第六十五話『裏切りの誓紙』
──人は、信じるものを裏切られたときにこそ、
真に誰を信じていたかを思い知る。
毒香の事件から二日。
ふたりの仮部屋には、一切の訪問がなかった。
女たちは、遠巻きに様子を見ていた。
篝火の名を囁く声は、ひとつひとつ、熱を失っていった。
その中心にあったのが、一枚の“誓紙”だった。
大奥香番組──かつて毒香を司っていた香職人の残党が、
密かに書き残した文書である。
『香は、篝火様の意志で用意したもの』
『これは、再秩序のための試練である』
『忠義の証として、命を賭した』
この誓紙は、処分された香職人の隠し部屋から発見されたものであり、
正式な筆致で書かれていた。
そして、なにより決定的だったのは──
「篝火様の御名を受け、仕えた香番である」
という、明記。
***
「……“名”を持たないわたしが、
“名を語られて”いるのですね」
篝火は、その文を読んで、静かに苦笑した。
「皮肉なものです」
「わたしは何も命じていない。
あの者を知りもしない。
なのに──わたしの“光”を信じたというだけで、
彼は毒を用いた」
「これは……盲信の凶器」
朝霧は、すぐそばで立ち尽くしていた。
何かを言いたくて、けれど言葉にできず、
ぎゅっと袖を握っていた。
ふたりのあいだに、初めて“疑念”が降った。
もちろん、朝霧は信じている。
篝火がそんな指示を出すはずがないと、心の底から信じている。
でも──“他人の信仰”というものが、
いかに容易く暴走するかを、
自分自身が誰より理解している。
「……篝火様」
「わたしは、あなたが何を語らなかったとしても、
この目で見てきたあなたを、信じます」
「けれど……この“文”を見た者たちは、
それだけでは済まないでしょう」
「名がないからこそ、
あなたは“何者にもなれてしまう”」
篝火は黙っていた。
それは“理解の沈黙”だった。
彼女もまた、分かっているのだ。
“名なき存在”が象徴となったとき、
そこにどんな“偶像”でも投げ込まれてしまう危険を──。
***
女中頭の部屋。
篝火と朝霧は、密かに召し出されていた。
香番の処分について、最終確認が下される場だった。
女中頭は低い声で言った。
「篝火様。
香番の供述は、確定的な証拠とはなりません。
……しかし、“信じたい者”にとっては、それで足ります」
「御身が真実を語らずとも、
彼らの“信じた真実”が、御身を決めつけるのです」
篝火は目を閉じた。
「……まこと、信とは重いものですね」
「心を寄せ、光を仰ぎ、名を呼ぶことが──
人を殺す刃になってしまうのですから」
その言葉に、朝霧の胸がざわめいた。
「ならば、わたしがその刃を受けましょう」
「誰かが倒れることでしか進めないなら、
わたしが、その礎になりましょう」
篝火のその発言に、女中頭も、朝霧も息を呑んだ。
「それは……殉教の言葉です」
朝霧が、低く絞るように言った。
「それは……あなたが、わたしたちを信じないという証です」
篝火の目が、大きく揺れた。
「……違います、朝霧」
「わたしは、あなたを……世界の誰よりも信じています」
「でも──それでも、
“信じることで誰かがまた血を流す”未来があるのなら、
その連鎖を断ち切るには、
誰かが“信じられるもの”を捨てねばならない」
朝霧は、篝火の手を取った。
その手は、冷たかった。
「あなたが捨てるなら、
わたしは、それを拾います」
「あなたが“信”を捨てるなら、
わたしが、あなたを信じ抜きます」
「たとえ、全てが闇になっても──」
「わたしの目だけは、あなたを“人”として見続けます」
篝火の瞳が、潤んだ。
「……ありがとう、朝霧。
あなたがいてくれる限り、
わたしは“わたし”のままでいられます」
その言葉は、誓紙よりも真実だった。
***
だが──その夜。
“誓紙”は、何者かの手で再び複写され、
“町の噂話”として流布されはじめていた。
大奥の外、廊下の端、台所の影──
どこからともなく囁かれる言葉が、こうだった。
「篝火様は、雪乃宮の亡霊だ」
「香で人を操る者は、また現れる」
「玉座なき王国の主は、嘘を塗り重ねて成った影姫」
朝霧は、その“流言”に気づいたとき、
静かに拳を握った。
「これは──また“過去”が追いかけてきている」
「ならば、焼き払ってやる。
その嘘も、恐れも、全部──」
“誓いの香”ではなく、
“選び取った愛”を守るために。
ふたりは今、
初めて“王国の主”として試されていた。
(つづく)




