第四話 護田満夫
コミュニティセンターに送ってもらった棚田は、神社にいる間にすっかり冷えきってしまった身体を温めるべく、まずは風呂に入ることにした。
昼間のウェザーニュースを信じるのなら左義長のピーク時に、このあたりも吹雪にみまわれる可能性がある。あまり遅くに風呂に入っては、湯冷めをして風邪をひく可能性があるからだ。
コントローラーをテレビにむけて、もう一度ウェザーニュースにチャンネルを合わせてみる。常に最新の天気をチェックするクセがついてきているようだ、と棚田は苦笑した。
午後九時をまわる頃から、早いところでは雪が降りだすでしょう
県内各地、明日は一日を通して降雪がみこまれます
山間部では、これまでの積雪もありますので、除雪道具の用意など対策をなさってください
水道管破裂が平野部でもおこる可能性がありますので、水を出したり水道管をタオルとビニール袋で保護するなど、今から対策を行うようにしてください
明日の最低気温はマイナス5度、最高気温は1度、強風のため体感温度はマイナス20度程度にまでさがるでしょう
お出かけの際には防寒対策をしっかりとなさってください……
マイナス20度、まるで未知の世界の話に棚田は慄いた。
「昼間よりも寒さが厳しい予報になってる……」
青くなりながらぼやき、みくに教えてもらっていたガス給湯器のスイッチを押す。電池が切れかかっているのか、数回、ガチャガチャと押しまくってようやく、派手な音をたてて着火した。
浴槽のほうに回って蛇口をひねり、流れ落ちる水に手を当ててみる。三十秒ほど、つき刺さるような冷たい水が流れ出るばかりだったが、やがて、少しずつ温もりあるものへと変化していった。蛇口の根本にある温度計で湯温設定をし、浴槽に湯を溜めはじめる。
しかし、湯が溜まるまで相当かかりそうである。そこで棚田は、先ずはビデオカメラのチェックを行いながら音声を拾っていく事にした。
――ボイスレコーダーは、まだいいかな。
大事な取材の相棒なのだから、うっかり忘れてでもしたら大変であるし、ビデオで音声が拾えないとなったら取り出せば良いのである。
実際、ビデオカメラを再生してみると、意外と手ぶれが少なかったし、音声もはっきりしていた。
――良かった、ちゃんと聞き取れる。
これならば、ボイスレコーダーの音声は大学に戻ってからでも良いだろう、と棚田は安堵した。
ビデオカメラに、改めて向き合う。
方言が色濃い時はあえて平仮名表記にし、漢字や標準語に勝手に変換はしない。意味が全く違ったものになってしまう場合があり、そうした誤りをなくすべく、少しでも地方独特の言いまわしを習得するための、棚田なりの知恵だった。
ビデオチェックには、それにもう一つ、大切な意味があった。
瀬古代表の人物がほぼ来ていた、ということはつまり、村の重鎮そろい踏み、ということだ。
夜中に境内に行く前にせめて、ここに参加している人物の顔と名前くらいはしっかりと覚えておかないと、心象が悪くなる。今後も、教授とともに取材を行うつもりならば、それは避けて通りたかった。
浴槽内に溜まる湯の音を気にかけながら、ビデオから聞こえてくる名前と顔を頭に叩き込む。
「え~と、今ぼくに説明をしてくださっている方が――」
郷田蒔蔵さん、蒔蔵さおじっさ、西加瀬古、おじっさの代表格
奥にいるかっこいい方が、
護田満夫さん、瀬古は東海
そして、みくさんのお父さんが、
泉田俊樹さん、瀬古は清水屋敷
丸っこい樽のような体つきの自治会長さんは、
藪田陽吾さん、瀬古は東海
自治会と話しをしている、白髪頭の方が、
安田勲さん、勲さ、西加瀬古代表
隣と目の前に居る方々が、
遠田勝美さん、勝さ、同じく西加
柴田優さん、優はん、同じく西加
ちょっと太めの方が、
上田寛治さん、寛さ、北裏瀬古代表
背中を向けて横を見ている痩せた方が、
牧田清治朗さん、清さ、東海瀬古代表
清治朗さんと話をしているお二人が、
恩田一郎さん、一郎はん、瀬古は東海
堀田長太郎さん、長は、南興瀬古代表
堀田さんは年齢的にはおじっさと呼ばれても良いご高齢だけど、どうもそう呼ばれていないようである、
割と固まってグループ行動を取っておられる方々が、
森田進さん、進はん、瀬古は南興
高田浩二さん、浩はん、同じく南興
前田豊太郎さん、豊さ、同じく南興
吉田弘さん、弘さ、瀬古は清水
和田辰巳さん、辰さ、瀬古は北裏
石田健一さん、健いっさ、同じく北裏
園田登さん、登はん、同じく北裏
こちらの皆さんに白の裃を着付けておられるのが、
席田和成さん、和は、もしくは和さ、清水屋敷瀬古代表
そして、本来であれば、新田武雄さん、武はんじっさが、清水屋敷の瀬古代表だった、と――
「町内は苗字の下に『田』がつく『○田』姓が殆どである、そしてほぼ全戸が親戚筋であるため、苗字ではなく名前で呼び合う気風のようである、と……」
ビデオを一旦止めながら、地図上に瀬古名を書き込み、続いてメモにも書き留めていく。指を動かすと情報が頭の中に入りやすいのは、高校大学の受験をと塾にも行かずに乗り越えてきたからだろう。
――できれば、どこが誰の家か分かると良いんだけどな。
無料の地図アプリでは、そこまでは分からない。有名な地図は有料であるし、そもそも学校で使用するパソコンには純粋に研究に必要な検索にしか使用してはいけないという閲覧制限がかけられている。
勿論、自身のスマホ等でWi-Fi接続するにしても制限がかけられているし、そもそも通信が遮断されている場合もある。サブスクリプションを利用して音楽を聴いたり動画を視聴したりアプリゲームに耽っていたりネットにスレ立てしてバトルしたり等、バレでもしたらペナルティが科せられ、最悪退学になる、とまことしやかに言い伝えられている。
君子危うきに近寄らずの精神で、棚田は校内のパソコンを利用して検索をかけるのは最低限にしている。
――虱潰しに一軒一軒訪問して、書き込んでくしかなさそうかな。
着替えている場面には、みくとひなも映り込んでいた。
よく見ると、ひなに老人たちの四苦八苦している下着姿が見えないようにと、盾になるようにして、みくは立っている。みくだけでなく、若い男性も一人、さりげなく、衝立になるように立っていた。角度的によく見えないが、すらりとしており、そして僅かに見て取れる身なりから、あの時、目に付いた田舎に似つかわしくない美形の彼のようだった。
みくが名前を呼んでくれかもしれない、と思ってしばらくビデオを注視していたが、そもそも撮影時に彼を気にしていなかったのだから、直ぐに画面が切り替わってしまった。棚田は潔く諦めた。
「あれ?」
瀬古名の横に、それぞれの出席者の名前を照らし合わせながら追加している作業中、清水屋敷瀬古のほぼ中央あたりに鳥居のマークがあるのに気が付いた。小さすぎて、これまで全く気が付かなかった。迂闊さに飛び上がる。
「え? なに神社だろう、これ?」
土井教授の調査記録を探り、社の管理を担って居るであろう家名を見た棚田は、驚いた。
――泉田?
泉田姓は少ないと事前調査には記されている。となると、みくの実家かもしれない。
「また今度、聞いてみれば良いかな」
前傾姿勢ばかりで背筋が硬くなっていたので、棚田は大きく伸びをした。一区切りもつき、湯の音が変わってきたので腰を上げ、浴槽を覗いてみると、すでに半分近く湯が溜まってきていた。
棚田は、かばんの中から百均の袋に小分けてある着替え一式とバスタオルを取り出すと、シャワールームへと向かった。
脱衣所までは流石にないので、棚田は玄関に鍵をかけて廊下で着替えをおこなった。素っ裸でシャワールームに向かう。数歩の間だけだが、このこそばゆい肌寒さには、奇妙な開放感がある。銭湯などで、パンイチ腰グーポーズでコーヒー牛乳をあおり気味に飲み干す気分が、今は理解できそうだった。
「何だか、癖になっちゃいそうだな」
高揚感に後押しされるまま、棚田はシャワールームに飛び込んだ。備え付けのポンプは、CMでよく見かける自然派の全身シャンプーだった。普段使いの銘柄ではないと贅沢など言えないし、何よりも汗を流して湯船につかり温まれるだけでも、気持ちは違ってくる。
頭を濡らそうとした所で、棚田はウェザーニュースが告げていた夜中の寒さを思いだした。
――下手にシャンプーをしたら、風邪をひきそうだな。
臭うではと気になったが、風邪をひいては元も子もない。身体だけを全身シャンプーでしっかりあらい、泡をシャワーで流す。この間に、浴槽には三分の二まで湯がたまっていた。足を折り畳んだ体操座りに近い姿勢でつかると、湯は、棚田の体積のだけ湯面が持ち上がり、肩まですっぽり収まった。
「ああ……」
思わず声が漏れるままにし、ゆっくりと目を閉じる。
温まれる幸福にひたりながら、棚田はふと、駐車場にみえていた水道管の破裂を防ぐ為に、水を出しておかないと、と思い出していた。
※
風呂からあがっても、汗が自然にひくまで棚田は素っ裸のままでいた。どうも、開放感の虜になってしまったようだ。
裸族のまま、キッチンに入る。ポットに水を入れてセットし、冷蔵庫のなかの弁当をとりだして電子レンジに放り込んだ。明日の朝まで取材をつづけることを計算に入れて、夕食はがっつりとっておくべきだろうと計算し、弁当だけでなくカップ麺も食べることにしたのだ。
電子レンジが鳴るまでの間に、着替えに取り掛かる。薄手の綿トレーナーの上にセーターと二枚重ねに着込み、裏起毛のジーンズをはいた。靴下も、五本指の軍足の上にモコモコ靴下を重ねておく。これで、防寒対策は完璧である。
電子レンジがチン! と出来上がりを知らせるのと、ポットの湯が沸くくのは、ほぼ同時だった。一分少々で沸騰させられると聞いていた電気ポットの便利さに、棚田は目を丸くする。
「こりゃ、いいなあ」
超がつく節約生活なので半自炊派の棚田であるが、実家住まいからの相棒であるポットを現役で使っている。
そろそろ、保温も悪くなってきているので買い替え時なのかもしれない、と思っていたところに便利さを見せつけられ、これは帰ったら、いの一番に家電屋に走ろう、と思った。
最も、懐具合と相談しなくてはならないが。
「いただきます」
手を合わせて、割り箸をとる。
レンジで温めた弁当は、唐揚げやフライが水分を含んでおり、ご飯もイマイチだ。しかし、まともな食事にありつけるのは、みくのおかげなのだから、文句をいってはバチが当たるだろう。
弁当をかきこみ、途中で出来上がったカップ麺のフタを開ける。弁当の内容にあわせて、力うどんにした。餅はともかくとして、うどんは紙のような噛み心地で、出汁の味は異様にしょっぱ辛い。
それでも、腹は満ちて身体は芯から温まった。ごちそうさま、と手を合わせた棚田は、カバンから今度は歯ブラシセットをとりだして、シンクで磨き出した。
歯みがきを終えると、カップめんの容器をさっと洗って、棚田は外に出た。駐車場の近辺をうろつくと、直ぐにコミュニティ専用の倉庫が見つかった。
しかし、シャッターには当然鍵がかかっており、中にあるであろう雪かきスコップなどは取り出せなかった。
仕方なく引き返し、勝手に使うのは些か咎めはしたものの、玄関掃除用とおぼしきボロタオルとぞうきんを取り出した。
蛇口をひねって水を出してから、水道管をぞうきんで巻き、蛇口の上にカップめんを逆さまに伏せて保護し、タオルでしばって固定した。チョロチョロと流れる水は、道路の向こうの用水路に投げれ、落ちていく。
と、突然の突風に棚田は思わず知らず両手で身体を抱えて守った。へその奥から、震えが全身に走る。
空を見上げると、それまでとは明らかに違う色をした、分厚く湿った色合いの雲が次から次へと流れてきていた。
――雪雲だ。
山を越えてきた雪雲が、空を我が物顔で仕切りだしているのだ。
「予報通りに降ってくるかな」
寒さ対策をあざ笑うかのような冷気に、棚田は肘を抱えながらコミュニティセンターの中に駆けこんだ。
夜の九時を回った頃から雪がちらつき始め、十一時を過ぎると吹雪に近い状態になっていた。
エアコンの温度設定は二十八度にしてあるのに、どうしようもない冷えを感じる。座布団を三枚重ねて、せめてもの暖を取っても、文字通りの子供だましでしかない。底冷えに震えながら、棚田は机に向かっていた。
机の上で広げているのは、書き込みを入れた、例の河間町の地図である。
輪中は東西に細長い楕円形状をしている、いわゆる、ひょうたん型である。この中が五つに分かたれ、瀬古、つまり班を形成しているのだが、だいたいの境界線を聞いてきておいたので、ビデオを再生させながら赤鉛筆でラインを引っ張ってみたのである。蒔蔵に教えて貰った、堤防外の大軒と下田も書き込んであるので、これでかなり町内の区分けが判別出来るようになった筈である。
家屋密集地を五つに分けて、清水屋敷、東海、西加、南興、北裏、となる。清水屋敷が中央区にあたる。それ以外は、名が示すとおりに大ざっぱに東西南北に区別されている。
ほぼ均等に六十戸ほどの集団だが、清水屋敷は面積が狭いが戸数が多く、逆に東海が最も広いが戸数は少ない。これは、東のほうには田が迫ってきており、その田の中の小石のように家が点在しているからだろう。
――そう言えば、土井教授の事前調査記録によると近年に宮田家が断絶したとあったけど、どこの地区にあったのかな?
地図の上に指を滑らせながら、棚田はぽつりと呟いた。
「家名断絶、か……」
身につまされる話ではあった。
棚田も、一人っ子の跡取り息子だからだ。
院に進学すると心を決めた大学三年のあたりから、帰省のたびに年老いた祖父母から、大学の更に上なんぞに行っては結婚出来なくなってしまう、このさい出来婚でもいい、すぐ離婚になってもいいからとにかく結婚だけはしてくれ、などと涙ながらにせっつかれるようになりだした。
そもそも時代が違う、大学在学中に結婚とかする方が無責任だと言ったって祖父母には通用しない。田舎では、時間の流れも事情も、何もかもが違うのだった。
「大卒で就職した友人だって、まだまだ遊びほうけているのにな」
何回目かのビデオの再生中、耳慣れぬ低いモーター音が聞こえてきた。無遠慮に近づいてくるそれは、軽トラックのエンジン音だった。
携帯電話のボタンを押して時刻を表示させる。機械音とともに携帯に01:24という表示が出た。
「うわっ!?」
とっくに日付が変わっていた。
――集中していて気がつかなかったな。
よくあることではあるが、棚田は自分の迂闊さを少々恥じながら立ち上がった。
どぉん……、どぉん……、どぉん……
低いうなり声のような太鼓の音も遅れて響いてきた。
太鼓の音は一定の間隔で鳴らされており、更に近づいてきている。
それはまるで、年末のスペシャル時代劇の定番である赤穂浪士が討ち入りの際にならしていた陣触れ太鼓のようで、日本人であれば、訳も分からず胸に迫る何かに勝手に感動して無性に心が乱されてしまう、あれである。
――東側から聞こえてくる、ということは、南まわりの道を使っているのかな。
南まわりの道を使ってここまで来るとなると、かなりの大回りになる。しかし、全戸に触れ回るというたてまえである以上は、仕方ない道順なのだろう。
ビデオカメラの中では、竹を組んでいる最中だった。左義長は村全体で執り行うが、その中で更に五つの瀬古それぞれに持ち回りで細かな役目を仕切る決まりがあり、それを毎年ずらしているのだと言っていた。
今年の左義長の大役は東海瀬古の持ち分なので、瀬古代表のお歴々以外の人はその地区の住まい、ということになる。
時折、画面の中を横切っていく、自分より幾つか年長の例の格好が良い若手男性は有志で参加しているのだろうな、と棚田はふんだ。どこでも、やる気のある若手のこうした活動は見られるものだ。
古い因果が今なお色濃く生きており、しがらみが強く若手が育たない土壌らしき河間町ではあるが、こうして図太く生える雑草のように、新しい芽も確実に育とうとしている。
幾多の戦乱や時代を乗り越えた人々が、この土地を愛し生きぬく覚悟を持っていた土地柄だからこそ、途絶えようとしても復活しようとする土壌があるのだろう。
それを思うと、故郷を飛び出したままの自分が、幾分、いやかなり、恥ずかしい存在に思えて棚田はたまらなくなってきた。
無意識のため息をつきながらビデオカメラをとめ、HDDに残された撮影時間のチェックをし、受電をフルに行ったバッテリーと交換し予備もデイパックに入れた。ひなからもらった携帯カイロをもう一度もみほぐしながらコートのポケットにつっこみ、そこで、ようやく気がついた。
「えっ!」
――な、ない!?
ボイスレコーダーが何処にもない。暖まっていた体が、さっと冷たくなっていく。
コートのポケットをもう一度まさぐってみるが、ボイスレコーダーは影も形もない。
「えっ、ど、どこにやっちゃったんだろう?」
床の上をはいずり回り、座布団を振り回し、布団のシーツをはぎ、脱いだ服をひっくり返し、まさにあちらこちらを探ってみたが見当たらない。ついにはカバンを逆さまにして、中身を床にぶちまけた。
それでも、ボイスレコーダーは見つからなかった。
「一体どこに」
考えられるとしたら、夕方の取材の時、境内に落としてしまった。それしか、ないだろう。
――探し出さないと。
手荒く荷物を入れ直した棚田は玄関先に走り、キーボックスから鍵を取り出した。
気が焦っているせいか、指がかじかみ始めているせいか、その両方なのか、上手く鍵がかからない。何度目かのチャレンジでやっと施錠し終えると、みくに教えらた場所に鍵をぶち込んだ。
そして、腕を組んで強風から身体をガードしつつ足踏みして寒さをやり過ごしながら、軽トラックがこちらに近付いてくるのを待つ。
――ああ、どうしよう、しまったなあ。ちょっとでも早く神社に行って、ボイスレコーダーを探して回りたいのに。
境内にあるならまだ良いが、ひなと一緒に河間を見ているときに落として、そのまま『ポチャン』とやらかしてなどしたら、完全にアウトである。その最悪の事態だけは避けてくれているようにと、曇天に祈りながら、棚田は知らぬ間に貧乏ゆすりをし始めていた。
身体をゆすると、デイパックが背中でこすれて少し暖かい。はぁっ、はぁっ、と白い息を吐き出しながら、もやのようになっている雪の奥から、軽トラックの丸い灯りが迫ってくるのを見つけると何故か、ほっ、とした。
動転していても取材開始は、ほぼ本能的に行ってしまうらしく、棚田は、自分でも気がつかぬうちにビデオカメラのスイッチを入れ、丸い灯りに向けていた。
しめやかに降り積もっている雪に太鼓の音は吸収されることなく、周囲の空気を揺らし、響いている。
やがて軽トラックが目視できるまで近づいてきた。
荷台に、棚田と同じ年頃の二人の青年がいる。一人が片膝をついて太鼓を叩いていた。音からの想像どおり、直径は二十センチほどの太鼓だ。
もう一人は自分の体を盾にして、太鼓を叩く青年に雪がかぶらないよう、カッパで覆うようにして立っている。
荷台の二人にカメラを向けて、「ご苦労さまです」と声をかける。太鼓を叩いているのは、あの、独特のお囃子をしながら回っていた青年だった。
「お? 学者先生、もしかして徹夜する気か?」
青年が驚いた声をあげると、太鼓の音までもが裏返ったのには、棚田も苦笑した。しかし、誰から自分の情報を聞いているのか、バレバレである。
「はい、せっかくですので、お粥占いまでしっかり取材させていただこうかと」
「そうか、じゃ、乗っていくか?」
カッパを広げて持っていた青年が、運転席にむかって「おぅい、停まってくれよ、おっちゃん」 と声をかける。
悲鳴を上げるように車体をふるわせて、軽トラックは駐車場の前の水たまりに停車した。
「あ、鍵は?」
「大丈夫です、みくさんに教えて貰いましたから」
「おう、そうか」
手を差しだしてくれたカッパの青年に引きずりあげてもらうと同時に、軽トラックは唸り声を上げて発進、Uターンをした。どうやらもう、村の中に戻るつもりらしい。
「鍵、かけにくかっただろ?」
「はい、みくさんみたいには、なかなか上手くできなかったです」
「あっはは、あれは特別だよ。みくより上手く施錠できる奴はおらんから」
カッパの青年が笑った。裏表がない人好きのする、いわゆる、眩しい笑顔というやつである。
荷台には、休憩用とおぼしき簀の子の椅子が置いてあった。カッパの青年は、薄く積もった雪を手で払うと、棚田に座るようにすすめてくれた。かなりバランス感覚を要求されるが、それでも荷台に直座りするよりは良い。棚田は素直に、好意に従った。
「トラックの運ちゃんをやってくれとるんはな、木田文徳さんや、瀬古は東海。おじっさらには、文は、て呼ばれとるけどな」
棚田の方にちらりと視線を向けて、軽く会釈しつつ笑ってみせた木田は六十歳を幾つか越えた頃だろうか、角刈りにした頭は白髪が多く、まだら髪であるが全く染めずにおり、逆に潔い。
「陣太鼓叩いとるんが、席田直倫、直ちゃんて呼ばれとるよ。今年は年男だもんで、瀬古はちゃうけど、お触れのお太鼓叩く役をして貰っとるんや」
「素直の『直』に、倫理の『倫』って書くんや、ま、よろしくな」
「席田、というと清水屋敷の、席田和成さんの……?」
「おう、そうそう。今年の瀬古代表やらしてもろとるんは、俺の親父や」
「すごいな、学者先生、よう覚えてきたなあ」
目を瞬かせながら、直ちゃん、と呼ばれた青年は吹雪などに負けない白い歯を覗かせて笑った。屈んだ姿勢でもよく分かる、筋肉質で背が高い彼は明るい笑顔が実によく似合う。さぞや女性にモテるだろう、と棚田は勝手に凹んだ。
一方、棚田を荷台にあげてくれた青年は、護田蒼生と名乗った。この時、ひなを庇うように立っていた例の彼は蒼生だったのだと、雪明かりに照られた横顔の頬から顎にかけてのラインを見て、やっと棚田は気が付いた。あんな特徴的な、そのまま芸能界で通用するような美形など忘れられるものではないし直ぐに気が付く、と思っていたのだが、さすがに百均のカッパ姿だと、せっかくのノーブルな雰囲気も半減するようだ。
「くさかんむりの方のあお色の蒼に生きる、で、あおい、って読むんや。俺は東海瀬古や」
本格的に吹雪の形相を見せだした空の下、棚田は雪明かりでまじまじと二人の青年を見比べた。
直倫は歳男ということなら、みくよりも三~四歳年上だろう。そして直倫よりも十ほど若そうな蒼生は、逆算して自分より二~三歳上くらいだろうか。
年齢をたずねてみると、実際、蒼生は棚田よりも三つ年上だった。つまり知り合った若者の年齢を順にあげると、今年三十六歳の直倫、アラサーのみく、二十七歳になる蒼生、そして春に大学院二年生となり二十四歳になる棚田、となるわけである。
――しかし年が近いといっても、僕とは真逆だな。
何がと言うと、何もかもがである。
本当に蒼生には、田舎には似つかわしくない存在感というか、麗しいオーラがあるのだ。
全てにおいて、貴族的な高貴さがある。
直倫も育ちの良さを随所に感じさせるが、蒼生のそれは出会った瞬間に感じ取れる程のもので、一線を画すのである。唯一、彼のかもし出すオーラに当てはまらないといえば、みくのように時折でるものではなく、常に口に出る濃い方言だろうか。
それだって魅力の一部としてうつるのだから、美形は得である。勝敗の問題では無いのに、敗北感に打ちのめされながら棚田はぼんやり思った。
陣太鼓を叩きながら、直倫はデンタルガムかなにかのCMにそのまま使えそうな、白い歯をキラリとさせた笑顔をみせた。
「いやいや、蒼生はたいしたもんなんやで?」
「直ちゃん、何や、こんな時に」
「蒼生は子供の時に親御さんの仕事の都合で一度、むらを出てったんや。けどな、大学卒業してから爺ちゃんの家を継ぐ、って、こっち戻ってきて住んでくれとるんや――なあ?」
どぉん……、
陣太鼓が、鼓膜を揺るがす。
蒼生はこそばゆそうな笑顔になり、「いやあ」と照れると、頬と鼻の頭をいっそう赤くした。
「俺の家というか、生きてく場所は、やっぱり、ここしかない。それだけなんやって」
蒼生は、明るくきっぱりと答えた。
これ以後、すっかり意気投合した荷台の上の三人は、運転手の文徳が、ちらちらと様子をうかがっているのに全く気がついていなかった。
※
町内のうねっている細い道という道をくまなく隅々まで通って、ようやく八幡神社が見えるところにまで軽トラックがやって来られたのは、夜中の三時をとっくに回ったところだった。
体は完全に冷え切っている。頭を洗わないでおいたのは正解だった、と棚田はほっと息をついた。
「学者先生みたいに水を出すなり、雪かきするなりしといてくれると助かるんやがなあ」
文徳ののんびりした声に、さあでは取材を、と気合い充分に飛び出しかけた棚田は、膝裏を小突かれた気分だった。しかし、せっかく話しかけてくれたのに、無視するのは悪い。
「頼みにくいものなのでしょうか?」
「水道代、馬鹿にならんからな」
「あ、確かに。でも、除雪作業するよりは楽ですし、とか掛け合えないものなんですか?」
「言えとったら、こんなぼやきはせんて。ま、文句だけ達者なヤツはどこの世界にもおる、ちゅうこっちゃな」
軽トラックの運転席で、まだら髪をタバコの白い煙まみれにさせながら文徳がぼやいた。
天気予報のとおり、路面の凍結がはげしく、軽トラックは慎重に慎重を重ねて運転せねばならず、精神的な疲労感は半端ないだろうから、多少のぼやきは仕方ないだろう。
夜中では除雪車が入る事もないだろうし、たしかに『おふれさん』がまわるのだと分かっているのだから、各戸で多少の気づかいをしてくれても良さそうなものだが、事はそう簡単にはいかないのだろうな、と棚田もだいたい察しがついた。
それでなくとも、市の中心部から遠く外れている地区だ。
左義長の手伝いに数人、手伝いに出てはいるが若くても還暦前後のようである。瀬古の重鎮たちの年齢層を見、そしてみくの話と照合すると、この河間町はいわゆる『限界集落』に最も近い状態で、老夫婦や独居老人世帯に、あらかじめ雪対策を頼むのは気が引けるのは当然だろう。
運転手を務めている文徳も年金世代くらいである。もしも彼が子供世代と同居なり近所に住まわせているのであれば、こんな天候の日など代替わりしてもおかしくないのに現役で出張ってきているのだから、推して知るべしだ。
だが道程に時間がかかったおかげで、棚田は蒼生と直倫のプロフィールをあらかた知ることができていた。
直倫は、地元の工業高校から推薦で大学にいき、地元の銀行に勤めているらしい。工業系から銀行というのも不思議なかんじがするが、何とかいうプログラミング関係らしい。
直倫は、仔犬のように目をらんらんと輝かせて詳しく説明しようとしたが、棚田は丁重にお断りした。アナログ人間の肌が、話題についていけない、と察知したのである。
棚田のあからさまに嫌そうな態度に、直倫は残念そうにしてみせはしたが、直ぐに「これからよろしくな」と陣太鼓をたたきながら笑顔になった。あまり、こだわらないというか、怒りが持続しない性質なのかもしれない。
――ああ、この笑顔。
惹き込まれてしまう、いわゆる、男ぼれする魅力のある人柄のようだ。
――人好きがする、というか人に憎まれることがないんだろうな。
普通ならここで、わずかなりとも嫉妬に似た思いを抱かずにいられないのだろうが、それが微塵も湧かない。希有な人柄と言うべきだろう。
「直ちゃんはな、古くはこの河間町一、古い血筋なんやで?」
蒼生にこっそり耳打ちされて、棚田は頷いた。実に納得である。人の価値は出生だの血筋だの家柄だので決まるものではない。が、直倫に漂う何かは、有無を言わせず了解させてしまう、そんな不思議な力があるのだ。勝手に嫉妬して勝手に落ち込み勝手に苛ついて勝手に敵視してしまいそうになるが、そんな自分が馬鹿だと、これまた凹ませてしまう、麗しき出自というのは確かに存在するのである。
――取材に専念すべし、ってお告げかもな。
一方の蒼生の一家は、たしかに東海瀬古に地所をもっていたが、父親の満夫が三期十二年の市議から市内外の歴史のある中小企業の後援をうけて県政に打って出るにあたり、会社近くの駅付近のマンションを得て、河間町を出ていったのだという。
県議会に立候補するのであれば、いくら企業の後押しがあるとはいえ地元を大事にした方が良いに決まっているのだが、県議選の直前に妹と母とを続けて亡くしており、満夫としては村に残るのが居たたまれなかったのだろう、と蒼生は語った。
しかし、県議として多忙を極める満夫は帰りも遅く、まだ小学生の蒼生がさびしがらぬよう、結局、実家の両親を時折、呼び寄せて世話をさせた。こうして蒼生少年は中学卒業まで、この河間町の祖父母の手を借りて育った。
父親の満夫は、県議という重圧がかかる仕事を堅実に勤めあげていたのだが、どれほど仕事が忙しくとも祭りのときだけは時間をあけて河間町にもどり、瀬古の役目をになってきた。その満夫の足が遠のきだしたのは、彼が再婚を決心してからだった。
多忙を極める議員生活を続けるには、家の内外を万事そつなくこなす秘書役的な夫人の存在が現代でも必要だったのだ。
しかし再婚時、まだ中学生だった蒼生少年はこの後妻と衝突するようになった。継母は人柄の良い人ではあったが、やはり新婚夫婦の生々しさは、多感な年頃の時期にはきついものがあったのだと白状した。
高校卒業後、地元の国公立大学に在学中は通学の利便性からマンションにいたが、弟の誕生と、市内に就職が決まったのを機会に、遠くなるというのに祖父母宅に住まいをうつし、そこから会社へ通勤するようになった。
そして卒後ものの半年足らずの間に、孫が立派になった姿に安心したのか、まず祖母が、次に祖父が鬼籍にはいった。その際に、遺言でこの河間町の宅地や貯蓄など、祖父母の主だった財産は蒼生に譲られることになったのである。
相続税の手続きなどは父親と継母が率先してこなしてくれ、同時に、親子の間のわだかまりのようなものも氷解し始めた。それと前後して、継母と蒼生の関係も、めきめきと修復されていった。相続というのは、端から見るよりも壮大で過酷な戦場のようなものである。それを共に克服、いや共闘していくうちに、親子でなくとも家族なのだ、という一体感からの情が育まれたのである。
家族関係は良好な流れをなしつつあったのだが、満夫が再び、むらの行事に関与しだした事で状況はまた、一変した。
満夫と継母と夫婦仲に、亀裂が生じてしまったのである。最近は満夫がむらを訪れる度に、夫婦間の空気が冷え、ギスギスしたものになっていっているらしい。継母は蒼生の今の状態に理解してくれてはいるが、生活拠点をこの河間町に起き続けるのだけは難色を示しているのだという。
が、蒼生はきっぱりと言い切った。
「だけど俺は、この河間町にこの先も住むし、むらの何もかもに関わっていくつもりだ」
かと思うと、肩を落として萎れ、残念そうに零した。
「でもどうしても、この河間町が嫌いなんだよ、義母さんは」
――あっ……!
棚田はあやうく、頓狂な声を出すところだったが、既の所で手で口元を覆った。みくが言っていた、コミュニティセンターのリフォーム理由というのを思い出したのだ。
――もしかしなくても、蒼生さんの継母さんの事だったのかもしれない。
しかしそんなプライバシーに、ずけずけ踏み込んで良いとは思えない。どうして垂れてくる冷や汗に難儀しながら、棚田は頷くのがやっとだった。
「親父も昨日から手伝いに来てるよ。もう議員じゃないのに、議員先生ってよばれるのは面映ゆい、とかなんとか、ぼやいてたけどね」
言われて、棚田は反射的にカメラを撮影モードから再生モードに切り替えた。早送りをして、竹を組んでいる場面にすると、蒼生はすぐに小さな画面を指さしてきた。
「これ。これが親父だよ」
蒼生と見比べると、なるほど、親子です、と顔面が名刺代わりになっている。
映し出されている人物は、年を食っているとは言え、さすがに県議を務めたというだけあり、町内の老人たちとはひと味違って、田舎者臭さと老人臭さがなかった。
染めているのだろうが黒髪をバック気味にながして、さりげなくブランド品を身に着けていても厭味がない、ノーブルな落ちついた雰囲気がある。いわゆる、気品というものがある。
こうして比べてみると顔つきだけでなく、蒼生も身につけているものはブランド品であるが、誇示するようないやらしさがないのも似ている。
しかし、蒼生の話しから総合して考えると、満夫はまだ六十代半ば過ぎくらいという年齢の筈である。
そもそも昨今は、八十近い歳でも元気と健康体を持て余して仕事を続けている人も増えている。特に政治家はそれが顕著である。つまり、定年がないも同然の職種、しがみつこうと思えば幾らでもやれるということだ。それからすると早過ぎる、どころか異様さすら感じさせる引き際である。
「蒼生さんのお父さんは、おふれさんに出ておられないんですか?」
「親父は粥占いの方に回るはずやから――」
言いながら、ちらり、と蒼生は腕の時計を見た。
棚田からも、アナログ時計の針は見えた。
三時半近くである。
そして気がついた。吹雪だった雪は少し落ち着きを見せはじめ、ちらちらとした舞いにかわっていた。
「うん、もう家を出てるはずだ」
それからしばらくして、軽トラックは神社に到着したのであった。
※
ゲートボール場に、軽トラックはするすると入っていく。
「お疲れさん」
「いや、今年はえらい《・・・》当たり年やな」
労いの声に出迎えられながら境内の中に乗り入れた軽トラックは、組まれた竹の山のまわりをぐるぐると回しだす。直倫が叩く陣太鼓の音のテンポが変わった。
どどど!
どどど!
どどど!
どどど!
どどど!
太鼓の音はいよいよ激しく、高まりをみせていく。耳に痛いくらいである。
軽トラックが止まるタイミングにピタリとあわせ、直倫は、どおん! とひときわ大きく高く陣太鼓を鳴らした。
同時に各瀬古代表が「そぉ~れぃ!」という掛け声をあげて、手にしていた松明を組まれていた竹に向かって投じる。
降り積もった雪が反響する太鼓の音を掬い取って静けさがくるまで、直倫は叩き終わった時の姿勢を崩さない。
この『おふれさん』は、町内に数個ある神社やお社の中でも、最も東に場所に建てられている小さなお社から出発するのだと、雪が降っているにもかかわらずタバコを手放さない木田が教えてくれた。村の東から西にむかって、おふれさんは登っていくのだという。
「おふれさんだけやのうてな、どんなお祭りのときも『おぐんじさん』から出発する決まりなんや」
「おぐんじさん?」
直倫にビデオカメラを向けていた棚田は、あわててコートのポケットの中にしのばせてあるボイスレコーダーのスイッチを入れようとして、紛失しているのを思い出した。
――全く、なんて事なんだろう、せっかくの取材のチャンスだというのに!
棚田は仕方なく、デジカメの録画機能を使って直倫の声を録音し始めた。
「村のなかで一番、下にある神社を、郡司神社、言うのやけどな、なんでか知らんけど、このお社だけは祀ってある祭神さんがどなたさんか、分からんのやと」
「えっ、そうなんですか?」
「このむらン中で、一番、古いお社や、いうことだけは確かなんやけど。どんなご縁があって来てくたれたんか、誰も知らん――ってのは、まあ何かこう、寂しい話しだよな」
「……そうですね」
「おぐんじさん由来の祭りがあらへんのは、御柱がよう分からんくなってまったからかもなあ、と俺は思っとるんやけどな」
直倫の言葉を聞きながら、根本ギリギリまでタバコを吸っていた文徳は、ポイ、と足元にすて、ぎゅ、と爪先で火を消した。
棚田がビデオカメラを構えている先では、熱せられた竹の節の中の空気が爆ぜる、「ぽーん! ぼぅーん!」という爆音が上がっている。
ふと、蒼生がどことなく落ちつかない様子で、周辺をウロウロしているのに気がついた。
「どうしたんですか?」
声をかけてみると、「あ、いや」と蒼生は頭を掻きつつ言葉を濁した。
「親父が、まだ、来てないみたいなんや」
「あ、そういえば、まだ、お見かけしませんね?」
でも、この雪ですから、と言いかけた棚田に、蒼生はかぶりをふって制した。
「親父はおかげさんで、市議と県議を何期も務めさせてもろた。お陰で、時間や約束を守る事に関しては身に沁みとる、徹底しとる人なんや」
「いや、しかし……」
「その親父が遅れてくるなんて、ありえへん。雪と分かっとるんやったら、尚更、早め早めに行動しとるはずなんや」
瀬古の代表や東海瀬古の面々も、蒼生の父親・満夫氏の不在に気付き、ざわつき始めていた。東海瀬古代表の清治朗老人は、見るも哀れなほどに動揺している。
「俺、親父を探してくるわ」
軽トラックから飛び降りた蒼生は、そのまま、神社から真っ直ぐ伸びている、村の一番北を走る道を東に向かって走りだした。
村の一番西にある神社から、東にむかって伸びている道は都合、三本ある。普段は中央の道、棚田が腰を抜かしそうになったあの道を使う。しかし、蒼生の家に向かうのならば、北側の道を使った方が早いのだ。
トラックの荷台から飛び降りた直倫は、太鼓を清治朗に押し付けると蒼生の後を追って駆けだした。
「俺も蒼生と一緒に行きますわ、あと、頼んます」
「そら、ええけども、おじっさ、どうしゃあすな」
「どうするもこうするも、あらへん。占いの時間をずらすわけにゃ、いかへん。寛はでも和さでも、この際、誰でもええ、占いしてまったれ。時間を過ぎたら、出る卦が悪うなる。最低限のもんだけ置いといて、あとは、満夫はんを探しにいったれの」
「それで、ええんやろか」
「しゃっきりせんかい、ええ年したもんが、がん首揃えて、おたおたするんやあらへん、馬鹿たれが」
苦いが鋭い声で蒔蔵が指示を出すと、太鼓を抱えた清治朗はやっと落ちつきを取りもどし、両手を合わせて拝むような仕草をしてみせた。
「そんなら寛は、頼むでよ」
「仕方あらへんわな」
寛治が、こうなるだろう、と覚悟をして、深々とため息をついた。
「和さ、手伝うてくれんかよ」
何はともあれ、裃に着替えねば始まらない。
軽く肩をすくめて手水舎の軒下へとむかう寛治の後に、和成も神妙な面持ちで続いた。
寛治が裃に着替える間に、東海瀬古の面々は、細長い水筒のような形に節を残して切り出した竹に昨日の雑穀米や小豆ごはんなどを入れて粥占いの用意をしていく。その他の面々は、火打ち石を使って火をおこし、松明の用意をし始めた。そして手の空いた者から、ぱらぱらと蒼生を追うように神社から出て行く。
棚田は、落ち着かない気持ちを抱えつつも、粥占いの様子をビデオカメラにつぶさに納めていると、不意に蒔蔵が隣にやってきた。
態とらしく咳払いなどして、胸を張っている。頼まれてもいないのに、自ら説明を買ってくれるようだ。それにしても、どこがどうしてこうなったのか、相当に気に入られたらしい。
「この粥占いはな、五穀粥で、まあ五穀豊穣を占うもんなんや」
「はい、粥占は左義長では割とポピュラーな行事の一つですよね」
「筒から溢れるくらいにお粥さんがでけたら豊作、少のうでけたら味が極上、ちょうどピッタリやったら……」
「ぴったりだったら?」
「豊作でええ味、ちゅう占い結果やわな」
にや、と蒔蔵は笑う。
「小豆粥のほうはな、疫病退散の占いや。こっちはな、桃の葉と枝もつかわせてもらうんや。ま、厄払いというかな。子供がぎょうさん生まれてくれるか、子どもらが健やかに育ってくれるか、の占いや」
「なるほど、小豆粥が溢れるほど炊けたらベビーラッシュ、少なかったら一年息災、ですね?」
「ぴったりやったら、ぎょうさん生まれてくれて、みな健康、ちゅうわけやな」
説明を受けているうちに、白の裃を着た寛治があらわれた。文徳から松明を手渡されると、例のおはやしを口ずさみながら、音を立てて燃えさかっている炎の山の周辺をゆっくりまわる。
歩みを止めた寛治の前には、粥をつくるための飯盒の枠組みが出来上がっていた。
「いよぉ~!」
寛治は居合いか何かの気合のように叫び、松明を竹の山に向かって無造作に点に向かって突き上げ、そして粥を炊くための桃の葉と枝に火をつけた。
雪の湿り気のせいか間延びした着火だったが、一度火がつくと、ぼぅと炎はまっすぐにあがった。しばらくすると、あぶくが立つ音が静かに聞こえてきた。
――蒼生さん、大丈夫だろうか。
気になるが、取材も続けたい。
しかし、人ひとりが行方不明だというのに、取材を優先させてもよいものなのだろうか? というジレンマも当然ある。
気が急くくせに、悶々としてしまう。
矛盾を抱えながらも、やはり棚田は取材を優先させてしまうのだった。
三十分もして粥が炊き上がろうか、という時分になると、夜明け前の、しかも大雪後で積雪がたっぷりあるにもかかわらず、チラホラ、と人影が境内にむかってくるのが見えた。
雪に影の色をすいとられて靄のように見える人影の中に、みくとひなの姿をみつけた棚田は、「おはようございます」と声をかけながら走りよった。歩いてきた二人の鼻の頭と頬は、熟れた林檎のように真っ赤になっている。
「学者先生、おはよ。早いねえ、もしかして、貫徹?」
「はい、おふれさんのトラックに同伴させて貰って、ずっと」
「そりゃ凄いわ、気合入りまくりねえ」
陽気に笑うみくの横で、「……おはようございます……」とひなが挨拶してきた。手には、学校で書いた書き初めらしき丸めた半紙が握られている。
「ひなちゃん、おはよう。ところで、みなさん、どうしてこんなに早いんですか?」
「ああ、粥占いのお粥さんが欲しい、ってのもあるんだけど、このね、左義長の一番火で鏡餅を焼いて食べると風邪よけになる、って言われてるから、それでお餅焼きにね」
みくは肩がけカバンの中から、百均で購入したとおぼしきモチ焼き網と、個包装タイプの切り餅を幾つか取り出してみせた。
「でもまあ、最近は暖冬続きで、ほら、鏡餅なんかもう、真っ青にかびちゃうじゃない? だから、こういう切り餅で代用してるのよ」
みくは、さらにカバンの中身をみせてきた。中には、小さなポットと、卓上用ペットボトルタイプの醤油、ペットシュガー、きな粉、チューブタイプのあんこ、そして割りばしに使いすての紙皿がはいっていた。
「用意周到ですね」
おもわず吹き出した棚田の袖を、ひなが、つん、とひっぱった。
「……いっしょに、たべよ……?」
――え、良いんですか?
棚田が目でたずねると、みくが笑って頷く。
――そうだ、お餅を頂いてる間に、気になる事を聞いてみるかな。
三人で境内にむかう最中、みくがキョロキョロと周囲を探るように視線を巡らせ、首を傾げた。気になる事でもあるのかと、棚田も若干の不安に駆られた。
「どうかしたんですか?」
「蒼生と直ちゃんが居ないな、って」
「あ、何でも、護田さんがまだ来ていないからと、蒼生さんと直倫さんで探しに行かれたんです」
「ふぅん? でも、おかしいな。おじさん、遅刻とか絶対にしない人なのよね。雪が降っていようが台風が上陸していようが、時間に余裕持って家でるような人なのに、来てないって、なんか、おかしい」
「蒼生さんも、似たような事をおっしゃってました」
「心配ねえ。何もないと良いんだけど」
「……はい」
大人の会話が耳に入っていないらしいひなが、大きな火の塊に向かって握りしめていた半紙を投げ入れた。直ぐに火だるまになった半紙は、焼け焦げながら空目指して駆け上っていく。
そして、雪と混じりあうようにして姿を消した。
束の間の、幻想のような光景だった。
「さて、お粥さんまで、まだちょっとあるし、お餅、焼こっか」
ひなは、にこにこしながら棚田の手を握ると、「……いっしょに、やろ……?」と誘ってくれた。
どうしようかと悩んで、ちらりと見上げて見たみくは、屈託なく笑っている。つまり、保護者の同意を得られたのだと解釈した棚田は、このイベントを楽しもうという申し出に全力で甘える事にした。
座りやすそうな場所をさがして、ひなと手をつないで歩いた。小さな手から、ほんのりと優しい温かさが伝わってくる。
「そろそろ粥が炊きあがるで~!」
寛治が声を張りあげると、そこかしこで期待に満ちた明るい声が飛びかった。
「お餅を焼くよりも先に、お粥さん占いを見に行こっか?」
「良いですね」
三人は焼き網の上に餅を残したまま立ち上がった。そして蒔蔵のもとに行こうとした、その時だった。
高いエンジン音を響かせて、一台の軽トラックが境内よこの駐車場に乗り入れてきた。乱暴な運転に、みなの注目が集まる。
「どこぞの馬鹿たれや、まったく」
蒔蔵が、眉をしかめてぼやくと、運転席から、『樽に手足』という表現がしっくりくる体型の初老の男が、文字どおり転がり出てきた。
「た、大変や!」
泡を食って叫んでいる。
「満夫はんが、満夫はんがっ!」
「陽吾はんやないか。満夫はんがどうしたんや?」
樽に手足の男、陽吾は雪に足を取られて、こけつまろびつしながら、ようよう蒔蔵に取り縋った。
「そ、そこ、そこっ、にっ」
「ええい、落ち着かんかい、満夫はんがそこで、どうしたんや」
「そこに、やない! 側溝や! 側溝に、お、お、落ち、落ちた、落ちとったんや!」
「なんやとぉ!?」
「めちゃくちゃ冷とうなっとる! みんな早よ来てくれ! 満夫はん、助けたってくれ!」
境内いっぱいに広がった陽吾の絶叫が、周辺の空気をこれ以上なく凍りつかせた。
次話:助命壇