うと胸が痛むから、直倫の気持ちと立場は身につまされるものがあった。暗くなりかけた場の雰囲気を変えようと、敢えて明るく、棚田はたずねた。

「そ、それじゃ、席田さんは、どうしてまた、田んぼに? 直倫さんたちの大型トラクターを使えば良いことなのに」

「うん、ま、ね、色々あってさ」

 直倫は、今度こそ言葉を濁した。

 直倫だけでなく、蒼生も、そしてみくも、それまでの明るさをなくして、どんよりと口をつぐんでいる。唯一、にこにこと変わりなく、もりもり食べているのは、ひなだけだ。

 やり始めはあんなに盛り上がっていたのに、この話題から何となく気まずくなりだして、遂には尻すぼみ的にバーベキューが終わってしまった。

 片付けに入ると、バーベキュー中直ぐやんだ雨が、またパラパラ来始めた。

「……親父、まだ戻ってこんのか」

 流石に、直倫が気にしはじめた。蒼生とみくも、気にしている。棚田も勿論、気になっていたのだが、別のことも気になっていた。

「直倫さん、今の時期に田起こしするってことは、この辺りは早生を作付けしてるんですか?」

「は? あ、いいや、この辺りはどっちかっていったら、晩生品種なんだけどな」

「え、なら、どうして?」

 思いも寄らない返答に、棚田の動きが一瞬、止まった。

「僕の田舎、この棚田、っていう名字で分かると思うんですけど、山の方で棚田ばかりの所で、山だと当然気温が低いから早生が主流なんですけど、その、今くらいに田起こし始めるので……」

 一気にまくし立てると、直倫は、うんうん、と頷いてみせた。

「うん、分かるよ、でも、俺らが田を起こしていたのは自由販売用の米だから」

「えっ?」

「田舎が稲作農家なら、学者先生も分かるだろうけど、休耕田制度があるだろ? ここら辺は結構、一気にまとまって休耕になるんだ」

「いつもならそのままにしとくもんだけど、俺と直ちゃんは所有者の人らに了解とって、そこに飼料米と米粉米、日本酒用の米栽培をやってみよう、ってなってさ。元々は遊ばせておくしかなくて税金だけむしり取られるだけの所が、お金がはいるんだぜ? やらない手はないだろ?」

 蒼生の熱っぽい説明に、また、華子夫人の言葉が思い出された。

 身振り手振りまじりに、蒼生が説明を続けていると、敷地内に一台の軽トラックが突っ込むように入ってきた。乱暴な運転に怖がったひなが、みくの背後にさっと隠れた。

「誰でしょう?」

「木田のおっちゃんじゃない?」

 確かに、左義長の時、運転手だった木田文徳だった。駆けよりながら、「おじさん、どうしたんですか?」と蒼生はたずねる。軽トラックから降りてきた木田は、蒼生を突き飛ばす勢いで怒鳴った。

「直倫はどこや!」

「え? そ、そこに……」

 今度こそ本当に、木田は蒼生を突き飛ばして直倫に迫った。

「おじさん、何かあったんですか?」

「直ぐに来い! トラクターが田んぼで横転して、和さが下敷きになっとる!」

 直倫の腕を掴んで激しく揺さぶる木田の両眼は赤く血走り、口の端には唾が泡となって浮き、汗で前髪が額に張り付き、まるで鬼のような形相である。

 恐怖のあまりに、ひなが声を張り上げて泣き出した。



第八話 みざる、いわざる、きかざる

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