第六十八話『暁の誓い──それでも愛を語れ』
春の終わり、空はまだ藍の底に沈んでいた。
その静けさの中を、
異国の少女・エリス・シャルロットは、ゆっくりと歩いていた。
異国の使節団の一員として訪れた彼女の役目は、今宵をもって終わる。
数時間後には船に戻り、江戸湾を離れることになっていた。
だが、その前にどうしても伝えねばならぬ言葉があった。
篝火──雪乃宮に。
***
広い回廊の端に、灯りひとつ置かれていた。
その灯りの向こう、篝火がひとり腰掛けていた。
黒髪は無造作に結ばれ、白い羽織をゆるく羽織っている。
その姿は、かつての“影姫”ではなく、ただの一人の女性だった。
エリスは、そっと隣に座る。
「……会いに来てくれると思っていました」
篝火が、優しく笑んだ。
「あなたは、昔と変わらない」
「けれど、わたしは変わったようです。……名を越えて、生きている」
エリスも、笑う。
「あなたはもう、“名前を持つ姫”ではない。
あなたは、“名を超えた女”になった」
「それは……時に、王よりも強いのよ。
人の心に残る名は、記録より深く刻まれるから」
沈黙が、ふたりを包む。
それは気まずさではなく、
互いがかつて“同じ影”をくぐったことを知る、静かな共有だった。
エリスは、懐から小さなものを取り出した。
それは、硝子の瓶に入った香油だった。
「あなたが、昔くれた香り。
“希望を忘れない者にだけ、微かに香る”って言ってたわね」
篝火は、目を細めた。
「まだ持っていてくれたのですね……」
「この香りだけは、わたしの中で、
ずっと“あなたそのもの”だったから」
エリスは瓶を篝火の手に押し戻す。
「でも、これはもうあなたのものじゃない。
今のあなたには、別の香りがあるから」
「そう……“あの子”の香りね」
***
エリスが去ったあと、
篝火はしばし、夜気の中にひとり佇んでいた。
その背に、そっと羽織がかけられる。
「……冷えますよ」
振り返らなくてもわかった。
その香り、足音、そして……ぬくもり。
「朝霧……」
「あなたがどこを見ていようと、わたしはここにいます」
「名を越えて、記憶を越えて、時を越えて」
「あなたが選ぶ限り、わたしは“共に選びます”」
***
ふたりは、並んで歩いた。
人のいない、夜明け前の回廊。
灯籠の明かりが細く伸び、ふたりの影を静かに重ねていた。
「……わたしは、怖かったのです」
篝火が、ぽつりと口を開いた。
「名を持たぬ者として尊ばれること。
光を浴びることで、また誰かの影になること」
「でも、あなたが……ずっとわたしを“人”として見てくれるから」
「ようやく、わたしも“ただのわたし”を許せそうです」
朝霧は足を止めた。
「なら、誓いましょう」
「これからどんな未来が来ても──」
「わたしたちは、名前でも血でもなく、
“今ここにいるあなたとわたし”を信じると」
篝火は、驚いたように目を見開いた。
そして──微笑んだ。
「……ええ。誓いましょう」
「誰かの記録に残らずとも、わたしたちだけの“歴史”を紡いでゆくと」
ふたりは手を取り合った。
誰にも見られない、誰にも記されないその瞬間。
回廊の外、空が静かに明けてゆく。
夜明けの光が、ふたりの指先を染めていった。
──たとえこの世がまた争いに沈もうとも、
この一瞬だけは、嘘も恐れもない、“選び合った愛”が確かにここにある。
それは、香りのように──
見えずとも、ふたりを結ぶ、永遠の契りだった。
(つづく)




