第七十五話『灯を背負うということ』
──火を継ぐと、口にするのは容易い。
だが、その“灯”が何人の命と想いで育まれたものか、知っている者は少ない。
女中評定が始まって間もなく、空気はぴりりと張り詰めていた。
理由はひとつ。
新たな「頭取代理」選出の話が、突如議題として持ち上がったからだ。
前回までの評定では主に掃除当番や香料申請の是非などが淡々と語られていた。
だが今朝は違う。
中央席に立った中臈・千歳が、周囲に張り詰めた空気を投げつけたのだ。
「いつまでも“誰も指導せず、誰も責任を持たない”状態では、奥は動きません。
新たな灯が必要です──“頭取代理”の選出を始めましょう」
ざわつく会場。
名もない下働きから、かつての側女たちまでが、声には出さずとも動揺を示していた。
──その中で、糸は呼吸を整えていた。
ゆらと共に手紙を見つけて数日。
あの言葉は、まだ胸の奥で静かに燃えていた。
「……灯を背負う者、か」
彼女の目がすっと上がる。
そして、次の瞬間──
「澄音様を推薦いたします」
声が上がったのは、千歳だった。
糸は驚きつつも、納得していた。
香調整係・澄音は穏やかで公平、各女中層に信頼も厚い。
何より、かつて篝火と親しく、評定制度の設立にも関わった女だ。
だが、澄音はその声を制した。
「──わたしは、お断りします」
空気が揺れた。
「理由は?」
「わたしは“あの人”の傍にいた者ですが、“あの人”にはなれない。
ただ近くで見ていただけ。
わたしは“灯”を語れる器ではありません」
静かだが、はっきりとした辞退だった。
千歳が言葉を失った隙に、糸は立ち上がっていた。
「……ならば、わたしが」
広間に沈黙が落ちる。
「わたしが──火を継ぐ者として、頭取代理の務めを果たしたいと思います」
瞬間、空気が変わった。
「は……?」
誰かが小さく噴き出した。
「……あなたが? まだ“火”を見たばかりの」
「香帳に名前が載ったのだって、この春が初めてでしょ」
「灯を継ぐ? 何を継いだのかしらねえ」
笑い声。
嘲る視線。
澄音の隣で見ていたゆらが、小さく身を縮めた。
糸は立ち尽くしたまま、それでも下を向かなかった。
「たしかにわたしは、器ではないかもしれません。
でも、“誰かが火を灯すべき”と思ったとき、
その誰かが現れなければ──灯は、もう二度と戻らない」
震える手を、胸の前で組む。
「わたしは、名前で選ばれてほしくないんです。
あの人たちが“名を捨てて”残してくれた場所を、
また“肩書き”で埋めたくない」
「だから、わたしは名もなき者として──ここに立ちます」
誰も、言葉を返せなかった。
ただ、嗤う者もいれば、眉をひそめる者もいた。
だが──その中央、澄音だけが静かに立ち上がった。
「……わたしは、支持します」
「糸はまだ若く、未熟です。
ですが、火というものは、薪に火がついた瞬間ではなく、
“燃え続けようとする意志”に価値があると、わたしは思っています」
「そして──わたしは、この子の中に、それを見ました」
再び空気が変わる。
今度は、静かな火が誰かの心を撫でるように、
じわりと視線の中に“揺らぎ”が生まれ始めた。
「一度、試してみてもいいのでは?」
「……どうせ誰も手を挙げないなら」
「火の名を語る資格がないって言いながら、火を捨てる方が罪深い」
名もなき者たちの中に、かすかな共鳴が生まれた。
糸の目に、熱いものが浮かぶ。
けれど、それは涙ではない。
燃えはじめたばかりの、灯。
***
評定のあと、廊下を歩いていた糸の背に、澄音が声をかけた。
「……よく、言ったわね」
「言って、よかったのでしょうか」
「それは、これから決まるのよ。
でもね、誰かが“火を背負う”って言ったこと、あの場で初めてだった」
糸は、振り返った。
「わたし、まだ怖いです。
こんな小さな火しか持ててないのに──」
「だからよ」
澄音は、優しく微笑んだ。
「小さな火が、一番よく灯るの。
誰もが持てる、小さな火がね」
──つづく。




