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カンダタの藁  作者: KEY
3/12

第二話 泉田みく


みくが出て行くと、棚田は早速、食料の物色を開始した。ダンボールには菓子パンやカップタイプのスープがいくつか入れてあり、冷蔵庫の中にはスーパーなどで手に入る系のお弁当の他にサラダセット、缶ビールの六本パックがひとつに、チーちくやカニかまに焼き鳥のカンヅメまでが冷えていた。

「ありがとうございます、有り難いです」

棚田は、手を合わせ、声に出してお礼を言い、頭を下げながら冷蔵庫の戸を閉めた。せっかく用意してもらったビールであるが、さすがにこんな真っ昼間から呑むわけにはいかない。

 ――さあ、いよいよだ。

左義長は通常、っぴって行われる。

夜中じゅう、起きていられるだけの体力をつけねばならないので、お弁当は夜に食べ、お昼はスープと菓子パンで軽くすませる事にした。

「いただきます」

独り飯であっても『いただきます』と『ごちそうさま』をしないと気持ちが悪いのは、祖父母の教育のたまものである。

かなり遅めの昼食をとりながら、机を前に腰を下ろすと、棚田は愛用のメモ帳をとりだした。本来ならやはり、みっともない、行儀が悪い、と手の甲をピシャリとやられながら叱られる場面である。

――時間短縮の為だから、ごめん、お爺ちゃんお婆ちゃん。

心の中で祖父母に手を合わせて謝りつつ、あらかじめ、研究室でコピーしてきた河間町の地図を拡げる。

バス停の位置と側にあった大きな灯籠と小さな北向きの地蔵像は地図記号にはないので、赤ペンで印を書き込んでいく。

そして、柱にかけてあるカレンダーをめくりあげた。

一月に行われる左義長を始まりとして、以降のお祭りは略名称とともに日時が書き込まれてある。名称といっても、勝手知ったる、であるせいか、殴り書きのようなものが殆どである。

棚田は「メモメモ」と呟きながら、早速シャーペンを握りしめる。

ここまでの間に数度、電車がゴゥゴゥと唸り声をあげ、ガラス戸を叩いて通過していった。サッシが枠ごと激しく揺すられて、ピシピシと家鳴りのような音をたて、やがて静かになると、こんどは突風がふいて、またピシピシと窓枠が鳴く。奇妙に気が急く音である。

そんな喧噪の中でも、棚田は微動だにせず、メモを取り終えた。


一月 第三土日 左義長

三月 第二土日曜 おしらさん 

五月 第二土日曜 おえんさん 

七月 第二土日曜 おあけさん 

八月 お盆 お地蔵さん 

九月 おしめさん 

十月 第一土日 本祭

十一月二十三日 新嘗祭 報恩講


「改めて見ると、こりゃすごいな」

見開きに一年分が記入できる縦型カレンダーにお祭りがある日をまじまじと見詰めながら、棚田はひとりごちた。

土井教授の事前調査によると、三月のおしらさんというのは白鬚神社への奉納祭、五月のおえんさんというのは記念碑への催しであり、七月のおあけさんというのは例の高灯籠に対しての催し、八月のお地蔵さんというのは灯籠の隣にあった地蔵像前でのお盆祭りのことで、九月のおしめさんというのは堤防にある水神への奉納祭、そして十月の本祭は町内で最も立派な八幡神社で行われる豊穣祭のことだ。十一月の新嘗祭と報恩講は厳密に言えば祭りではないが、ついでに書き込んであるのだろう。

しかし、こうしてみると一月から十一月までの間に田植えだの稲刈りだの何だのといった稲作に関わる行事を加えると、常に何かしらの催し物があるわけで、総戸数三百程度の村がこれだけの数の行事を今もってこなし続けているのは驚異的なことだといえる。

――試験とどう折り合いをつけようか。

シャーペンの先で頭を引っ掻きつつ、棚田は唸った。

棚田が籍を置く大学院は、詳しく言うならば前期後期五年生となっている。

前期二年がいわゆる修士課程で、後期三年が博士課程となる。修士課程二年時の夏に博士の入試が行われ、就職組との活動日程のずれは大体二ヶ月程度となっている。大学院への入学は四月と九月があり、受験は七月から九月にかけてと二月から三月にかけてと二回行われる所が多いのは、大学院は社会人の受け入れ制度があるからだ。在校生組は七月試験のみでの対応となっており、これの合格者のみが次のステップに挑む事が許されるのだが、博士への進学を見据えている棚田にとっては、かなり厄介だと言わざるを得ない。

先ず、二年生に進級するための口頭諮問会が二月に行われる。論文テーマの質問から進め方や進捗状況が事細かに正されるのだ。学科単位を修得するよりも、こちらをクリアする事の方がはるかに難しいとされている。

そして、無事に二年に進級できたとしても気を抜く事などできない。

博士課程の募集要項は五月に発表されるのだが、同時に博士課程進学希望者を対象とした口頭諮問会と小論文提出が行われるのである。軍隊の査問委員会のような針の筵状態の諮問と、指先で埃をぬぐい取って粗探しする意地悪姑よりも目を光らせて小論文が読み込まれる。

そうして六月に改めて出願募集が開始されるのだが、在校生分は基本的に五月の諮問会と小論文の出来から既に選抜が行われており、教授たちが合格の判を押した者しか願書は受け付けて貰えないので、皆、目を血走らせ死に物狂いの形相となる。

この、数多の艱難辛苦を乗り越えた強者のみが、本試験に駒を進めるのだ。

博士課程の本試験は口述試験と論文提出も行われるのだが、ここでも論文進行の諮問会が行われる。学業の成果確認の場と認識されているが、ほぼ論文発表といっても過言ではない。しかもそれは、卒論とは別のものでなくてはならないのだ。試験勉強の片手間に仕上げたような内容で可が出る筈もなく、相当にハードである。

 加えて、授業単位数の必須条件が格段に厳しくなる。遊ぶ間もなく朝から晩まで授業漬けの毎日となり、学校と家との往復で終わる一日に耐えられる精神があるかどうかも問われる事になる。

つまり試験に挑む者には、卒論と同時に二つの論文を書き上げる筆の速力、授業と同時進行しても文章が迷走しない胆力、絶対に単位を落とさないぞという気力、それを年間通して維持していけるだけの心身共にの健康力が求められるのである。

 最終的にこれらを維持するには、金の力が物を言ってくる。

授業の拘束時間も長いし論文に追われるので、バイトするなど物理的に無理なのだ。

とにかく博士受験は、知力体力を保持できる財力を備えた者のみが突破できる狭き門なのである。

棚田の在籍する大学では毎年七月の海の日に本試験が行われ、八月の山の日に合否が発表される。これはぞくに第一次試験とも言われる。合格者のうち九月入学組が多い海外組と社会人組には小論文提出という第二次試験が待ち構えており、棚田のような来年度四月入学予定組は修士課程の卒論がそれに代わるのだ。

「五月は何とかできても、七月のおあけさんは本試験一週間前なんだよな」

取材に来るほどの度胸は、流石にない。

――本試験が終われば八月のお地蔵さんと九月のおしめさんは取材できるから、それまでの辛抱だと思うしかない。

 心配するのは取材回数が減る事ばかりである。その頃には土井教授の腰の容態も良くなっているであろうし、そうなれば、かり出されるとは限らないのだが、棚田はもう、自分が最後までこの取材を行うものだと思い込んでいた。

気が弱く、要領が悪く、運も良い方でないくせに、受験資格を得られないとか受験に落ちるとか単位数が足らなくなるとか、取材に来られなくなってしまうかもなどとか、夢中になると、そういった懸念材料が、まるで念頭に置かなくなってしまう図太さが棚田にはあった。

メモ帳をかかえて戻ると、棚田はテレビをつけた。

BSが視聴できる状態なら、ウェザーニュースが常にどこかのチャンネルで流れているんじゃないか、と期待したのだ。新聞はさすがにおいていなかったので、テレビ内の番組表を表示させてみる。するとやはり読み通りにとあるチャンネルでウェザーニュースが視聴可能だった。

早速、そこに番号をあわせる。


今日の午後から県内は、急速に発達する低気圧の影響を受けやすくなるでしょう

日本海側からの湿った空気が流れ込み、西高東低の冬型の気圧配置となります

北風が強まり、夜半ごろから一気に気温が下がりはじめるでしょう

県内は早ければ日付がかわるころ、遅くとも明日未明ごろには雪が降り始めます

山間部では大雪になる可能性もあり、平野部でも一日を通して断続的にふり続けるでしょう

最低気温は0度、最高気温は4度

強風のため、体感温度はマイナス3度まで下がります

明日のお出かけのさいには、防寒対策をしっかりとなさって下さい

積雪、および強風による着雪、路面凍結によるスリップや転倒、屋外にある水道管の管理など、備えを今からじゅうぶんになさって下さい……


一時間毎の天気予報と気圧配置図と雲の流れを順番にデータ放送で調べ終えると、棚田はテレビのチャンネルをオフにした。コミュニティーセンターの駐車スペースに軽めのエンジン音が飛びこんできて、パパッ! パッパァッ! と軽妙なクラクションの音がしたからだ。

窓からぎりぎり見える駐車スペースに、みくが「学者せんせーい!」と手をふりながら車から降りて来るところだった。

「みくさん? 早いですね? 準備って、五時からでしたよね?」

今時、二つ折りの携帯電話ガラケーをズボンのポケットから取り出して、ボタンを押す。ヴィッ、という機械音がして、携帯電話の上部に、15時30分と現在時刻が表示された。

「うん、五時からなんだけどさ、その前に、ご祈祷とかもあるから、それも見たら良いんじゃないかなって思って」

「ご祈祷を見せていただけるんですか?」

地域によっては、午前中に神主とともに祈祷を済ませたりするので、念頭になかった棚田は色めき立った。

「そ、来てみない? 村のお年寄り代表、みたいな人達も結構来るしさ、いろんな事、聞けると思うよ?」

「ありがとうございます! ぜひ!」

棚田は急いで放り投げていたコートをはおった。そして取材用の道具を使いこんで端がぼろくなったデイパックにつめこみ、ボイスレコーダーをポケットに突っ込むと、玄関にむかって飛び出し鍵を引っつかむ。

慣れない鍵はかけ難いものだが、なかなか施錠できない。まだ新しいくせに、古めかしい玄関の鍵が、棚田には殊更もどかしく苦々しく思えた。

「学者先生、ちょっと、慌てないの」

見かねたみくが、新しいタバコを口にくわえながら棚田の背中をぽんぽん叩く。

「貸してみ?」

「すいません、お願いします」

鍵を渡すと、みくは慣れた手付きで鍵をまわした。コミュニティセンターの扉は、音もたてずに、一発で施錠された。みくはその鍵を、玄関横のポスト下にあるボックスにかけた。

「外出るときは、ここに引っかけておけば良いよ。学者先生が帰る時もね。私が回収しておくから」

「はい、分かりました」

――こんな分かりやすい、いかにもな所にかけて、防犯とかの面は大丈夫なんだろうか?

施錠について結構うるさく言っていたわりに、変な所で、田舎の鍵開けっ放しでも平気な気風が残っているな、と棚田はおかしくなった。

「さ、行こうか」

「はい」

棚田が助手席側のドアをあけて、意気揚々と乗りこむと、後部座席から「ガクシャセンセー……?」と震える声に出迎えられた。

「えっ!?」

ミラーを使って後部座席をのぞいてみる。

女の子が座っていた。

小学校の一~二年くらいだろうか、学校指定らしき臙脂色のジャージを着ている。色が白くて黒目がちで、髪をあみこみにしいる。そんな女の子が、座席の上でひざを抱えて緊張した面持ちで座っているではないか。

自己紹介されなくても誰の子であるか、一目瞭然、ばっちり分かるくらい、可愛い子だった。

「あ、ええと、みくさん、の?」

「そ、娘。ほら、ひな。ちゃんと、ご挨拶して。お母さんが恥ずかしいよ」

「……こんにちは……」

おどおどしながら、ひな、と呼ばれた女の子が頭を下げると、セミロングの髪がさらりと肩の上で踊った。

「ひなちゃん、っていうの? 初めまして、こんにちは」

棚田は後部座席にむけて首をひねり、笑顔を向ける。童顔で親しみやすさがあるためか、少しは警戒心がうすれたらしい。みくの娘だというひなは、まだ幾分、固めの面持ちながらも、おずおずとではあるが手を伸ばしてきた。

「ん? なにかな?」

棚田からも手を伸ばすと、ひなの手から、ぽと、と何かがおちる。ほんのりと温かいそれは、携帯用のカイロだった。

「……さむいから……」

少女がきょろきょろと視線を左右にふっているのは、目を合わせないようにしたいからなんだな、と棚田は理解した。自分も幼少期、見知らぬ大人に出会ったときはこうだったな、と親近感を抱く前に、みくが頭からどやしつけた。娘の態度が気に入らないらしい。

「こら! ひな! いつも言ってるでしょ!」

「いいですよ、みくさん。知らない変なおっさんが、突然、お母さんの大事な車に乗り込んできたら、そりゃ、固まっちゃいますよ」

「人の目を見て話ししない子に、したくないのよ」

まあまあ、と棚田は手をふって、みくを諫めたが、彼女は目をつり上げたままだ。みくは、みるみる顔をしかめさせていく。反対に、ひなの表情はどんどん強ばっていく。これはまずい、と棚田は反射的にコートのポケットをまさぐっていた。

「ありがとうね、ひなちゃん。ちょっと前の天気予報で、今夜は寒くなるって言ってたから、助かるよ」

今度は、棚田がひなに手を差し出した。

おっかなびっくり、といった様子でひなが両手をお皿のようにして差し出してきた。その小さな手の平の上に、いちごミルク味の三角形のキャンディを数個、棚田はぽとぽとと落とした。

とたん、ひなは頬を赤くして、やっと少女らしく、かわいらしい笑顔をしてみせた。くわえタバコのまま、棚田と娘のひなが一緒にいちご柄のピンク色のつつみを解いてキャンディを口にふくむのを横目使いで見ていたみくが、もう我慢できないと言いたげに吹き出した。

「やだ、学者先生、いちごミルクなんか好きなの?」

「えっ、みくさん、これ、苦手ですか? 確かになめ続けると、ほっぺたの内側をなめすぎて尖った所で切っちゃったりしますけど、美味しいですよ?」

「うん、あれは痛いよねーーって、違うんやってば」

「えっ?」

「そうじゃなくって、なんか、かわいいな、って言いたかったんよ」

みくは声をたてて笑い、ひなも俯きながら体をゆらしている。きっと笑っているのだろう。

その気配が、なんだか棚田にはこそばゆく、しかし心地よく感じたのだった。



お宮さん、とひなが言っていたのは八幡神社のことで、河間町を護る輪中堤の一番西の端にある。

河間町の海抜は、西に行くほど高く東にゆくほど低い。社というのは本来、災害時の避難所であるとも言われているので、これは理にかなっていると言えるだろう。

神社には、堤防の坂にそって数台分の駐車場がある。みくはそこに軽自動車を停めた。

「ははあ、ここが」

車から降りた棚田は、八幡神社の鳥居の前ある、お社に目をむけた。小さな鳥居とお社のみであるが、風格がある。

「みくさん、こちらのお社は?」

「……おしらさん……」

「おしらさん」

 みくに代わり、ひなが教えてくれた。棚田は知らず、微笑を浮かべていた。

「と、言うことは、コミュニティーセンターのカレンダーに書かれていた、おしらさん、というはこちらの神社で間違いないですか?」

「うん。字はね、漢字の白。で、おしらさん」

今度は、境内に入る前にタバコを吸い終えようとしていたみくが教えてくれた。

「本当はちゃんとね、白髭神社、って言わなあかんのやろうだけど。ウチらはおしらさん、って呼ばせてもらってるの」

「白髭神社というと、隣県と関係ありだとしたら、祭神さまは猿田彦大神ですか?」

「ご名答! やっぱ、さすが大学の学者先生はひと味違うねえ」

携帯灰皿にタバコを捻り込んだみくは、ひなと手をつないだ。

「ほら、学者先生、こっち来てみて」

ひなが、おいでおいで、の形に手をひらひらさせる。

「ちょい、ここ、ほら、ここん所、見てみ?」

「はい」

素直に答え、棚田は、みくが指さし、ひながトトロにでてくる『メイちゃんすわり』をしながら見ている先をなんの疑念も持たずにのぞき見た。

白髭神社のお社の南側は、小さいながらも立派な囲いがしてあり、そこには自噴水があった。

澄んだ水をただ一心に煌めかせているその姿は、小さくとも、なにか、何というというべきだろうか――そう、まさしく信仰の対象となるべきものとしての威厳と風格をたたえている。

「これは?」

「これがね、『河間がま』なんよ」

「えっ、これが?」

棚田は息を呑む。言葉がつげなかった。

「この辺はねえ、こういう自噴水があっちこっちにあるの。それこそ、小さいのから大きいのまで、数知れずね」

「ぼくはてっきり、河と河にはさまれてる土地だから、『河間』なのかと」

「堤防もあるし、そう思われるのが普通かもね」

「これって、飲料用水になるんですか?」

 あまりの透明度に、吸い込まれていきそうだった。うっとりと、問いかけている自覚もなしに聞いた棚田に、ううん、とみくは首を振った。

「綺麗に見えるけど、お腹壊すよ。何とか言う、ダメな成分が含まれてるんだってさ」

「へえっ? こんなに綺麗なのにですか?」

「うん、今は調べるの簡単だからあれだけど、昔から、河間は農作業にしか使われてないんよ。井戸とは、別物」

「そう……なんですか」

「経験則で、飲んだらダメだって分かってるんだろうね、湧き水扱いできないって」

みくは、ひなの手を握りなおすと立ち上がった。

「ぼちぼち始まるみたい。行こ、学者先生」

カイロをもみほぐしている棚田にひなは、また、おいでおいでをする。

「……」

 無言のまま差し出されたもう片方のひなの手を、大いに照れながら棚田はとり、三人で歩きだす。

 ふと、小さなハミングが聞こえてきた。ひなが歌っているのである。ハミングなので歌詞は分からないが、音程からして民謡のような節回しである。

 ――奉納される神楽か何かの曲かな?

 こんな小さな子にまで、祭りが身に染み付いている。

それだけでもう、感動ものではないか。

 改めて、棚田はこの取材にやり甲斐と意義を感じていた。



八幡神社は河間町で一番大きな神社である。

と、いう話だったが、見た目は日本全国どこにでもある素朴な神社で、特徴的には室町時代中期のつくりのようである。ただし、県下の一ノ宮である神社の影響下にあるのだけは、屋根の形や社の配置などからうかがえた。

また、棚田たちが幼少期くらいまでは神社と公園が一体化していたものであるが、ひな達世代ともなると、ブランコや肋木、鉄棒や滑り台やシーソーといったいわゆる遊具というものは撤去されており、代わりに地面にはラインが引かれてゲートボール場に様変わりしているのも、全国共通のようである。

こういう所にも、少子高齢化の波が押し寄せて来ているのが見て取れる。子供の場所はどんどん隅に追いやられ、大人の、それも老人の都合に合わせたものばかり幅を利かせておきながら、子供がいない、と嘆いても、そんなものは後の祭りというものだろう。

「みくさん、八幡神社、ということは、こちらの祭神さまは天照大神になるのですよね?」

「ほうや」

てっきり、みくが答えてくれると思って気楽に疑問を口にした棚田の背後から、野太くしわがれた声がした。

飛び上がり、悲鳴をあげそうになるのを必死で堪えて振り返ると、そこには、九十歳は楽に超えていそうな、皺深い老人の姿があった。背は低く、痩せだちで杖を手にしているが、しかし背筋はピンと伸びていて、眼光もしっかりしている。

――昔ばなしとかに出てきそうだ。

そして、なるほど、長老とか古参、という表現がしっくりとくるご老人だ、と棚田は自問自答で納得した。

「おはんは何処の誰やな。呼ばれもしとらんのに出くさりよって」

「学者先生を連れてきてあげたのよ」

みくは、老人に駆け寄った。常時、フレンドリーな態度であるみくが、それなりに背筋を正して話しかけているから、この老人はやっぱり長老格なのだろう、と棚田は納得した。

「おじっさだって、瀬古代表でもないのに、出てきてるやないの」

「当たり前や、西加にしかみ瀬古がどうとかの次元やない、わしが居らんかったら村の祭りが始まらんわい」

「でも、もうさすがに左義長やるのは、寒い、キツい、って文句言うとったって、お父さんから聞いとったから、来とらへんと思っとったの」

「けっ、としはの奴は、ええ年して、しょうもないこと娘に吹き込んどるんやな」

ほぼ聞き取れないような早口の方言で、みくと話し、いや捲し立てあいながら、老人はあからさまに値踏みする目を棚田に向けてくる。

さすがに居心地が悪くなる。

辟易して、なんとかこの場を離れたいと思っていると、ひなが袖を引いてきた。

「ひなちゃん? どうしたの?」

「……はじまるよ……」

棚田は、あわててデイパックの中をさぐった。

デジカメを右手に、ビデオカメラを左手に構えてスイッチを入れた途端、集まっていた多くの人の間から、「そ~れい!」と、景気のよい掛け声があがった。人員は、ほぼ六十代以上のようであるが、棚田より十歳ほど年上とおぼしき若者も見受けられた。邪魔にならないよう、遠巻きにしつつ、慎重にカメラを向ける。

「よ~いさ! よ~いさ!」

「よっせい、よっせい」

「よっせいさ~!」

「ほ~れ、よ~いやさぁ!」

それぞれに声を掛け合いつつ、太く立派な竹を担ぎながら、ゆっくりと弧を描きはじめる。

足は摺り足で、どこか踊るような進めかたである。時折、一斉に持ち上げては先端を合わせる。バサッ、バサッ、と葉が当たって、鈴のような音が境内に鳴り響いた。

「よーいや、さぁっ!」

一際大きく打ち鳴らし合ったあと、ぐるり、とその場で回ったかと思うや、境内の真ん中に、みるみるうちに円錐形状のやぐらに竹が組み上げられていった。

「……すごい……」

感動にため息をつきながらビデオをまわしていると、棚田は背後から声をかけられた。振り返ると、おじっさ、と呼ばれていた、あの老人があからさまに値踏みする視線をぶつけてきている。

「おい」

「は、はい?」

「お前はん、名前なめえはなんちゅうのや?」

「あ、ああ――」

声音まで不躾に名前を尋ねられた棚田は、慌ててコートのポケットをまさぐった。

「申し遅れました。ええとあの、僕は土井教授の代わりにこちらの取材に来させていただくことになりました、棚田と申しまして……」

棚田が名刺入れを出そうとあたふたしていると、老人は「そんなもん要らへんわ」とじろりと目を光らせて睨み据え、鋭く言い放った。

「えか、お坊主ぼず、よう聞いとけ。名乗りちゅうもんはなぁ、人と人が顔突きあわして目ぇみてするもんや。紙切れ交換なんぞやあらへんわい」

「申し訳ありません、大変失礼しました」

棚田は素直に頭を下げた。土地の長老の言い分には素直に耳を貸すべきだ、というのは、これまでの経験から学んでいたことだった。

「僕は土井教授の研究室に所属しておりまして、教授の専門である民俗学を調べるお手伝いをさせていただいております、棚田弘明と申します。この度、土井教授が腰を悪くされて入院治療と安静が必要となりましたので、教授が現場に復帰されるまでのあいだ、代わりにこちらの取材に寄らせていただくことになりました。以後、よろしくお願いします」

「ふん。やろ、思うたら、やれるんやないかい」

老人は口の端を持ち上げながら、棚田に手を差し出した。

みくが「おじっさ」と呼んだ老人は、郷田蒔蔵まきぞうと名乗った。頭の先からつま先まで、じっくり嘗めるように睨め付けられた棚田は、何も悪い事などしていないのに、悪童の悪戯の濡れ衣を着せられて叱られる直前の子供のような心持ちになり、落ち着かなくなる。

鼻を鳴らして蒔蔵が立ち去ると、棚田は心底ほっとした。同時に、みくに寄り、こっそり耳打ちする。

「みくさん、『おじっさ』というのはどういう意味なんですか?」

「う~ん、お爺さん、って意味かな?」

――おお、そのものズバリ。

仰け反っていると、含み笑いをしつつ、みくは続けた。

「ただね、村の中で『おじっさ』とか『じっさ』って呼ばれる人は、ごく限られてるの」

「それは、どうしてですか?」

「おじっさやじっさ、って呼ばれる人はね、村の生き字引、みたいな感じの人っていうか? 昔ながらの知恵を継承してってる、お偉~い人しか呼ばれないの」

「ということは、こちらの郷田さんにかかれば何でも全部、分かってしまう、という事なんですね? すごい!」

「そう、ご立派なもんやあらへんが、ま、そういうことになるわな」

「わっ!?」

 ふうっ、と耳元に呼吸音を感じて、またもや棚田は仰け反った。いつの間にか戻ってきていた蒔蔵は、内緒話しにしれっと参加して、しかも素知らぬ顔である。

――どうやら、蒔蔵さんは地獄耳らしい。

しかし、否定しつつも持ち上げられていい気分になったのを隠そうとしていない。こういう、年寄りの素直な自慢げな素振りは空気を和ませる。

こんな時には、思わぬ話を聞けたりするものだ、と棚田はポケットに忍ばせているボイスレコーダーのスイッチが入っているかどうかを確かめようとしたとき、竹を組んでいた人垣のなかから、少しハゲ上がった頭で小太りの六十代くらいの男性が、こちらに小走りにやってきた。

「蒔蔵さおじっさ。たけはんじっさな、足が悪うて来られへんとよ」

「ほうか、ま、仕方あらへんな」

これまで機嫌良く笑っていたのに、武はんじっさが来ない、と告げられただけで、蒔蔵は、たちまちのうちに不機嫌の塊となってしまった。岩石のようにムッツリしてしまった蒔蔵に代わり、竹を組み終えた村人たちがわらわらと棚田のもとに集まりだした。

「すまんへんな、学者先生さんよ、蒔蔵さおじっさは気ぃ短うてかなわんでな」

「蒔蔵さおじっさの他にゃ、ほれあそこにおる、辰さおじっさと、まぁ一人ばか、おじっさがおってやな」

「紹介したろ思うとったんやが、あかへんみたいなんや」

「武はんじっさな、秋口に骨折してもてから、外に出てこんくなってまってなぁ」

すんまへんな、すんまへんな、と寄ってたかってペコペコされる。いいえそんな、と棚田の方が恐縮していると、ひょこ、とみくが首を伸ばしてきた。

寛治かんじおじさん、そんなら清水屋敷の瀬古代表、誰かと交代したの?」

かずさと交代しよったんやと。まあ、清水屋敷はどうせ来年、和さが瀬古代表やしな」

「そう、和成かずなりおじさんと」

「和さ、ほなら、しょんないで、二年続きでやったるわ、言うてなあ、どーんと引き受けてくれたんや」

「ほんまやで、和さ様々やで」

「えれぇ助かったわ」

「さすが、席田様やなあ」

村人たちは、口々に、助かった、さすがだ、と褒め称えている。みくも、ほっとした様子を見せていた。

なのに蒔蔵だけは、腹に据えかえているように、むっつりとした態度になっていく。いや、と言うよりは、むしろはっきりと不快感と嫌悪感、そして忌ま忌ましさと苛立ちを表に出している。

 ――何故?

訳が判らない棚田がおどおどしていると、みくに寛治おじさん、と呼ばれた男が「お? こちらのお人が、例の、学者先生なんかな?」と顔を突き出してきた。

「そうよ、ほら学者先生、こっち来て。こちらね、上田寛治おじさん。北裏瀬古の代表なの」

あっちこっちで頭を下げ、「よろしくお願いいたします」と言いまくっていた棚田の前に立った上田は、「ふ~ん」と唸ると、不躾な視線を投げつけてきた。どうも、このむらの住人は感情の赴くままに表情を出すきらいがあるようだった。上田はこの年代の人にしては背が高い方で、肥満体と言うよりは恰幅が良いという表現が似合う。

「賢そうな顔しとりよるな」

「そりゃそうよ。おじさんなんかが普段、拝めへんような頭良い大学から、こんな辺鄙な所に態々やって来てるんだもん。偉いお人に決まってるやん?」

みくの煽るような口調に、棚田は大いに慌てた。

「確かに僕は、教授の代打としてこちらに伺っておりますが、まだ、大学院生の身分ですから。先生とか、そんな、立派なものではないんですよ」

「え~、そんなこと、あらへんよ」

 みくが大仰に身振りを交えて叫ぶようにすると、上田寛治はやっと頬の肉を緩めた。

「手伝いやろうとなんやろうと、大学の教授さん直々に頼まれて出張って来とるんやったら、立派なもんや。謙遜なんぞせんでええ」

「ほやほや、だいたい、大学のその上の学校行ってまで勉強しとるたぁ、そら、たいしたもんや」

「けけっ、わしらなんぞ、高校も行っとらへんしな」

しかし村の老人たちは、やたらと持ち上げてくれる。普段なら悪い気はしないだろが、ここまで態度が冷ややかな人に睨まれていると、嫌な汗が背筋を流れて仕方ない。何とか話題をかえようとした棚田は、「そうだ」と手を叩いた。

「先ほどから、瀬古、と仰られてますが、どういう意味なのですか?」

「ああ、それはやな」

突然、寛治はハッとした表情になり、むっつりと黙りこくりだした蒔蔵にさり気なく近寄ると、「おい、おじっさ」と肘で突いた。

「おじっさ、無視こいとらんと教えたれな」

「……おまはんが教えたったらええがな」

「何言うんや、わしではあかん。おじっさしか教えたれんがな」

寛治に持ち上げられた蒔蔵は途端に相好を崩した。そして態とらしい咳払いをすると、「ほうまで言うなら、仕方あらへんわな」と話しはじめた。

「瀬古、言うんはなあ、今でいうと『班』みたいな意味あいやろかな」

「自治体の地区分けみたいなものと捉えてよろしいでしょうか?」

「ま、そんなところやな。昔、この辺はな、お殿様の狩猟場やったんやな」

言いながら、寛治は神社のあたりに広がっている田んぼを眺めるように、手をかざしてみせた。

「神社の側なのに、ですか?」

「そんなわけあるかい。もっと、堤防超えた南側の辺りやわい」

「えっ? 堤防の向こうも河間町なんですか?」

「入り組んどるがなあ、幾らかの田んぼは河間町のもんやな」

「なるほど――で、お殿様たちが来られた、ということは、それは、検地を口実に狩りにきた、ということでしょうか?」

「そういうこっちゃろな。お侍さんらにな、獲物の追いこみの手伝いしとった者同士らしいんや」

「なるほど、確かに狩りのときの追いこみ手を、瀬古、と言いますよね」

由来が、掴めてきた。

「河間町なんは大軒だけやのうて、下田もあるわな」

「大軒? 下田?」

 棚田がきょとんとしていると、「飲み込みの悪いやっちゃな」と説明もしていないのに蒔蔵は小馬鹿にした。

「大軒ゆうのが南側の田んぼの事やがな。ほれ、軒下言うやろが。河間町の範囲内、ちゅう意味合いなんやろな。東の堤防から向こうに流れとる川までの間を下田、言うのや。まあ、神様のおらっしゃるこの神社を上とするんやったら、東は下にあたるわな」

「なるほど、素晴らしいです」

 興奮しきりに頷く棚田に、蒔蔵は良い気分なっていくようである。ふふん、と鼻を鳴らして得意満面になっている。

組み上がっていく竹の様子にもう一度、棚田が注意を向ける。すると、会話が途切れるのを待っていたかのように別の男性が寄って来た。

「蒔蔵さおじっさよ。そろそろ、やってまいてえんやが、こっちゃ来てもろて、ええやろか?」

「そやな、ほな、清さ、行こか」

寛治とは対照的に、この男は、ぎすぎすとした痩せがちの印象をまずうける。

「あの人が東海とうかい瀬古の牧田清治朗せいじろうさん、せいさ、って呼ばれてるよ」

と、みくが教えてくれた。

――ボイスレコーダー持ってきておいて良かった。

ボイスレコーダーがなければ、メモをとる暇もない今、方言が強い発音ばかりで、とても名前を覚えられない。

「学者先生さんよ、良かったら、ついてこいや」

声をかけてくれた蒔蔵のすぐ後ろに、棚田は遠慮なくついていったのだった。


次話:おりゃせ、よりゃせ

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