第四十七話 月下の契り──すべてが偽りでも
──その夜は、満月だった。
雲ひとつなく澄んだ空。
大奥の屋根瓦を月光が優しく照らし、
庭の草木も銀に染められていた。
その静寂の中、ひとつの影が動いた。
足音を殺し、気配を消し、
けれど迷いのない足取り。
その影は、離れの裏庭に続く細道を、
灯火ひとつ持たずに進んでいた。
「……篝火様……」
朝霧だった。
文に記された“灯”の合図。
それを頼りに、今宵こそ彼女は、禁を破ってでも逢いに来た。
この大奥で、
すべてが偽りと沈黙でできていたとしても──
ふたりの心だけは、偽らないと信じて。
***
裏庭は、すでに“彼女”がいた。
誰の目にも触れぬその場所に、
ひとり腰を下ろし、
枝垂れ桜の下で月を見上げるその姿。
かつて“雪乃宮”と呼ばれた人。
今は、記録のどこにもいない女。
だが、その横顔に宿る月の光は、
かつての誰よりも、清らかだった。
「──来て、くださったのですね」
その声に、朝霧は思わず立ち尽くした。
懐かしくて、愛しくて、
そして何より、あたたかい。
「はい……来ずにはいられませんでした」
「あなたに、会いたくて」
ふたりは、そっと近づき、
草の上で膝をつけるように向かい合った。
「わたしは、もう“雪乃宮”ではありません」
「あなたも、今は“桔梗”ではない」
「でも──」
雪乃宮は、静かに言葉を継いだ。
「仮の名でも、偽りの立場でも、
あなたと生きたいと願う気持ちだけは、本物です」
「それだけを胸に、ここまで来ました」
朝霧は、涙をこらえきれなかった。
「わたしも、同じです……」
「あなたが、どんな名を捨てても。
どんな姿に変わっても。
わたしは、あなたの隣にいたい」
ふたりは、互いの手を取り合った。
月明かりに照らされた手のひらは、
作業で荒れ、冷えきっていたけれど──
そのぬくもりだけが、確かだった。
「ここに契りましょう」
「記録も証人もいらない」
「ふたりの心だけで、交わす契り」
雪乃宮が、朝霧の手の甲にそっと唇を押し当てた。
「わたしは、あなたと生きるために、生まれ変わりました」
「たとえ、誰にも認められなくても」
「あなたの中に“雪乃宮”が残っていれば、それでいいのです」
「……わたしは、誓います」
朝霧は、震える指で雪乃宮の髪をなでた。
「次にこの手を離すときは、
あなたと共に、すべてを終えるときだけです」
「それまで、何度でも──あなたと生きてみせます」
月が、見ていた。
名を捨て、すべてを偽りとされたふたりの、
ただひとつの真実。
それは、誰にも壊せない、
言葉より強い“ふたりの誓い”。
「さようなら、雪乃宮様」
「こんばんは、あなた──」
「これからは、名前ではなく、
わたしの声に、だけ、応えてください」
「……はい」
***
それからふたりは、声を交わすことなく、
ただ手を繋いで月を仰いでいた。
世界がどれほど偽りに満ちていようとも、
この夜だけは、真実であった。
そして、
この契りが、やがて大奥を揺るがす運命を導くことを、
ふたりはまだ知らなかった。
だが、それでもかまわなかった。
いま、ここにいること。
あなたが、生きていること。
それが、すべてだった。
(続く)




