第二十一話 ふたり、逃走──夜の密行
夜。
町は、
まるで息を潜めるかのように静まり返っていた。
昼の喧騒は跡形もなく消え、
わずかな灯りが、細い路地をぼんやりと照らしている。
その静寂を破るように、
一陣の風が、乾いた砂埃を巻き上げた。
雪乃宮は、
朝霧の手を強く引き寄せた。
「──行きます」
低く、しかし震えひとつない声で、
静かに告げた。
朝霧は、何も言わなかった。
ただ、
雪乃宮の手を、ぎゅっと握り返した。
その指先に、
すべてを委ねるように。
***
──数刻前。
「今宵、動きます」
密かに告げられた言葉。
萩乃を通じ、
新たな刺客が差し向けられるという情報がもたらされた。
次に狙われるのは、
朝霧だ。
このままこの屋敷に留まれば、
確実に、命を落とす。
逃げるしかなかった。
夜の闇に紛れ、
すべてを捨て、
ふたりだけで、生き延びるしか──。
***
ふたりは、
わずかな荷を背負い、
そっと裏門から屋敷を抜け出した。
朝霧の手は、冷たく震えていた。
けれど、
雪乃宮の手が、しっかりと包み込んでくれる。
(怖くない)
(この人と一緒なら──)
月もない夜だった。
ただ、漆黒の闇だけが支配している。
小さな草履の音。
衣擦れの微かな響き。
ひとたびでも気取られれば、
すぐに見つかる。
けれど、
ふたりは黙ったまま、息を殺して走った。
古い石畳を踏みしめ、
狭い路地を抜ける。
ふと、背後で人影が動いた気配がして、
朝霧はびくりと肩を震わせた。
すぐさま雪乃宮が、
そっと彼女を抱き寄せる。
「だいじょうぶ」
「わたくしが、守ります」
低く、温かい囁き。
それだけで、
朝霧は、また走り出す力を得た。
どこまでも、
この人となら。
どこへでも、
一緒に。
***
市場の裏通りを抜け、
古びた橋の下を潜り抜ける。
昼間は賑わうはずの場所も、
今はただの、暗く冷たい影の迷路だった。
雪乃宮の掌は、
少し汗ばんでいた。
それは、
彼女が恐れている証だった。
けれど、
決して、朝霧の手を離さなかった。
どれほどの恐怖が押し寄せようとも。
どれほど絶望が牙を剥こうとも。
ふたりは、
互いを離さなかった。
「──どこへでも……あなたとなら」
息を切らしながら、
朝霧がぽつりと呟いた。
その言葉は、
闇の中で、
ひときわ鮮やかに光った。
雪乃宮は、
足を止め、
朝霧を振り返った。
そして、
小さな微笑みを浮かべた。
「わたくしもです」
「あなたとなら──」
「この先、どれほどの闇が待ち受けていようとも」
「生きていける」
ふたりは、
そっと額を寄せた。
暗闇の中で、
ふたつの鼓動が重なる。
世界中のすべてが敵になろうとも、
この絆だけは、誰にも裂けはしない。
***
やがて、
小さな廃寺に辿り着いた。
人気のない、
ひっそりとした古寺。
朽ちかけた木の扉を押し開け、
ふたり、そっと中に身を滑り込ませた。
月明かりも届かない、
真っ暗な本堂。
だが、
それでも──
朝霧は、怖くなかった。
雪乃宮の手の温もりだけが、
すべてだった。
ふたりは、
肩を寄せ合いながら、
静かに息を整えた。
心臓の音が、
夜の闇に、静かに溶けていく。
「──お疲れさまでした、朝霧」
雪乃宮が、
優しく囁いた。
朝霧は、
小さく首を振った。
「わたしは……まだ、何も……」
悔しさに震える声。
何もできなかった自分が、
ただ、雪乃宮に守られてばかりの自分が、
悔しくて、苦しくて。
けれど──
雪乃宮は、
そんな朝霧を、
ぎゅっと抱きしめた。
「いいえ」
「あなたが、
わたくしのそばにいてくれるだけで──」
「わたくしは、戦えます」
朝霧の頬に、
雪乃宮の涙が落ちた。
温かい、涙だった。
互いを、
すべてで支え合う。
それだけが、
ふたりに残された最後の強さだった。
夜は、まだ深い。
これから待ち受ける困難は、
想像もできないほど過酷なものだろう。
けれど──
ふたりは、もう迷わなかった。
どこまでも、
ふたりで。
手を取り合って、
生き抜いていく。
どんな闇の中でも、
たったひとつの光となって。
(続く)




