第五話 助命壇
高校時代から愛用している春物のジャンパーを着込んだ棚田は、再び、バスに揺られて河間町までやってきた。
三月第二の土日に行われる、おしらさん祭りの取材のためだ。
大きく伸びをする。
進級が確定した安心感からか、浮かれた春の陽射しと風の中、綻んでいく花々が小躍りしているのを全身で感じられる。
しかし、昨日までの雨が空気と地面には残っているせいか、湿気の中に青臭さがあった。俗に、女心と秋の空、などと言われるが、実際には春の方が偏西風などの影響で天気は変わりやすい。
今どき珍しいジジババっ子として育った棚田は、とかく天候を気にしてしまいがちに成長していた。湿気と気圧の変化は腰痛の天敵である。気遣いから、いつの間にか、というやつであった。
一月に引き続いて取材をしてきて欲しいと土井教授に頼まれた棚田は、心が浮き立っていた。腰痛が一向に快癒に向かわない教授には申し訳なく思う。
だが、またあの異空間に近い雰囲気に、というよりも風に触れられるのかと想像するだけで、もう、辛抱たまらないのである。
しかし一方で、一月の取材時にあんな重大事件に巻き込まれておきながら、再び、のこのこやって来るとは、よほど懲りないちゃらんぽらんな奴か、もしくは無神経な呑気者と村人たち一同に思われてしまうだろう、とすくみ上がってもいた。
嬉しいが、それ以上に気が進まない、という相反する感情が棚田の中でせめぎ合っていた。
――僕が凶事を運んできたんじゃないか、とか思われていたら、どうしよう……。
迷信を信じている。
と言うよりも、棚田は、その土地その土地独特の信仰心を持つ者を追っかける事を学問としている。
一つ一つ見れば何程の事ではない、ただの偶然を、神懸かりからの必然にしてしまう、それが信心というものである。信心が深いからこそ、この小さなむらで祭りが連綿と続けられている。つまり、棚田の存在をそうした目で見る可能性の方が大きいといえよう。
それ故に、親しくなったみくに、取材続行を頼むのは気が引けていた。
これ以上は後送りするのはさすがにまずかろう、という時期を更に幾日も超えて、棚田はようやく重い腰をあげ、みくにメールで連絡をとった。瞬間、携帯電話が鳴り響いた。おろおろしながら、「はい、棚田です」と応じる前に、怒濤の勢いでまくし立てられた。
「ちょっと! あれから一回も連絡してこないなんて! めちゃくちゃ心配してたんだからね! ねえ、大丈夫? 警察沙汰とかになっちゃって、教授先生から怒られてない? ご飯、ちゃんと食べてる? 勉強は? 進級に響いてない? 迷惑とか思ってないから、また取材においでよ。ひななんかさ、いちごミルクキャンディの学者先生来ないの寂しいな、なんて言ってるんだから」
「……はい」
答えながら棚田は、何故だか溢れてくる涙を必死で堪えた。
※
一月の左義長の時、何があったのか。
知り合いとなった護田蒼生の父、護田満夫が変死体で発見されたのだった。
第一発見者は、息子である護田蒼生、清水瀬古の席田直倫、東海瀬古の薮田陽吾の三名である。藪田陽吾は、規約により今年度の河間町自治会長を務めている人物である。
今年度の祭り関連の世話役の一人である藪田陽吾は、主に独居世帯をまわって左義長の火で焼く御札などの回収を行っていた。この時、父親を探しに出ていた蒼生と直倫に、遭遇し、そこで中央の道の用水路内に居た護田満夫を発見した。
この時、側溝内に頭からはまり込むような状態でうつ伏せに倒れていた護田満夫は、呼びかけに応答しなかった。
おそらくは意識不明ではなく、もう心肺停止状態だったのだろう。
蒼生と直倫が満夫を用水路より救出し救急車を要請している間に、パニックを起こしたまま藪田陽吾は神社に駆け込み、町民の半数以上が事件を知るきっかけを作る事になった。
救急隊が到着すると護田満夫の死亡が確認され、直ちに警察への連絡がなされた。
検死の結果、護田満夫の予想死亡時刻は夜中の一時ごろと推定された。
酔って凍結した路面で滑り、側溝に転落し頭部を強打しているが、出血は少なく、脳にダメージがいく系の内因性はなかった。
死因は、頭部裂傷が直接の原因ではなく、むしろ気を失っている間の、当日の寒波によってであった。
当時の気温は、予報をはるかに上回る寒さのマイナス8度。強風による体感温度はおそらくマイナ20度を下回っていたのだ。
酩酊状態の護田満夫は側溝に流れる水で全身を濡らしており、この夜の気象条件からもヒートショック、つまり心筋梗塞をおこして死に至ったものと推察された。管理入院するほどではないが重い糖尿病患者であった護田満夫にとって悪条件が重なりすぎたのが不幸を招いた、と言えた。
外傷は、頭部の裂傷の他は、側溝に転落した折の擦り傷以外はなかった。頭部を強打して気絶していた為、自分の心臓が止まった事にも気付かなかった、つまり、痛みもなく死に至ったであろう事実は、これもまた、深い不幸中の僅かな慰めにもなった。
以上の観点から、事件性は無し、と警察は判断した。
護田満夫の遺体は家族の元に返され、二日後に通夜、三日後に荼毘に付された。
なお葬儀は河間町ではなく、満夫氏の住まいとなっている駅前マンションにほど近い総合葬儀場で執り行われ、喪主は生前に満夫氏が残していた遺言により、後妻の華子ではなく長男の蒼生が務めあげた。
ただ、警察の調査内容に蒼生は直ぐに納得できず、何度も食ってかかった、とみくはため息まじりに零した。
「何故ですか?」
「ん~……」
あからさまに、しまった、どうしよう、と聞こえてきそうな感じで言葉を濁しつつも、みくは話し出す。
追いついてきた直倫と共に、真っ直ぐに家に戻った蒼生は、家の中で酒を呑んだ形跡があるのを発見した。座敷の畳の上には空のビール瓶が三本も転がっており、座敷机の上には向かい合うようにコップが二つ、そして灰皿には、やはり向かいあう形でもみ消したタバコが二本、残されていた。
蒼生は、普段は潔癖に近い護田満夫が机上を呑み散らかした状態で出かけているのを訝しんだ。しかし、後片づけよりも先に父親を探す事を優先し、結果的にこれが警察の捜査に大きく貢献したのであるから、何が幸いするか分からない。
その後、蒼生と直倫は今度は中央の道を一緒に歩いて神社に向かったのであるが、例の信号機の所まで来ても見つからなかったので、直倫はコミュニティセンターに向かう南回りの道を、蒼生は中央の道を、それぞれまた神社に向かいながら護田満夫を探そうと相談していた折に、ちょうど町内を回っていた自治会長の藪田陽吾と出くわした。藪田陽吾に事の次第を話しながら何の気なしに歩き出した直後、側溝に落ちていた護田満夫を発見した。これもまた、どこでどう自体が転ぶものか分からない、の実例である。
――側溝に横たわるお父さんの姿を見つけた時の蒼生さんの気持ちは、一体全体、どんなだったか。
想像するだけで、やりきれなく、棚田は切なくなり涙が浮かんできた。
と同時に、彼らが衝撃に打ちのめされていた頃、のんきに取材に浮かれていた自分は何と浅ましい人間なのかと、空恐ろしさに打ち震えた。
新聞には、「事故で」としか載らなかったのに、どうしてみくも護田満夫の死因をそんなに詳しく知っているのかというと、彼女も一応、重要参考人のうちの一人として警察から事情聴取のようなものを受けたからだと暴露してくれた。
「でも、ごめんね、これ、内緒にしといてね」
「勿論です」
済まなさそうなみくに、棚田は被せぎみに慌てて答えた。
最も、怪しいと言えば、村中が怪しいとなってしまう状況ではある。それぞれ互いにアリバイを証明できてしまうというのは、つまり究極には誰もが犯行可能であると言えるのだ。
が、そこは流石に優秀な日本の警察と言うべきか、調べた結果、事故である、という判断に落ち着いたのだった。
当然である。が、蒼生はこの結論に猛烈に反発した。
父は、酒が強よないんです。しかも、数十年前に糖尿病予備軍になって薬を飲むようになってから、更に控えるようになってましたから。もちろん、付き合いで一杯傾けるくらいとか、その程度には呑みますが、酩酊して転倒をするような自暴自棄みたいな呑み方するなんて、絶対にしません。
一応、ここは僕の持ち家ということになっているので、学生時代の友人たちを招いたり、ようはたまり場になっているので、ビールやら酒類は常備してはいます。それに、祭り関係で父が泊まりに来ている時、たまに二人で呑むこともありました。その時だって、父はコップは二杯まで缶なら一本まで、って決めてそれ以上はどんなに誘っても飲もうとしなかった。
それに、今日は左義長の手伝いをすることになっていたので、僕が家を出る時まで、僕も父も、酒は一滴も口にしてません。大体、責任感の強い父が、役目をほっぽり出して一人で飲んだくれていた事が、息子の僕からしたら信じられないんです。
「刑事さん、これは絶対に何かがおかしいです」
蒼生の言い分に、村中の人がそうだそうだ、とこぞって頷いたらしいのだが、これも結局、酌み交わしていた相手は村の中からは発見出来なかったのだから、この事実は当たり前のように無視された。
何故なら、コップやタバコにつけられていた指紋や唾液は、容疑者の内の誰とも一致しなかったのだ。つまり、二つのコップの指紋と唾液は、そのどちらもが護田さんのものであり、向かい合って吸った形跡のあったタバコに付着した唾液も護田満夫本人のものだったのである。
妻にも息子にも知られずに何かから逃げるように無茶な飲酒をしたくなる時も人間はある、そんな深い闇のようなものを当時の護田満夫は抱えており、そして酩酊した挙げ句に事故で命を落とした、それが警察の最終判断であり、また、覆すだけの力を持つ者は、村人の中には居なかった。
「――まあ、そんな感じで」
話し終えたみくが漏らした吐息は、悔さの塊だった。それだけの怒りの熱が、電話越しにも伝わってきた。幼馴染みの父親、となれば親同士も馴染であり親近感も抱いていたであろうし当然だろう、と棚田もしんみりくる。
――でももう、何が何やら訳が分かりません。
正直に白状すれば、棚田自身も警察から任意で呼び出しを受けていた。軽い事情聴取のようなものである。ほぼ書類を作成するための儀礼的と言うか、簡素なものであり、直ぐに解放された。
大学に戻ると、警察から連絡を耳敏く察知した、下世話な興味に取り憑かれた先輩連中に棚田は囲まれた。
しかし、要領をえない棚田の口調から彼らの一気に興味は薄れたらしく、ものの半日で彼らの脳から河間町の事件は消去された。所詮、SNSニュースの端にも引っかからない事件など、快楽的に消費できないと見なされれば無価値の判子を押されるのだ。
こんな騒ぎの最中であったが、二月の口頭諮問会を棚田は無事にクリアした。無論、下から数えた方が早い成績であったが、クリアはクリアである。端から見ても一心不乱に論文と諮問会に取り組めていたとは到底、言い難い精神状態と状況だったのだから、よくもまあ突破できたな、と周囲にやっかみ半分呆れ半分で褒められた。教授の口添えがあったのではという勘繰りを受けたのも、一度や二度ではない。
とにかく、棚田初の大きな取材旅行は散々に蹴散らされてしまったのは事実である。
――これではもう、次の取材は遠慮しなさいと言われてしまうだろうな。
棚田はしんみりしつつ覚悟をしていていたのであるが、続行の依頼を土井教授から示唆されて、喜びに文字通り飛び上がった。
――でも、今それを、蒼生さんたちの前で見せるわけには、いかないですよね。
自分と違い、蒼生は不慮の事故で父親を亡くしている。
それは絶対に忘れてはならない、と棚田は心に刻み込んだ。
バスの停留所に降り立った棚田は、陽射しだけでなく、通りすぎる風が温んでいるのに気がついた。
停留所の脇にある水溜まりのような小さな隙間には、犬ふぐりやツクシが芽吹いて軽やかに風中で泳いでいる。
「……春だなあ……」
独りごちた棚田は、さて、と体を揺すった。目指すのは、蒼生の家であった。
一月に来た時とは逆方向に、手にした紙袋を鳴らしながら歩き出す。お通夜にも葬儀にも参列できなかったのだから、せめてお線香くらいはあげさせて貰おうとお供えを用意してきたのだ。
直ぐに訪れず今日の取材日まで待ったのは、四十九日を過ぎてからの方が蒼生の身辺もある程度落ち着くだろう、という棚田なりの配慮からだった。
数分歩くと、今時珍しい槇の垣根に囲われた、大きな古めかしい家が見えてきた。
地図では、ここが蒼生の住まいである。
垣根に沿って、屋敷の中に入っていく。道から屋敷の中までは坂になっており、玄関先までゆくと一メートルは高くなっているように感じられた。明らかな洪水対策に、棚田の心は躍った。
「おおっ……」
敷地内に足を踏み入れた途端、感嘆のため息が自然について出た。
お屋敷と表現するに相応しい敷地である。近年流行りの建売住宅ならば、六棟は楽に建つ広さがあった。ざっと見たところ、ゆうに四百坪を超えるだろう。門扉代わりとして桜の木が左右対称に植えられているのが珍しく、目を引く。こういう類いには大抵は松の木を植えると、棚田でも知っている。
家屋は南玄関の、昔ながらの厳めしさのある建造物であった。家の西側には樫の木やモミジや松など、高めの木々が植えられて風除けにされており、南正面にはドウダンツツジや椿やツゲなどの庭木が丸く刈られ、庭園風に植えられている。
家屋の東隣に屋根付きの駐車場があり、人気色であるジャングルグリーンのジムニーが停められていた。駐車場まえには畑が広がっており春野菜や苺の葉が青々と茂っていた。
見慣れない植物は、西洋ハーブなのかもしれなかった。しかし、あの現代的な美形の蒼生が苺の苗やハーブなどを丹精込めて世話をしているのかと思うと、面白いというか、可愛らしさを感じさせた。
――ギャップ萌、ってやつかな。
敷地の東側にはコンクリート製の立派な農機具小屋と、果樹園のつもりなだろうか、梅やみかんに柚、枇杷、ハッサクやイチジクなどの他に、ブドウやキウイまで、なかなか多種多様に果物の木が植えてあった。
重たそうなシャッターが下ろしてある農機具小屋は、大きさとしてはそこらの建売住宅など及びもしない立派さで、建坪もある。
田舎だからというのをさっ引いたとしても、これだけの面構えの屋敷を蒼生は己一人の稼ぎで支えているのだから、どれ程の甲斐性持ちなのだろうか。未だにどっぷり親のスネかじりで大学院に通っている自分とは天と地ほどの差がある、と棚田は目眩を覚えた。
――あれ?
よく見れば、屋敷の南西、植木と畑の境目に、一段高くなっている部分があった。
盛り土というよりも、はっきりと段がついており、石垣で固めてまであるのだ。庭の造作的なものではなく、なにか、目的があって地面を高くしてあるように見てとれた。
――あ、これは。
無意識にポケットを探ってメモ帳を探していると、「学者先生じゃん」と背後から声をかけられた。ひゃっ、と飛び上がりつつ振り向くと、農作業着に身を包んだ蒼生が、あの眩しい笑顔で立っていた。
「よっ、久しぶり」
「蒼生さん、ご無沙汰してました、あの、これ」
口籠もりながら、紙袋を差し出した。こういう時の切り出し方は、頭で分かっている。だがそれを確実に、そしてスマートに実行に移すには、棚田は人生経験が浅すぎた。と言うよりも、棚田は学校以外の世界を知らない。まごまごしていると、蒼生の方が気を利かせてきた。
「わざわざ、焼香しに来てくれたんや、ありがとな」
「……はい」
頭を下げた棚田に、「ありがとな」ともう一度、蒼生は呟いて紙袋を受け取った。
蒼生に勧められるままに向かった古めかしい引き戸の玄関は二間もの幅があり、四畳半はあろうかという広々とした土間を有していた。
――土間だけで僕のアパートのダイニングキッチン以上あるな、これ。
土間には、二十万は楽にしそうなロードレーサーが乗り入れてあった。自作と覚しき棚にヘルメットや道具が見栄え良く揃えてあり、ここを手入れ場にしているようだった。その他に、スノーボードと、ブラックバス専用の釣り具なども数本、手作りと覚しきラックを設えて立てかけてあるし、最近流行りのソロキャンプの用具とバーベキューコンロも一揃い、簀の子の上に用意してある。
上がりかまちの前には、高そうな革靴が黒・紺・茶と三足、あとはランニング用のシューズとサッカーか何かか、スパイクをかませたシューズも置いてあった。そういえば、ジムニーもカスタムバージョンのようだったし、蒼生はなかなかの多趣味のようである。経済格差だけでなく、経験値や人生の楽しみ方の差が寒々と身に沁みる。
「あがってくれよ、学者先生」
後からついてきた形であったはずなのに、蒼生が、ひょこ、と家の奥から顔を覗かせ、手招きしてきた。駐車場側から、勝手口に続いているらしい。
「では、失礼します」
「ちょうど先週、四十九日終えて納骨したばっかりなんや」
靴を揃えてあがると、八畳二間続きの和室が広がっていた。奥の部屋が仏間と床の間がある、いわゆる『座敷』である。
男の一人暮らしであるのに、荒れもせず散らかりもせず、清潔に整えられている。というよりも、土間が蒼生の趣味の間と化しているのと比べて、殺風景に近かった。
男の一人住まいだから床の間に花がないのはしょうがないとしても、和室には黒檀色の座敷机がそれぞれ一台ずつ存在感を示して鎮座している以外は、襖を背に小さめの本棚が一つあるきりなのである。
「座敷の方は特に使ってないから、何もないだけや。自分の部屋は、それこそ散らかりまくり。見せるの恥ずかしいわ」
言い訳がましく言いながら、蒼生は仏壇の前まで真っ直ぐに進んだ。こそこそと、棚田は後をついて行く。
仏壇の正面に正座した蒼生は、ポケットの中の数珠を探りつつ、大戸、続いて障子を開くと、座を棚田に譲った。形式は浄土真宗のものであるが、本金箔漆塗りの立派な仏壇である。宮殿や欄間、大柱の手の込んだ細工は古い時代のもの特有の荘厳さがある。相場を知らない棚田でさえ、相当な年代物で価値がある、と一目で分かった。
ポケットから数珠を出し、おりんを鳴らして拝む棚田の背中を、数歩下がった位置で蒼生はじっと見つめていた。おまいりを済ませた棚田を、蒼生は土間からあがって直ぐの和室に座るように誘った。
「せっかくだし、お茶入れてくるわ。ゆっくりしてってくれよ」
そう言って、蒼生は奥に消えていった。「お構いなく」と言いながら、棚田は何の気なしに本棚を覗き込んだ。
整然と並べられている本には全て透明なカバーがかけてあるので埃は被っていないが、どれも相当な年季が入っている。
――古本屋さんにいるみたいだ。
ラインナップはホラーやミステリー、社会派小説や時代小説と雑多である。何度も映画やスペシャルドラマになっているような有名作品が中心だったが、知る人ぞ知るという作家もちらほら混ざっており、どうやら作家買いしているようだった。
雪の中の完全密室殺人事件を題材にした、ミステリー小説を手に取った。この本をチョイスしたのは、読破した覚えはないのに、何故か粗筋が頭に入っていたからである。
ゆっくりと燻されたように変色したページを丁寧にめくって拾い読みし始めると、はたして、ドラマの再放送を観た記憶が蘇ってきた。
「そうそう、コップを受け取るときに指を見てビビるんだよね」
物語のキモまでしっかり思い出した棚田は、最後まで一気にページをめくった。最終ページには、発行日が記載されていた。
昭和も半ばの数字を見た棚田は、そこでやっと後ろめたさを感じ、そっと本を戻した。年代からして、蒼生の蔵書ではなく父親の護田満夫のものだろう。となると、これらの本は大切な遺品である。
ふと、棚田は、もう一度仏壇の方に首を伸ばした。
――見える……かな?
この辺りの、古い時代の家屋の仏間には水害に備えて、大事な仏壇を二階に避難させるための滑車のようなものが仏間に作り付けられているのだ。
その名もそのものズバリ、上げ仏壇、という。
最も一般的ではなく、相当に裕福な家でなければ備えはないのだが、ここまで立派な屋敷であれば見られるかもしれない、という期待感が棚田の体を突き動かした。
ちら、と蒼生の方を伺うと、アニソンを鼻歌まじりに歌っているのが聞こえてきた。
「まだ時間がかかりそうかな……」
許可も得ずに、とは思いつつも、気になって仕方なくなってしまった棚田は、膝を使ってじりじりと仏壇にじり寄った。
そおっと手を伸ばした時、「どなたか、お客様でいらっしゃいますの?」と玄関から中年期の女性と覚しき声が飛んできた。
ビクッ、と身を縮こまらせ、あたふたと背後を振り返ると、お盆を手にした蒼生が奥から戻ってきた所だった。
「あれ、義母さん? どうしたんですか?」
来訪は予定になかったのだろう、心底驚いているようで、蒼生は目を丸くしている。
かあさん、ということはつまり、蒼生の継母であり、満夫の後添いであり、つまり、今回の事件の未亡人の華子夫人、である。
見た目は直倫と同じくらいの年の頃と見受けられる華子夫人は、夫の死からまだ立ち直っていないのか、面やつれしていた。それでも、メイクは手を抜いておらず、髪の毛もアップにまとめあげ、深い紺色のフォーマルなワンピーススーツを身にまとい、肩に薄いシフォンをスカーフを巻き、上等な香水の香りを上品に漂わせ、己の美しさを維持する事は忘れてはいないようだった。つまりそれは、元県議を夫に持つ者としての矜持、プライドでもあるのだろう。
「来るつもりだったのなら、言っといてくれれば良かったのに」
お盆を机に置き、慌てて奥から座布団をもう一枚持って出てきた蒼生に、華子夫人はどこか虚ろな笑みを浮かべながら頭を下げ、真っ直ぐ仏壇にむかった。
手を合わせている本来の彼女はもっと、輝かしい美しさを放つべき女性なのだろうが、疲れはやはり、隠しきれていない。
それとも、蒼生の前では虚勢を張らずにいられる、ということなのだろうか。
どことなく腰の落ち着きの悪さを感じつつ、棚田は元の場所に座り直した。
「義母さん、明哉は元気にしてる?」
「……」
自分の分だったはずのコーヒーを華子夫人に勧めながら、蒼生は年の離れた母違いの弟を気にかけた。が、華子夫人は「そうね」となんの返事なのかよく分からない言葉を返したまま、コーヒーの湯気を見つめるばかりである。
「……義母さん、どうしたの? 何かあったから、来たんだろ?」
「……」
さらに強く問われた華子夫人は、それでもまだ無言を貫いていたが、再度、「義母さん」と促され、ようやく、重い口を開いた。
「蒼生さん、財産分与の件ですけれど、あの……本当によろしいの?」
おずおずと切り出した華子夫人に、蒼生は、虚を突かれた表情をしてみせたが、直ぐに人好きのする笑みを浮かべた。
「まだ、そんなこと気に病んでたんですか」
「そんなこと、って……」
軽く絶句した華子夫人は、ちらり、と棚田を盗み見た。家の内情を他人に見られるのは不愉快なのは当然であるが、余りにも視線が冷たい。一気に冷や汗に塗れだした棚田から、ぷい、と視線を外した華子夫人は蒼生には、すがるような目つきをしてせみた。
「気にしますよ、大切なことですもの」
「葬儀の後にも言ったけど、僕は住まいもここに持ってますし、自分の稼ぎで充分、食っていけますんで。親父のものは何もいりません。明哉に良いように、してやってよ」
「でも、お父さんの財産は、あなたが考えているよりも、かなり広範囲に及びますし、おいそれとは口にできないような金額ですのよ?」
「義母さん、知ってるでしょ」
言葉を切ると、蒼生は足を崩した。
「財産だったら僕はじいちゃんとばあちゃんだけじゃなく、母さんの方の財産も貰ってて、何なら親父よりも一財産持ってるんだって」
「……でも」
「親父の財産あてにしなくちゃいけないほど生活乱れてないし、僕は自分の稼ぎでやっていけてます。でも、明哉はこの先、中学、高校、大学と、物入りになっていくばっかりだ。財産、僕は放棄しますから、遠慮しないで明哉の為に使ってやってよ」
「……でも」
「もしもこの先、金銭的に窮乏するような事になったとしても、義母さんに迷惑はかけません」
「……でも」
「あ、税金のこととかで大変なんだったら、僕、手伝います」
「税金関係のことでしたら、それこそが私の仕事でしたから、心配には及びませんわ」
「そうでした。親父は家のこと、義母さんに全部任せっきりだったから、何なら親父よりも資産に関しちゃ詳しいですもんね」
「……」
華子夫人は探るように蒼生を見つめ、そしてコーヒーカップに手を伸ばした。豊潤な香りを放つ湯気が、華子夫人の美しい顔をほんのりと隠す。
しかし、財産を巡っての、とんだ修羅場に出くわしたものである。
棚田は全身を汗で濡らしながら、二人と視線が絡まないように、もぞもぞと手指を組み替えたりしながら座っているしかなかった。
※
無言の空間ができあがると、そのまま、この座敷だけ切り取られてしまったかのように重い空気が立ちこめてしまい、誰も口を開けなくなってしまった。
かち、こち、と時計の針の音だけが、全てのようになってしまって、数分――
突然、沈黙を破る者が現れた。
「おーい、あお~! いるか~?」
一瞬、まごついてから、「おお、直ちゃん」と言いながら蒼生は立ち上がった。
「ごめん。ちょっと、出てって良いですか?」
拝むようにする蒼生に、華子夫人は頷きでもって答えた。玄関から出て行った蒼生と直倫の話し声が、風にのってきた。
完全には聞き取れないが、誰それさんから急遽、頼まれてくれと依頼があって、などという会話がこぼれ届く。華子夫人の耳にも届いたのだろう、くす、と声をたて微笑んだ。やっと、華子夫人の表情に母親らしいものが浮かび、何故か棚田は、ほっとした。
「蒼生さん、席田さんたちと一緒に事業を立ち上げてられて、今年で三年目になるんですのよ」
「事業を? 蒼生さんと直倫さんが?」
「ええ、私は、よく分からないですけど、出資者の一人として名前を連ねているのですって。軌道に乗るかどうかのところですから、今が一番、大変ですけど面白くもある頃なのでしょうね。主人とも、とても楽しそうに話しをしていましたわ」
華子夫人の口調と表情は、ただただ家族を自慢する、それである。血の繋がらない親子だから、家族として成り立たなくて家庭内は冷えて崩壊しているのでは、というのは実は下衆の勘繰りの何物でも無く、満夫氏と華子夫人、そして蒼生と腹違いの弟は真っ当な親子であり、家族として上手く結びついて良い関係を構築しているのだと、棚田は華子夫人の笑み一つで察する事が出来た。
「去年までは、設備投資と事業計画書に振り回されて、てんてこ舞いだったみたいですけれど。今年からは、あれもこれも、あとは実行に移すばかりなんだと主人に熱っぽく話しているのを見て、ああ、やっぱり親子なのね、と思わせられましたわ。……良いものですわよね、若さに任せて、夢に向かって、脇目も振らずに一心に走ることができるって。素晴らしいわ」
言われれば、ともに理系の直倫と蒼生であれば、軌道に乗せるまでの算段をつけるのは得意そうである。自分には、とんと接点のない世界の話しであるが、夢を実行に移すだけの実力と熱い行動力を持っている人物が、実際に有言実行とばかりにどんどんと形にしていく所を見られるというのは、確かに胸がすいて気持ちが良いものだろう。
漏れ聞こえる蒼生と直倫の会話に聞き耳を立てていた棚田だったが、目の前の華子夫人の微笑みに気が付いたのを契機に、シャキッと背筋を伸ばした。それまでは、ずっと背中を丸めていたのだった。
「不躾でございますけれども、蒼生さんとは、どのようなご関係でいらっしゃいますの?」
「あ、申し遅れました、僕は」
優秀な息子の友達らしからぬ人物の甲乙を判定しようとするかのような華子夫人の真剣な眼差しに、棚田は、土井教授の代理として取材にこの町を訪れ、左義長の晩に知り合った経緯などを一気にまくし立てていた。
「そうでしたの、それは、わざわざ主人の為に焼香に寄ってくださって、ありがとうございます」
華子夫人は、目を伏せつつ手を畳につき、丁寧に頭を下げた。やはり、長年、議員の氏を内助の功で支え続けてきただけのことはある。所作が自分たち世代の、若造のそれとは根本から違う。慌てる棚田に、華子夫人は、微笑んだ。
「でも、こんな何もない、辺鄙なところの取材だなんて、ずいぶん変わっていらっしゃいますのね」
「は、いえ……」
「この村に学術的な価値があるだなんて、私には到底思えませんけれど、先生方の目には宝の山と映るのだとしたら、面白いですわね」
「は、そのう……」
「お気を悪くなさらないで下さいませね」
突然、協力を申し出た華子夫人は、オフホワイトの名刺を、すっと棚田の前に差し出した。
名刺には、『護田・畑 総合会計法務事務所 代表司法書士 畑華子』とある。どうやら、畑が華子夫人の旧姓らしい。
この名刺の流れでいくと、護田満夫は公認会計士か税理士の代表として、夫人と二人三脚で事務所を構えていたのだろう。
蒼生たちの事業の相談にのっていたというのは、親が心配して酒の席を用意して話しを聞いていた、とかいうチョロいレベルではなかったらしい。
そして、蒼生が祖父母の財産を相続するときに継母の世話になったという話しを思い出した。なるほど、司法書士ならば相続関係こそは真骨頂の分野である。
それにしても、代表と言うことは社長や専務取締役という事である。そんな父親よりも資産がある、とさらりと言ってのけている蒼生が、棚田は薄ら寒く感じた。
思わず、小便をした後のように体を震わせると、華子夫人はそれを緊張からと受け取ったのか、まあ、と慣れたように笑った。実際、自分の身分を知った途端に、壁を作られる事に慣れているのだろう。
「棚田さんの取材が、少しでも実りあるもとなりますよう協力は惜しみませんから、何かありましたら遠慮なく、おっしゃってくださいね」
「……はい、ありがとうございます」
「本当に、遠慮なさらないで下さいね、蒼生さんと懇意にされている方ですもの。助力は惜しみませんわ」
華子夫人は上品な奥様言葉を決して崩さない。きっと、激昂することも取り乱すこともなく、生まれた時から涼やかに穏やかに、こうした話し言葉に囲まれていていたに違いない。それは出自がある程度その人の人柄を育てるのだと、棚田に真っ向から見せつけているようであった。
――何とも答え難いなあ。
棚田はごにょごにょと曖昧にお礼を口にした後、押し黙った。小さくなる棚田が哀れに見えたのか、それとも慈悲の心がわいたのか、華子夫人はそれ以上は追求してこなかった。代わりに、雪見障子からこぼれる春の日差しに目を向けた。
「何にもないくせに、古くさい仕来りだけは山とあって、こちらの身も心も押し潰してくる――そんなところですのよ、ここは」
「えっ、はっ?」
戸惑いながら顔を上げた棚田は、遠くのおぼろな風景を覗いているかのような華子夫人の横顔を見詰める形になった。
「私も、主人と結婚したばかりの頃は、それはもう、ええ、色々とはりきって、村の行事に参加させて頂きましたの。でも、ここでは、嫁というのは先ず役立たずの出来損ない、子供を産んでやっと半人前、死なないと村の人間として受け入れて、いいえ、認めて貰えない。そんな、とんでもない所ですのよ」
後れ毛を手の平で撫でつけた華子夫人から、香水の香りが漂ってきた。先ほどは上品に感じられたのに、今は、まるで風に乗って絡んできた蜘蛛の糸のような不思議な存在感でもって、ねっとりと纏わり付いてくる甘さがある。そう、香りはまるで罠の縄ように伸びてきて、棚田の身を絡め封じてしまっていた。
「なくなってしまえば、よいのに、こんな、むら」
氷点下の声、とはこう言うのを言うのだろう。
棚田は、濡れた背筋から、全身が凍るような気がした。
第六話 席田直倫