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カンダタの藁  作者: KEY
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第一話 河間町

 

 駅からバスに乗っての終点までの道中、何もする事がなかった棚田は、ずっと窓側の席で風景を眺めて過ごしていた。

 ひとつには、バスの中は今時めずらしい地方局のラジオがかかっていたのが、棚田には不快極まりなかったからだ。少しでも気を紛らわせるには、窓の外に注目するくらいしか方法はなかったのである。

 国道を走っている間は、それでもまだそれなりの街並みが見受けられた。

 広がっている田畑の中に、それなりに大きな川が流れ、乱雑に緑が生い茂る堤防の側には公園、小学校や中学校とおぼしき、いかにもなコンクリート製の建物が見える。その建物の周辺には、新築のマンションや建売らしき目新しい住宅が建ち並んでいた。コンビニとフランチャイズ系の飲食店が住宅地を等間隔で挟むように建ち、合間には全国展開している大型スーパーやドラッグストアなどが点在し、取りあえずの暮らしに困ることはなさそうだと思わせる建造群がある。

 つまり、水の中に石を投げ込んだら波紋が広がるように、学校を中心にして街並みが形成されていた。

 車窓を流れていくそれらを見ながら、都会の人間が白昼夢のように時折胸に抱く、「何もかも捨てて田舎に移住したい、ただし不便、お前はダメだ」というわがままな希望を叶えてくれるのは、多分、こういう所なのだろうな、と棚田はぼんやり思った。

 だが国道から県道に入った途端に、風景は一変した。

 周辺から、大型の箱型建築物が一気に消失したのである。

 一応、田園風景の中に、ぽつぽつと新興住宅が密集しているカ所が見うけられはした。

 だが、それにしても戸数は数えるほどだった。申しわけ程度と言おうか、ちょうど見た目というか雰囲気は、理科の実験でシャーレにコロニーを作ろうとして失敗した時に酷似していた。

 唯一、高い建物といえそうなものがチラリとみえたが、それは築何十年も経っていそうな古ぼけた四階建ての団地くらいである。棟番号を明記しているペンキは薄れており、さびれ具合に拍車をかけていた。

 田園のあいだにぽつぽつと点在する住宅地は、季節風をさえぎる要素にはなってくれない。

 しかし、バスが走っているこの田んぼ道は、これでも県道なのだ。

 しかも県道とは思えないほど、車道を固めているアスファルトはお粗末だった。冬の季節風をモロにうけて、乗っていたバスは道路事情で上下に、横からの容赦ない風で左右にガタガタと激しく揺れ続けた。

 棚田と同じバスに乗車したのは数人ほどで、それもほとんどが制服を着た学生らしき少年少女たちのみである。しかも彼らは団地前と新興住宅地前で全員降りてしまい、終点までの数分間は棚田一人きりとなっていた。

「おっ?」

 棚田は無意識のうちに声を上げていた。

 町の象徴とも言うべき、そして今回の取材対象である堤防が見えてきたのである。期待に波打つ鼓動とともに、サーフィンボードが波を乗り越えるようにして、バスは町内に入った。

 乗り越える、と言ったが、堤防は道路の幅に一部切り取られており、有事の際には鉄の扉を閉めることによって堤防が完成する形となっていた。

 これをバスの中から見た棚田は、更なる興奮を覚えた。

 ――陸閘りくこうをこの目で見られるなんて。

 実のところ自覚はなかったが、知らぬ間に窓を開けて身を乗り出していた。普段の彼からは考えられない、はしゃぎっぷりだった。

 堤防で区切られていたが、周辺は内も外も田と畑一色となっている。打ち捨てられた耕作放棄地というものは、この町内にはなさそうだった。その証拠に、立ち枯れたセイタカアワダチソウの姿がない。セイタカアワダチソウは農地を放棄するやいなや凄まじい勢いで土地内に浸食を開始し、またたく間に版図を広げていく。

「あれ?」

 棚田は目を見張った。

 農作業着に身を包んだ数人の人が、堤防伝いになる道路を東に向かって歩いている。どうやら、町の東の先に広がっている田を目指しているようだ。

 先頭を歩く男は初老のようで、かなり恰幅が良い。樽のような腹を抱えて歩く男のあとに、続く数人の壮年の男たちは、手に、タブレット端末のような機器とビデオカメラのようなものを抱えているように見えた。

 ――農協の人かな?

 昨今、国が後押ししている大規模共同作業が増えてきているため、今年度の作付の為の下見などが行われていてもおかしくはない。

 棚田の実家というか祖父母の家も農家なので、時期的にそういう人たちなのではと、思った次第なのだが、農作業従事者という人種が、まずもって肌感覚で分かるのだ。

 彼らには独特の雰囲気がある。

 と、偶然だろうか、先頭の男が棚田の視線に気が付いたらしく、会釈してきた。

 帽子を目深にかぶっているし、何より距離があるので顔は良く見えない。知らない人であろうと、頭を下げられると人は反射的に同じようにするもので、知らず、棚田も丁寧に頭を下げ返していた。

 一人が頭を下げると、どうした、どうした、とばかりに他の男もバスの方を見、そして、ああ、という顔つきになって、ぺこり、ぺこり、と頭を下げていく。棚田も、ぺこぺこと頭を下げ続けた。

 そんなふうにして、人影を見送るようにしているうちに町内の中心部にあるバス停に到着したのだった。

【 河間町、河間町、終点です、お降りの際にはお忘れ物のないようにご注意ください、ご乗車、有り難うございました、終点、河間町です、このバスは折り返し、12時42分発、駅前行きとなります、終点、河間町です、ご乗車、有り難うございました、終点、河間町です、お降りの際には…… 】

 機械的に繰り返されるアナウンスを聞きながら、棚田は手のひらの中のカードを見た。

 バスの乗車時に取る決まりになっているカードには、『0』と番号が記載してある。運転席のとなりの電光掲示板を見れば、その番号の運賃がいくらであるか表示されていて分かる仕組みになっているのは、勤め先周辺を走っているバスとほぼ同じ仕様だった。

 ――駅から河間町まで、十五キロ行くか行かないか、で、四百八十円、かあ。

 高いのか安いのか、普段、砕け散りそうな折りたたみ式自転車を愛用している棚田には分からない。

 とりあえず運賃を払わなければ、とズボンのポケットから財布を取り出して、棚田は気が付いた。あいにくと財布の中の小銭は五百円硬貨しかなかったのだ。

 躊躇していると運転手が、「乗車料金入れに投入すれば自動でお釣りが出てきますよ」と営業スマイルで教えてくれた。

 ――これから何回も通うことになるんだから、回数券かなんかを買っといたほうが良いのかも。

 実際、見舞いに行ったときの土井教授の様子から察するに、腰の調子は、そんな簡単に良くなるとも思えなかったし、よしんば、順調に回復できたとしても、数回は自分が助手として随行することになるだろう。

「回数券ってありますか?」

「はい、ございます」

 棚田は、運転手から十回分の値段で十一回枚綴りとなった回数券をひとつ購入した。

「あ、何でしたら、交通各社ICカードもご利用できますが」

「……はあ、ありがとうございます」

 運賃箱を指し示しながら運転手は笑顔のまま教えてくれたが、棚田は知っている。この地区の交通ICカードはオマケとなるポイント等の付加価値がないのである。チャージする手間のことを考えたら、利用者の方が損をするのだ。

 タラップを降りた途端、風の体当たりを受けて体全体がよろめく。

 寒さがきびしい。

 というよりも、肌に冷気が突き刺さって痛い。こういう感覚は、久しぶりだった。

「お爺ちゃんの家を思い出させ――くしゅっ」

 言いかけた言葉を、棚田はくしゃみで封じた。

 一月の第三土曜日。

 河間町、と書かれた停留所に停まったバスから降りたった棚田弘明は、身体の芯にある温もりまで容赦なく奪っていく湿り気のある寒さに強く身震いし、再び強いくしゃみを放つ。

「……そう言えば、トイレの後とかに、ぶるっとしちゃうのって、体温を上げる為だったっけ?」

 白い帯を何本も吐き出しながら、棚田は呟いた。

 祖父母宅には、ここ数年、お盆やお正月ですら、まともに顔を出していない。自分の学習意欲の骨格を創り上げてくれたのは祖父母の元での生活であるのに何という不幸者なのだろう、と自責の念にかられてしまう。

「何だって、こんな事を思い出すのやら」

 我ながら突拍子がなさすぎだ、と苦笑する。

 おっとりと人の良い棚田は、幼さの残る顔だちをしている事もあい周り、まだ高校生でも通用する。

 この年代の男性が常識的に持ち合わせている筈の、見た目やスタイルには特別こだわっていなさそうなのは、洗いっぱなしで寝ぐせがついたままの髪や、ブランド物ではない、どこにでもある大手ディスカウントショップのプライベートブランドのスーツとコートにあらわれていた。しかもどちらも、その袖口が擦れて生地がすり減り、てら光りしている。相当に着潰している証拠である。

 唯一、彼のこだわりと言えそうなのが、今どき珍しい、太い縁どりのメガネだろうか。

 さして背が高いわけでもなく、特別に筋トレに励んでいるようにも見えない体躯は貧弱そのもので、吹きすさぶ風に舞う木の葉と一緒に、そのまま転がされていきそうだった。

「こんな所が、本当にまだ残ってくれてるんだ」

 白い息をはきつつ、棚田は感動を口にした。ぐるり辺りを見回すと、否が応でも期待に胸がふくらむ。

 人がいない。

 先程の、バスですれ違った人を除けば、本当に人が居ない。人が活動している、活力源の気配がまるでない。それでいて、廃墟感はない。むしろ、独特の重く黒いどんよりとした空気が存在感をまき散らしながら漂っている。建物の古くささが、現代から取り残された異次元空間ぽさをかもし出しているのだ。想像の斜め上をいっているというよりは、ネット上で繰り広げられる『俺の田舎こそが辺鄙極まるど《・》田舎自慢』の最大公約数を煮詰めて発酵させたらこうなった感がある。

 棚田は、もう一度、身体を震わせた。

 横なぐりに近い風は、台風通過中といっても通用するのではないかというほど厳しく激しく、そして強い。両の手のひらを広げて口元に当て息を吹きかけてみたが、気休めにもならなかった。

「棚田君、河間町に行くのは良いのですがね、どうにもこうにも、不便極まりないのですよ。ですから調査に向かう際には、ぜひともタクシーをお使いなさい」

 独特のイントネーションのかたまりである土井教授の言葉が、ふと耳の奥に浮かぶ。

 ――さすが、苦労知らずのまま教授の地位を得た方らしいお言葉ですよね。

 バイト経験が少ない自分は、世間知らずだと重々承知している棚田であるが、教授はその上を軽くまたいで走り去っている。いくら頭が良くても、世間というものを知らなさすぎる。

 代打出張といっても、オーバードクターの更に助手の真似事をする程度の一介の学生ごときが、堂々とタクシー代を計上できるものかどうか、世間一般には白眼視されるものであると想像できないし、そもそも、しない。頭が良すぎるお上品な人間とは、自分の脳細胞を有効活用できる場面以外には、とてつもなく下品なお馬鹿に成り下がるのである。

 しかしそんな教授を、棚田は嘲うような性格ではなかった。

 つまり棚田弘明という男は、自分達の青春を古き良き時代と語る老人達が思い描く、根っから朴訥かつ篤実な好青年なのだった。


 バスは時間通りに到着したから分かっているのに、いつもの癖で、携帯に視線を落として時間を確かめる。案内役の人物との待ち合わせまで、余裕がある。

「この隙に、バスの時刻表のチェックをば」

 駅に行けば小さな時刻表カードでも置いてあるだろうと高を括っていたのだが、利用者が少なすぎて逆に検索で済ませろとばかりに撤去されていたのだ。コートのポケットに手をつっこんで暖を取りつつ、バス停に貼られている時刻表をのぞき見たが、仰け反らんばかりにして驚いた。

 朝と夕の通学通勤ラッシュには、おおよそ三十分に一本のペースで運行されているが、それ以外は一時間に一本がよいところ、しかも『現在冬期運行により減便中』という但し書きが添えられているではないか。

 もともと、河間町とJRの駅を往復するバスの本数は超がつく程、少なかった。土井教授からの情報をそこに加えて推察するに、目的地が田舎も田舎、『ど』がつくほどの田舎だろうと身構えてはいたが、よもや、これほどまでだったとは。

 ――こりゃ、ますます現代の秘境めいてきたな。

 祖父母の在住地域も第三セクターが運営するバスしかなく、しかも最寄り駅行きの便が一日に二本しか走らないのを棚に上げて、棚田は苦笑した。

 曇り空を仰ぎながら、ふぅっ、と息を吐くと、たちまちのうちに白い帯になった。

 腹の底から沸き起こる身震いが止まらない。独特の季節風が恐ろしく厳しいのだと土井教授から聞いてはいたが、まさか、これ程とは思ってもみなかった。

「え~と……16時42分、17時14分、17時39分、18時04分、18時59分、19時59分が最終……」

 手がかじかんで使い物にならなくなる前にと、棚田はコートのポケットに突っ込んでいた手をごそごそと動かしてメモ帳を取り出した。そして、駅前行きの時間を書き込み始めた。

 棚田は相当なアナログ人間である。なにせそもそも、未だにスマホではなくガラケー使いであるし、いま、時間を書き込んでいるメモ帳も電子メモやタブレットの類いではない。正真正銘の、手書きのメモ帳を愛用し続けている。しかも付箋があちらこちらから飛び出しており、通常の三~四倍にふくれ上がっている代物である。

 研究室ではちゃんとパソコンを使用して、デジカメで撮影した写真や動画を編集し、作成した資料に添付したりと、ひと通り、現代人として求められる最低限であるデジタル作業はこなしているのに携帯をスマホにかえないのは、金銭的な要因だった。経済状況を知るゼミ仲間や研究室の先輩たちからは「マジでガラケーの使用期限ギリギリまで使い倒すつもりかよ」と呆れられている。他社乗り換えなどを駆使すれば割安に手に入るから、と説明してくれる親切な者もいたが、先ずもってその割安が、全く安く感じられない、というのが棚田の現状の懐具合だった。

 最終的には、調査内容は手で書いたほうが頭に入ってくるという言い訳のもと、棚田はこのスタイルを貫いていた。

 とりあえず、平日と休日の運行予定表を書き写してしまうと、手にしたシャープペンシルで棚田は頭をかいた。

 ――改めて、凄いな。

 メモ帳をポケットにしまい、白い息をたなびかせながら周囲を見回す。

 バス停は、河間町のちょうど南北をつらぬく県道と、東北に走る町道の辻にある信号を目印の一つにしていた。交通量は少ないだろうとはいえ、町内には学童もいるだろうから道路を横断するときに危険だろうから当然とはいえ、手押しスイッチ式の切り替えではなく自動感知式の切り替え信号が立っている。

 お粗末な県道と寂れた町道についている程度の信号のわりに、相当良い部類の信号機ではある。棚田の田舎では、県道といえども信号機がない辻はごまんとあり、選挙のたびに、どこかの候補者がマニフェストの一つにあげるくらいだった。

 ――地元出身の議員さんがいるのかな?

 地元に議員が誕生すると、どこからともなく出現するのが親類縁者とジャイアン的幼馴染みである。田舎特有の事例であろうが、彼らは自らの地元を愛してやまぬのならば便宜を図るべきであると頭から信じている。この信号機も、そうした事情から生えた(・・・)のだろうと棚田は察した。

 ふと、バス停のそばにある大きな灯籠と、その隣に鎮座する小さな地蔵菩薩立像に視線をうつした。

 棚田の足は、すり寄るように灯籠に近づいていく。

 灯籠は、神社などの入り口にある石造りのものではなく高灯籠様式である。同じく灯りとしての役割を担っているが、高灯籠はその昔、灯台のような働きをしていた。内陸部で高灯籠とは不思議であるが、昔は水路が発達した土地であり、嫁入りは船を使ったという逸話もあるそうなので、あながち場違いとは言い切れないのかもしれなかった。

 次に、しゃがみ込んで地蔵像のお御堂に顔を近づけた。

「珍しいな」

 この地蔵像は、北方を向いていたのだ。

 地蔵像は基本的には南向きであることが多い。が、田舎では時として、こうした北向き地蔵もたまに見受けられる。その事例に出会えたのだから、これはラッキーというべきだろう。

 ポケットに入れたメモ帳をもう一度とりだして、棚田は灯籠の特徴と地蔵像のスケッチをしはじめた。地蔵像は、信号機の足下を見つめるような位置にある。細かく、何度も何度も視線をメモ帳とスケッチ対象の間を往復させる。最期に、思いついた特徴を横に吹き出し式にして書き込むと、棚田はようやくメモ帳を閉じた。

「デジカメは荷物の中にまとめてしまってあるから、撮影は帰りまでにすればいいか」

 独りごち、地蔵像に手を合わせる。

 ――今回の取材が、上手くいきますように。

 視線を上げると同時に、Uターンをして待機していたバスが目的地名を『駅前行き』に変えて出発していった。

 手持ち無沙汰である。

 仕方なく、ぷらぷら歩いていた棚田は、地蔵像の隣の平地が、実は防火水槽であることに気がついた。

 近年、遊んでいる最中の子供の事故を防ぐために貯水槽系は全面コンクリートで覆われたタイプに急速に置き換わっている。どうやらこんな田舎であってもそれは同様らしく、また比較的新しいものであるのはコンクリートの艶で分かる。

 そういえば、信号機も、ここまでバスが通ってきた道路の歩道も、この貯水槽と同じくらいの年代のようだった。

 信号機などは流行り廃りのスパンがあるので、そこから逆算するに二十年ほど前に備えられたもののようである。

 このバス停が町内を案内してくれる人物との待ち合わせ場所のはずなのだが、それらしき人影は現れる様子もない。それどころか自分以外、人っ子一人見あたらない。忘れ去られたかと、気が気でなくなってくる。

 気が急くまま、合わせた手に幾度となく息を吹きかける。息が含んでいる湿気のせいで、逆に冷たさが直ぐに指先に戻ってきてしまうようになってきていた。

 ――携帯用カイロでも持ってこれば良かったかな。

 お婆ちゃん子として育った棚田は、体を冷やしてはならぬという厳命のもとで大きくなったせいか、寒さにめっぽう弱かった。

 身体をふるわせつつ後悔していると、パールグレーの軽乗用車が、パパパパン! と軽快なクラクションを鳴らしながら現れた。

 バスの停車線ピッタリに止まった軽乗用車の運転席側の窓ガラスが、電動音と振動音を低く響かせながら開く。同時に、棚田はそれまでの恨みがましい気持ちを一瞬で捨て、内心でガッツポーズをしていた。

 運転席側に座っていたのは、美人と言うより可愛らしい、朝ドラのヒロインのような女性だったのだ。

 髪はショートボブにして緩やかなウェーブをかけており、化粧は口紅と眉を描く程度のナチュラルめのものである。唇は厚めで鼻立ちはくっきりしており、黒目が大きいせいか、若者向け量販店のカシミヤ風ニットとダウンジャケットといういでたちなのに、安っぽさなど微塵も感じさせない。棚田のテンションは一気に爆上がりする。

 年はおそらく棚田よりも五~六才ほど上なのだろうが、同年齢と言っても通用しそうで、いわゆる、かわいいは正義を地で行くタイプの女性である。しかも、田舎住まいでありながら、こんなに垢抜けているとは。いつまでたっても田舎の坊主臭さが漂う棚田とは雲泥の差だ。どういう世界線で生きている人なのだろう、と棚田は目眩がしそうだった。

「遅れてしまって、ごめんなさい。今日、土曜登校日で、おまけに旗当番だったの、すっかり忘れてて」

 旗当番というのは、登下校の小学生たちを見守る保護者の係のことだろう、と棚田は見当をつけた。似たようなものは大学近くの学童歩道でも見かけている。

 パン、と軽い音が鳴って、車の自動ロックが外れた。

「さあ、乗って。教授先生の代打さん」

「お初にお目にかかります。土井教授の研究室に所属しております、棚田弘明、と申します。本日はお忙しい中、案内役を引き受けて下さって、ありがとうございます」

 あら、と女性は目を細めて笑った。笑うと、棚田と同年代と言っても通用しそうなほど若々しい。

「ご丁寧に、どうも。さ、どうぞ」

 女性は笑顔を浮かべたまま、視線で後部座席を示した。

「では、失礼します」

 頭を下げて後部座席のドアに手をかけると、寒いのにまだ窓を開けっぱなしにしていた女性は、明るい声をたてて、また、笑った。

 屈託のなさから、研究室の助手さんたちの揶揄するようなそれではなく、本気でおかしがっているらしいとわかった。

 しかし棚田は、別段、不快な気持ちはわかなかった。それどころか、明るい笑顔に、強風の中でかじかんでいた身体に温もりがともってきたように思えたのだった。

「学者先生が乗っとるみたいな、ご立派な車とちゃうからね。後ろの座席なんか、狭くって座ってなんかいられへんから、荷物置いたら学者先生は前に座り」

「は、えっ?」

 突然、大笑いされつつ方言丸だしでまくし立てられた棚田は、目が点になり固まってしまった。

 運転席の女性は、ぼけっとしている青年がおかしいのか、さらにころころと笑い転げる。だがいつまでたっても、立ちん坊の棚田に業を煮やしたのだろうか、やにわに車から降りると、荷物をひったくって後部座席に勢いよく押し込んだ。

「あのっ……!」

「良いから、ほら早よ、乗って」

 今度は青年の手を引っ張って助手席側にまわると、勢いよくドアを開けてまるで洗濯機に汚れ物を放り込むようにして鞄を投げ入れた。

「さて、じゃあ、行こっか」

 スポーツ飲料のCMに出られそうな笑顔のまま、女性はアクセルを一気にベタ踏みにして急発進したのだった。

「本当は南まわりの道使った方が早いんだけど、こっち向きからだとUターンしないといけないから。村の中、通るね」

「あ、はい、道順はどのようにでも」

 目的地に到着するまでの数分間の間に、棚田と運転手の女性は最低限の情報交換を行うことにしたらしい。勝手に、自己紹介しはじめた。

「じゃあ、改めて。私、泉田みく、って言うの。生まれも育ちも、この河間町。ちょっと前に、クソ旦那の浮気が発覚しちゃってね、仕方ないから子供連れで出戻ってきたところ。で、ただいま離婚協議中、ってわけね。あ、言っとくけど、泉田は旧姓だから」

 聞かいでも良いプライベートを、みくはペラペラと開けっぴろげにしゃべりまくる。だが、まだ離婚が成立していないというのに、もう旧姓を名乗っているという事は、よりを戻す気はサラサラないのだろう。すっぱりと、元旦那という人物への未練を断ち切ってしまっているのだ。

 こういう時、女性の方が決断が潔いと言うが、みくもそのようである。

 ふん、ふん、と鼻歌を歌っていたみくだったが、おもむろに、車に取り付けられているホルダーからタバコを取り出した。

「学者先生って、車の中で吸われちゃっても、平気な人?」

 みくは上目つかいをして、あからさまに甘えた表情をしてみせる。棚田は吹き出しそうになるのを堪えながら「どうぞ、」と頷き返すと、みくは早速、一本取りだして火を付ける。今時、スマホの充電ケーブルを挿す穴としか認識されていないシガーソケットが、本来の役目を果たしていた。

 煙草を咥えたみくは、紫煙をくゆらせる、という言葉通りに優雅にふかしだした。

「そういえば、学者先生も名字に『田』がつくよね? 奇遇やね」

「ええ。そういえば、河間町は『○田』姓が多いですよね?」

 町内の自治会名簿を土井教授から借りており、既に粗方の予備知識を仕込んでいたので、当たり障りのなさそうな話題としてふってみると、また、みくは屈託なく笑ってみせた。

「そうね、席田せきた護田もりた、和田、新田、堀田、石田、牧田、沢田、それからウチの泉田もあるし……まあ、名字が似てるってだけじゃなくって、これだけ狭い村やから。ちょっと、数代でも遡ったら全員どこかで血がつながってる親戚同士ばっかりやし」

「ああ、分かります。ぼくも田舎は山間部なんですけど、状況的には多分、似たような感じなんです」

「へえ? 学者先生の所も、人類みな兄弟、みたいなの?」

「ええ、まあ」

「大変やね」

「はい?」

 目を丸くしつつ横を見ると、みくは眉を深く寄せて、心底から気の毒そうにしている。

「色々、うるさいでしょ? ほら、田舎特有のお節介が」

「あ、はい、まあ」

「どこも一緒よねえ」

 煙草を備え付けの灰皿で揉み消したみくは、また、明るく笑う。

 よく笑う、というよりも、よくまあ笑えるな、というのが棚田の率直な印象だった。それからどうも、気持ちが高ぶると方言が出やすくなるようだ、と気がついた。

「人付き合いが密な所ほど、良い所はかえって見え難くなるものですよ」

「でも面倒、ってのが本心やわ」

 苦笑いしつつ、みくは新たな煙草を取り出して火を付けた。

「あ、そうそう。河間『町』なんてって、クソ偉そうに名乗ってるけど、地元民は『むら』って呼んでるから」

「ああ、分かります。ぼくの田舎でも、一応、○○町となってますけど、むら、って言ってますから」

「あはは、田舎って、やっぱり、どっか似てくるのかな?」

 全開にしたままの窓から、乱暴に侵入してくる風に、ウェーブをかけた髪がふわふわとタンポポのわた毛のようになびく。細い腕を伸ばして、トン、とタバコの灰を灰皿に落とすしぐさが、なんだか妙に格好よく決まる。

 ――素敵な人だなあ。

 この頃の棚田は、まだまだ、のんびりとしたものだった。


 みくが軽自動車に乗っている理由を、棚田はすぐに思い知ることになった。

 それも、全身全霊で。

 ――こりゃ、とてもじゃないけど、小回りの利く軽自動車しか乗れそうもない。

 県道もさびれている、と思っていたが、まだ可愛げがある方だった、と棚田は思い直した。

 バスの停留所がある道は県道だった為、中央線つきの道路の体裁をとっていたが、一歩そこから外れ町道に入ると、すれ違いどころか、サイドミラーも折りたたまないと進めないような、極狭の道ばかりなのである。しかもウネウネとうねっている上に、道の隣には、金網すら張っていない、むき出しの側溝や用水路が並走しているだのの、連続なのである。

 村の中の道は、更に想像を絶していた。補修跡で、でこぼこしたアスファルトの路面が心身にもたらす衝撃は筆舌に尽くしがたい。

 みくから、「ほらそこ、うちらの師匠寺にあたるお寺さんの、蓮正寺ね」と説明されても、「はあ、そうですか」と答えるのが精一杯だった。

 たった数分であるが、棚田は、いつ側溝に落ちるかという恐怖とスリルを、骨の髄まで味わい尽くしたのだった。

 苦行のような道程の終点で棚田が案内された場所は、田と町内の住宅地を隔てるようにしてたつJRの高架線路の前だった。そこに、かなり大きめの一階平屋式のプレハブ住宅が建てられていたのだ。

『河間町コミュニティーセンター』

 今時、墨字の、しかも達筆で看板がたてかけられてある。駐車スペースは五台分もあり、ご丁寧に外用の水道蛇口にはホースが指してある。コミュニティから東は田しかなく、道は更に農道めいている。頭の中で地図を組み立ててみた棚田は、突き当たりは県道になるだろう、と見当を付けた。また、コミュニティから南に向かって走っている道もある。おそらく、そこをずっと進み、突き当たって丁字路になっているのがみくが言った『南まわりの道』にあたる筈だ。

 頭の中の地図上では、南まわりの道を東に向かって折れればバスがUターンをするロータリー代わりの広場めいた場所がにつながっている。南まわりの道の周辺は田が中心となっている筈で、民家はない。

「学者先生、次からも、こっちに調査に来た時の休憩所というか宿泊施設は、ここを使っても良いからね。事前に言っておいてくれたら、準備万端、整えておいてあげるから」

「あ、はい、ありがとうございます」

 棚田は返事をしつつ、背中を丸めて突風が運ぶ寒さから身を守る。

「あの、泉田さん」

「なに?」

 咥えタバコをしながら、後部座席から荷物を引きずり出していたみくは、にこにこしている。

「いえ、あの、泉田さん、僕のこと、学者先生、って呼ぶのは、ちょっと、勘弁してもらえますか?」

「え、なんで?」

 素っ頓狂な声をあげて、みくは煙草を口から離した。

「僕、教授の研究室に属してはいますけど、助手ですらない、ただの学生なんです。先生、なんてご大層な立場じゃないんです」

 みくは一瞬、きょとんとしたが、次の瞬間、朗らかに笑った。

「そんなの、高校以上の学校にわざわざ高いお金出して通おうなんて変態、はちょっと言い過ぎかな、えと、奇特な人? なんて、私からしたら、学者先生以外の何ものでもないよ」

 言いながら、みくは笑いすぎてこぼれてきた涙を指先で払っている。

 ――よく笑う人だなあ。

 変なところで、棚田は感心というか感動を覚えた。出会ってまだ三十分も経っていないというのに、みくの魅力に、すっかり参ってしまっている。

 ――こんなに朗らかな人がどうして浮気なんてされて、今、別居中なんだろう?

 ちょっと、にわかには信じられない。笑われながら、棚田はこっそりと出過ぎた疑念を胸に抱いた。

「でも、先生だなんて、僕はまだ学生ですし」

「私からしたら、お大学なんてお真面目な所に毎日お勉強にお励んでるなんてしている人、みんな、お偉い先生様々だよ」

「いえ、あの、でも」

「これからも、学者先生でいかせてもらうからね? ね?」

「は、あ」

 何が、「ね?」なのか。釣り込まれるとはこう言う事なんだろうな、と自覚しつつも、棚田は抗えず頷いてしまう。

「それからね、私の事、いい加減で、泉田さんなんて堅苦しく呼ばないでほしいんだけど」

「え? あの、じゃあ、なんてお呼びすれば?」

「みく、だって言ってるじゃん」

「えっ……」

「『み・く』だってば」

「はあ、その、あの、えっと、じゃあ」

 咥え煙草で腕を組みながら、みくはじっとりと睨みつけてきた。

「前置き長いよ、学者先生」

「……『み・く・さ・ん』……」

 しどろもどろになりながら、やっと名を呼んだ棚田を、みくは暫くねめつけていたが、突然、吹き出した。

「――ん、ふっ、ぷ、ふふっ」

 棚田の内心を知ってか知らずか、みくは煙草の火をプレハブ小屋の前においてある一斗缶を再利用した灰皿に落として火を消すと、歯を見せて笑い続け、そして肘をつかって、脇腹を軽く小突いてきた。

「それで勘弁してあげる」

「は、あ、あり、がとう、ござい、ます?」

 背中を押しながら笑う、みくの勢いのまま、棚田は返答もそこそこに、プレハブ住宅の引き戸を開けたのだった。

「それじゃ、入ろ! 寒いでしょ?」


 プレハブ住宅は東西に長い間取りで、玄関は北側の中央に位置していた。中に入ると、玄関の上がりかまちから一畳分の廊下がのびていて、東側に洋室が、西側に和室があった。和室は南北八畳二間つづきになっていて、南側の部屋には大型テレビとブルーレイデッキファックス付きの電話が備えられている。

「中は広いんですね」

「大人数の寄り合いとか子供会の催し物とか、出来るようにしてる間取りだから。一人だけのお泊まりには、むしろちょっと、広すぎるね」

 室内が有り難くなるほど、しんみりと暖かいのは、みくがあらかじめエアコンをつけておいてくれていたからだろう。

 和室の北側には八畳の広さのフローリングのキッチンまである。一般家庭にあるような二口のガスコンロと、電気ポットに二ドアタイプの冷蔵庫に電子レンジにトースターまで備えてある。東側の洋室も南北に八畳二間分の広さがあり、こちらには仕切りがない。

 和室と洋室、そして廊下の三面から入れるように納戸が設えてあり、どうやらそこに座布団や椅子や机や、防災道具が備えられているようだった。

 洋室の北側には、手すり付きの洋式トイレが二つと、狭いが浴槽つきのシャワールームまで設置してある。外から一見しただけでは部屋のみの建売プレハブ住宅のようだったのに、結構、充実した設備に棚田は驚いた。

 ――なるほど、これだけの広さがあればある程度の人数の集会も開けそうかな。

「電気はどこも使えるようにしてあるから。あ、お水の元栓も開けてあるから、お手洗いも、もう使えるよ。シャワー室とか給湯室のお湯、ガス式なんだけど、外のガスの元栓を開けないと出ないから、今のうちに開けておいてあげる。学者先生が帰るときに、元栓も水道も私がとめておくから、気にしないで」

「あ、はい」

 予想通り、みくは荷物を和室側において障子戸をあけはなった後、納戸に入って布団一組をかついできた。

「そんなのは、ぼく、自分でやりますから」

「良いから良いから。学者先生は、この村、今日が初めてじゃない? だから、特別、ね?」

 ウィンクしながら、みくは荷物の横に布団をドスン、と置いた。そして、屈んだ姿勢を利用して、側にあった複数のコントローラーを手に取り、棚田に差し出してきた。

「温度設定は好きにしてね。テレビはね、ここ、地上波だけじゃなくてBSも見られるから。夜中のアニメでもドラマでもスポーツでも、お好きなのをチェックして」

「ありがとうございます、でもぼく、そんなにテレビ見てるヒマはないと思いますので……多分、観ても、天気予報くらいです」

「だけど、この先も何回かこっち来るんでしょ?」

「そのつもりですが」

「だったら、覚えといて損はないよ」

 言いながらコントローラーをテレビの側に置くと、みくはキッチンのほうに向かった。

「あ、それとね、一応、村の中に雑貨屋さんはあるにはあるんだけど、品揃えは駄菓子屋さんに毛が生えた程度だから、期待しない方が無難だよ」

「えっ!?」

 教授から、町内にコンビニそうろうの店があるから食事に関しては心配しなくても良い、と聞かされていて全く用意してこなかった棚田は、こんなことなら、駅前ロータリーにあるスーパーでカイロや食料品を買いこんでおいたのに、と一気に焦りの色を見せた。

 見越していたのか、みくは冷蔵庫の横に立って棚田を手招きする。

「そんな事だろうな、って思って」

 開けられた冷蔵から中から漏れる光が、棚田には大日如来の後光のように見えた。

「お茶やらジュースやらとお弁当買っといたから、後で見といて。こっちのダンボールにも、あれこれ入れてあるし、遠慮せずに好きに食べてね。あ、でも、明日の朝分までのつもりで買ってきたから、そこらへんは自分で計算してね。それと、紙コップや使いすてのお茶碗とか割り箸とかはシンクの下に色々あるから、好きに使って。それから、ゴミはキッチン横の分別ペールにちゃんと捨てておいてね? ゴミの分別、結構、うるさく言われるのよ」

「勿論、キチンとしますから」

 一気にみくは、まくしたてた。先程の説明もだが、よく舌が回るものだと棚田は妙なところで感動してしまう。

「あの、所で、みくさん」

「ん?」

「代金は……?」

「は?」

「お幾らになりますか?」

 気の抜けた返事をしつつ冷蔵庫の戸を閉めたみくは、使い込まれた皮財布を手にキリッと立つ棚田を見て、深いため息を吐いた。そしておもむろに、にやりと笑うと肩をすくめ、一瞬の間に棚田との距離を詰めて背後にまわると背中を勢い良くぶっ叩いた。

「うはっ!?」

 激しくえずく棚田を、みくは明るく笑い飛ばす。

「いらないって、そんなの」

「いえ、そんなわけには」

「最初に教授先生さんから貰ってる、取材のお礼ってヤツから出してるから、良いんだって」

「それはそれ、これはこれ、別問題ですよ」

「細かいね、学者先生」

「お金の事はきちんとしなさいと、祖父母に言われて育ったので」

「学者先生ってば、ジジババッ子なんや?」

 みくはまだ、喉の奥の方で笑っている。

「みくさん、お金が絡んだら笑い事にしちゃ駄目です」

「はいはい、じゃあ――取材が全部終わった後で大学の方に連絡させて貰うって事で、良い?」

「はい」

 押しに弱そうな棚田に似せぬ強い眼光を前に、みくは苦笑しつつ頷く。

「ここ出る時、戸締まりだけは、しっかりしといてね? 玄関の下足箱の上にあるキーボックスに鍵入れてあるから」

「はい、分かりました」

「小一時間くらいウロウロする程度なら、エアコンつけっぱなしにしておいた方が無難だから。ここの季節風、むちゃくちゃ厳しいの。ちょっと気を抜くと、一気に体温持っていかれちゃって風邪引いちゃうよ?」

「それはもう、バス停でみくさんを待ってる間に、骨身にしみました」

「でしょ? ね、凄いでしょ、あの季節風。あれで余所の人は大抵、参っちゃうの」

 雑談しながらも、みくは手際よく、あれやこれやと棚田にコミュニティセンターにある機器の使い方を伝授していく。世話やきが好き、というのか『おかん気質』、というべきなのかもしれない。

 ――よくしゃべるのは研究室の人たちと一緒だけど、でも馴れ馴れしすぎるというか押しつけがましさを感じにくいのは、みくさんの笑顔のおかげだろうな……。

 実際、いつもこんな明るく朗らかに屈託なく接してくれたらなら、どんなに疲れていても、よしがんばろう、って思えるんじゃないんだろうか、と棚田はみくに惹かれている自分をまたしても自覚する。そして、毛先を綿毛のようにはねさせながら歩くみくの背を見ながら、どうして、彼女の配偶者が浮気に走ったりなどしたのかと理解に苦しみ、同時に忌ま忌ましさを感じ始めていた。


 一通りの説明を終えて、和室に戻った。

 ふと、柱にかけてあるカレンダーが目についた棚田は、脱ぎかけたコートのポケットに手をつっこんでまさぐり、メモ帳を取り出した。今日と明日に赤まる印がつけられたカレンダーと、棚田はにらみ合う。

「みくさん、すいません、今日と明日の土日に行われるのは、左義長、ですよね?」

「え? あ、うん」

 そう、今回、棚田の取材の第一目的は『左義長祭り』であった。

 わりあい日本全国何処ででも行われている祭りであるが、これをかわぎりに河間町の年間のまつりが封切られる事と、今は逆にすたれていっている左義長がなおも大切に守られている、という点を重点において取材を行いたい、と棚田は密かに計画を練っていた。

 勿論、土井教授の意向でもあるが、ともかく棚田は今日が村の人々との初顔合わせとなる。

 この顔合わせを、まずは第一段階として好印象を持ってもらい、この先の取材はさらに充実したものにしたい、と目論んでいた。

 カレンダーのほぼ真上、本来であれば欄間部分の壁に、航空写真が飾ってあった。

 ――かなりの年季ものだなあ。

 一応、カラー撮影だったのだろうが、日に焼けて白黒写真かと見紛う退色があり所々不鮮明な箇所があるが、それでも、大きな川筋と、それを遮断するかのように挑み立つ東西に細長い小判形をした堤防と、それに護られて並ぶ家屋と田畑、寺社の配置、そして堤防内外に敷き詰められた四角いタイルのような田んぼの群れ、と目で追える。

 河川が三本見えているので、そこそこ上空から撮られているようだ。

 上に二つ下に一つと円が三つ集まって三角形を作っている状態を脳内に描くと分かりやすい。向かって右側の円に相当する河川が三輪川といい、河間町の堤防がつくられている。左側の河川を奈河川、下の円に相当する河川を奈多川と言う。この二河川にも堤防が作られており、その間にも田は広がっている。

 古い時代、この三本の河川は、入れ替わり合流しを幾度となく繰り返していたに違いない。

「古い写真ですね」

「そうね、ウチのお父さんが子供の頃だっていうから、五十年以上前?」

 空から映し出された町内の姿は、出発前に資料として手にしてきているグーグルマップと入れ替えたとしても、きっと気が付かないだろ。つまり、この河間町は半世紀以上も姿形をほぼ変えずに存在しているのだ。

「左義長は旧正月に行うところが多いですけど、ここは違うんですね?」

「私たちが小学校くらいまでは、旧正月にやってたのよ。でも、時代の流れっていうのかな、お世話係のひとも会社勤めあるし大変だからって、一月の第二の土日って決まったの」

 昨今、よく聞く田舎の事情である。田舎でなくとも、こうした行事はもはや邪魔物でしかなくなりつつあるのが今の日本の現状だ。

「最も今年は、お正月の二日三日が土日だったから、第三土日に延ばしたんだけどね。左義長だけじゃなくて、この二十年くらいの間に、お祭りは土日にやるようになったわね」

 冷蔵庫の戸を開けながら「なんか飲む?」とみくに聞かれた棚田は、「じゃあ、ミネラルウォーターをお願いします」と小さく答えた。

「はーい、了解」

 みくは笑いながら、ミネラルウォーターとグレープ味の炭酸ジュースを出してきた。

「今日のお昼すぎから、神社の境内で竹を組まれるんですよね?」

「うん、一応ね」

 荷物の中から名刺入れとデジカメやビデオカメラなどの取材用機材を棚田が引っぱりだしていると、みくが隣に来て座り、ミネラルウォーターの蓋を捻ってから畳の上に置いてくれた。

「それ、取材道具?」

「はい、高校時代から愛用してる、相棒です。もっとも、どれもこれも父や友人からのお下がりとか、もらい物なんですけど」

 それぞれの道具のバッテリー状態をチェックしつつ返事をする棚田に、「ふ~ん?」といいながらみくは小首をかしげた。そして、メモ帳とは反対側のポケットに入れていたボイスレコーダーに手を伸ばしてきた。

「ビデオカメラで撮影して取材するならさ、これはいらないんじゃないの?」

 手の内側でポケットサイズのボイスレコーダーをもてあそびながら、みくは心底不思議そうな顔をした。

「いやあ、それがそうでもないんです。カメラとか向けると、反射的に身構えてしまう方って、結構いらっしゃるんですよ」

「そうなの?」

「うまく話せなくなってしまわれたりとか、本心が聞けなかったりとか」

「へえ?」

「でも、コイツをポケットにしのばせておくと、緊張されないからか、口頭取材で意外とおもしろいあれやこれやなんかを、聞けちゃったりするんです」

「そんなものなの?」

「そんなもんなんです」

 どこかウキウキしている棚田に対して、みくは腑に落ちなさそうである。

 かと思うと突然、ボイスレコーダーを口元に当てて「マイクのテスト中~」とおどけてみせる。二人でひとしきり笑いあってから、そういえば、と棚田はこのコミュニティーセンターについて気になっていた事を聞くことにした。

「みくさん、こちらの建物、大きさもですけど設備も相当しっかりしてますよね? キッチン・バス・トイレつきだなんて、珍しいというか変わってますけど、何か理由があるんですか?」

 正直、今日の昼から明日の夕方まで取材するにしても、ベースとして貸してもらえる建物は適当に古めかしい建物だろう、と覚悟していた。設備など、はなから期待していなかった。だが、こんな、道路の舗装もままならないような田舎の集会所が簡易宿泊施設として十分機能するだけの設備をそなえているとは、心底、驚きだった。

「理由……ねえ」

 いいながら苦笑いし、みくはペットボトルのフタを開けた。シュワシュワとはじける音をたてながら濃い紫色の炭酸ジュースを、のどの奥に落とすように飲んでいく。

「私たち世代の、ちょっと上くらい、からかな? 市内にも碌な仕事がないからって、他県や首都圏に出ていってしまう人ってね、かなり多くて。ううん、殆ど皆って言えちゃうかな」

「……」

 どう答えて良いのか分からず、棚田は、結局なにも言えずに口ごもる。

「ま、それは、出て行っちゃった最先鋒だったみたいな、私が言える義理じゃ、ないんだけど」

 ここで初めて、みくはバツの悪そうな顔をしてみせた。

 どうしたって、同じ学歴であるのなら、より都会に出たほうが稼ぎは良い。家庭と家族を持ったならなおさらである。こういった田舎では、共働きをしようにも物理的に無理なのだ。少ない正社員の仕事のパイを取り合い、結果、パートなりバイトなり時短の契約社員なりに落ちねばならない。いや、それすらも、見つかるかどうかも怪しい。それくらいなら、最初から戻らない選択をするのが当然だろう。

「ここに残ってるのは、親や祖父母世代だけってお宅、結構あるの。そういう家にご不幸があったときにさ、最近の人たちはさ、旦那さんの実家に寝泊まりするのを嫌がるのよね。……ま、気持ちはね、私だって逃げ出したくらいだから、よく分かるけど」

 みくの、すぼまった唇あたりから、甘ったるいブドウ味の香りが漂ってくる。何故か、意味もなく照れてしまった棚田は、誤魔化そうと、頷きつつ小さくなる。

「駅前にビジネスホテルとかはあるけど行き来に不便だしさ、お金だって家族数人になるとバカにならないじゃない? で、まあ、そういう人達に開放して寝泊まりできるように、建前はいざという時の避難場所っていうご大層な名目たてて、自治会費から費用捻出して、チョイチョイっと設備を整えたの。家族何人でも、電気ガス水道使い放題コミコミで一泊三千円だったら安いでしょ?」

「安すぎますよ」

 驚く棚田に、みくは今までと違い、どこか裏のある、小悪魔的な目つきで笑った。

「座布団とか机は自治会費で買ったんだけど、布団とかはレンタルなの。利用した分だけレンタル業者が引き取りに来て新しいのと交換してってくれるし、コミュニティーの掃除は、村の人らが持ちまわりでやろうってなってるのね。だから、このお値段設定なの」

「あ、じゃあ?」

「そう、今日は私のとこが持ちまわりの当番、てわけ。でも、子どもの下校時間と待ち合わせ時間が同じになっちゃって」

 ペットボトルにフタをし直すと、みくは膝の服の皺を軽く叩いて伸ばし、「遅れちゃってゴメンね」とウインクしつつ立ち上がった。

 ――ウインクする女の人って、初めて見たかも。

 妙に、どぎまぎしてしまう。声が上ずりそうになるのを抑えるのに、必死にならねばならなかった。

「じゃ、そろそろ子供が帰ってくるから、一度、家に帰らせてもらうね」

「はい、ここまでありがとうございました。あ、準備は何時からでしたっけ?」

「五時からだけど……なんだったら、乗っけてってあげるよ?」

「本当ですか?」

「遅れてちゃった、お詫び。どうする?」

「ぜひ、お願いします」

 これぞ、棚ぼたと言うべきだろう。

 棚田はみくに頭を下げ、好意に甘えさせてもらうことにしたのだった。



次話:泉田みく

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