表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『花檻(はなおり)の契り ──大奥百合絵巻──』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/81

第二十九話 追手の影、蘇る名

 ──夜の帳が下りた。








 ふたりが身を寄せる山間の庵には、


 虫の声だけが静かに響いていた。








 薄暗い灯りの下で、


 雪乃宮は墨筆を握っていた。








 逃亡生活のなかでも、手紙や記録を綴る習慣だけは失わなかった。


 これは、決して誰かに宛てるためではなく、


 生きていた証を残すためのもの。








 けれど、今夜の筆先は止まっていた。








 墨が紙に滲み、


 それが彼女の胸のざわめきを映し出すようだった。








「……動いています」








 朝霧が、戸口の外から入ってきて、静かに告げた。








「町で、奇妙な言葉が囁かれているそうです」








 雪乃宮は顔を上げる。








「“白座敷の姫”──そう呼ばれていた存在が、


 生きていると」












 ***








 それは、


 確かに“あの座敷”の記憶と結びついた名だった。








 世間には存在しないはずの姫。


 将軍家の記録には書かれていない娘。




 だが、大奥の裏で噂され続けてきた“亡霊”のような存在。








 白い部屋に閉じ込められた、


 血の混じり合った子。




 紅梅局によって育てられ、


 いつか“大義のため”に使われるはずだった存在。








 雪乃宮──


 その名で呼ばれる前の“彼女”が、まさにそうだった。












「誰が、その噂を……?」








「確かな筋は分かりません。


 けれど、どうやら“大奥の古き派閥”がまた動き出したようです」








 朝霧は、腕に巻いた包帯を握りしめながら、顔を曇らせた。








 かつて雪乃宮を追い詰めた紅梅局の残党。


 その影が、再びふたりを包み始めていた。












 ***








「……それに、もうひとつ」








 朝霧は、ぽつりと呟いた。








「最近、わたし……自分の名前が、


 どこか“よそよそしく”感じられるのです」








「朝霧──この名を呼ばれるたび、


 胸の奥がざわついて……」








 雪乃宮は、静かに筆を置いた。








 そして、朝霧の方を向いて座り直す。








「……どういうことかしら」








 朝霧は、少し躊躇いながらも口を開いた。








「この名前は、母がつけたものだと聞いていました」








「でも、記録を見れば見るほど、


 どこにも“朝霧”という名の由来が見つからないのです」








「生まれた屋敷の記録には、幼名は“綾”と書かれていました。


 けれど、それがいつの間にか“朝霧”に……」








 雪乃宮の眉が、わずかに動いた。








「それは……隠すための“名”だった可能性がありますね」








「あなたの血筋が、何か……知られてはならないものであるならば」








「“朝霧”という名は、偽名であると同時に──


 何かを守る鍵かもしれません」












 朝霧は、膝の上で手を握り締めた。








「自分が、何者なのかも分からない。


 でも、あなた様の傍にいることで、ようやく居場所を感じていたのに……」








「それすらも、偽りかもしれないなんて」








 雪乃宮は、そっと手を伸ばした。


 朝霧の手の上に、優しく重ねる。








「あなたがどんな名前を持っていようと──」




「わたくしは、あなたを“朝霧”として愛しています」








「あなたが名を変えようと、姿が変わろうと」


「わたくしが出会った、あなたは“朝霧”です」








「それ以上でも、以下でもない」








 朝霧の瞳が、潤む。








 心の奥で凍っていた何かが、


 ふわりと溶けていくようだった。








「……ありがとうございます」








「それを、あなた様に言っていただけるだけで──


 わたしは、まだ立っていられます」












 ***








 ふたり、肩を寄せ合って座った。








 囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜる。








 外では、風がうなりを上げていた。


 誰かの足音が、遠くの小道を踏みしめる気配すらあった。








「──時間がないかもしれませんね」








 雪乃宮の言葉に、朝霧が静かに頷く。








「ええ。わたしたちは、“過去”に追いつかれようとしている」








「でも、逃げるだけでは終わらせられません」








「この名の真実と、わたくしの血の由来を、


 この手で確かめたいのです」












 雪乃宮は、火を見つめたまま呟いた。








「ならば……“出発”ですね」












 外は、夜。




 けれどその闇の中に、


 すでに新たな道がうっすらと開けていた。








 ふたりは、確かに前へと進み始めていた。








 過去を背負いながら、


 それでも未来へ──








(続く)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ