第一話 春の檻へ──少女、出仕す
桜の花が、舞っていた。
春の陽はやわらかに、しかしどこか残酷なまでに冷たく、朝霧の頬を撫でる。
小さな輿に乗せられ、江戸城の奥深くへと運ばれていく。
きしむ駕籠の音。
ぎしぎしと揺れるたび、朝霧の胸の奥で、不安が膨らんだ。
「──ここで、すべてが決まるのだ」
袖に包んだ指先が、わずかに震えている。
それを悟られぬよう、朝霧はぐっと目を閉じた。
出仕の朝。
屋敷の門で、母はこう告げた。
「……いいことを、お教えしましょうか」
細い指で、朝霧の顎をすっと持ち上げ、母は微笑んだ。
その笑みには、微塵も情がなかった。
「ここでは、正しさも、優しさも無力。
踏み台にできぬ者は、踏み潰される。
どんな手を使っても、上へ行きなさい。
それが、あんたの役目なのだから」
朝霧は、答えられなかった。
ただ、黙って頭を下げ、母の前を離れた。
それが、この家に生まれた娘に許された、唯一の抵抗だった。
やがて、駕籠が止まる。
「着いたぞ」
無愛想な声とともに、駕籠の戸が開かれる。
眩い光が、雪のように降り注いだ。
朝霧は、ぎゅっと胸を押さえる。
目の前にそびえ立つのは、巨大な黒塀。
その向こうに、江戸城の奥、さらには女人たちだけの城――大奥が広がっている。
桜吹雪の中、黒々とした門が、まるで魔物の口のように開かれていた。
あそこから一歩足を踏み入れれば、もう、後戻りはできない。
「朝霧、十六歳――これより、大奥へ参上仕ります」
小さな声で、そう呟く。
喉が、乾く。
心臓が、痛いほど打ち鳴らす。
それでも、逃げる道などない。
家のため。
生き延びるため。
そして、まだ知らぬ誰かのために。
朝霧は、一歩、門の中へと足を踏み入れた。
重い、重い門が、きぃ、と軋みながら閉じられる。
春の光に包まれているのに、
なぜだろう、世界はこんなにも、暗かった。
(続く)