第二十九話 追手の影、蘇る名
──夜の帳が下りた。
ふたりが身を寄せる山間の庵には、
虫の声だけが静かに響いていた。
薄暗い灯りの下で、
雪乃宮は墨筆を握っていた。
逃亡生活のなかでも、手紙や記録を綴る習慣だけは失わなかった。
これは、決して誰かに宛てるためではなく、
生きていた証を残すためのもの。
けれど、今夜の筆先は止まっていた。
墨が紙に滲み、
それが彼女の胸のざわめきを映し出すようだった。
「……動いています」
朝霧が、戸口の外から入ってきて、静かに告げた。
「町で、奇妙な言葉が囁かれているそうです」
雪乃宮は顔を上げる。
「“白座敷の姫”──そう呼ばれていた存在が、
生きていると」
***
それは、
確かに“あの座敷”の記憶と結びついた名だった。
世間には存在しないはずの姫。
将軍家の記録には書かれていない娘。
だが、大奥の裏で噂され続けてきた“亡霊”のような存在。
白い部屋に閉じ込められた、
血の混じり合った子。
紅梅局によって育てられ、
いつか“大義のため”に使われるはずだった存在。
雪乃宮──
その名で呼ばれる前の“彼女”が、まさにそうだった。
「誰が、その噂を……?」
「確かな筋は分かりません。
けれど、どうやら“大奥の古き派閥”がまた動き出したようです」
朝霧は、腕に巻いた包帯を握りしめながら、顔を曇らせた。
かつて雪乃宮を追い詰めた紅梅局の残党。
その影が、再びふたりを包み始めていた。
***
「……それに、もうひとつ」
朝霧は、ぽつりと呟いた。
「最近、わたし……自分の名前が、
どこか“よそよそしく”感じられるのです」
「朝霧──この名を呼ばれるたび、
胸の奥がざわついて……」
雪乃宮は、静かに筆を置いた。
そして、朝霧の方を向いて座り直す。
「……どういうことかしら」
朝霧は、少し躊躇いながらも口を開いた。
「この名前は、母がつけたものだと聞いていました」
「でも、記録を見れば見るほど、
どこにも“朝霧”という名の由来が見つからないのです」
「生まれた屋敷の記録には、幼名は“綾”と書かれていました。
けれど、それがいつの間にか“朝霧”に……」
雪乃宮の眉が、わずかに動いた。
「それは……隠すための“名”だった可能性がありますね」
「あなたの血筋が、何か……知られてはならないものであるならば」
「“朝霧”という名は、偽名であると同時に──
何かを守る鍵かもしれません」
朝霧は、膝の上で手を握り締めた。
「自分が、何者なのかも分からない。
でも、あなた様の傍にいることで、ようやく居場所を感じていたのに……」
「それすらも、偽りかもしれないなんて」
雪乃宮は、そっと手を伸ばした。
朝霧の手の上に、優しく重ねる。
「あなたがどんな名前を持っていようと──」
「わたくしは、あなたを“朝霧”として愛しています」
「あなたが名を変えようと、姿が変わろうと」
「わたくしが出会った、あなたは“朝霧”です」
「それ以上でも、以下でもない」
朝霧の瞳が、潤む。
心の奥で凍っていた何かが、
ふわりと溶けていくようだった。
「……ありがとうございます」
「それを、あなた様に言っていただけるだけで──
わたしは、まだ立っていられます」
***
ふたり、肩を寄せ合って座った。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜる。
外では、風がうなりを上げていた。
誰かの足音が、遠くの小道を踏みしめる気配すらあった。
「──時間がないかもしれませんね」
雪乃宮の言葉に、朝霧が静かに頷く。
「ええ。わたしたちは、“過去”に追いつかれようとしている」
「でも、逃げるだけでは終わらせられません」
「この名の真実と、わたくしの血の由来を、
この手で確かめたいのです」
雪乃宮は、火を見つめたまま呟いた。
「ならば……“出発”ですね」
外は、夜。
けれどその闇の中に、
すでに新たな道がうっすらと開けていた。
ふたりは、確かに前へと進み始めていた。
過去を背負いながら、
それでも未来へ──
(続く)




