第十六話 ふたり、夜桜に誓う
追放の沙汰が下った夜。
大奥は、異様なほど静まり返っていた。
宴もなければ、囁き声すらない。
ただ、冷えた夜気が、無言の別れを告げるように広がっていた。
雪乃宮が去るということ。
それは、大奥の「異物」が消えるということだった。
それを喜ぶ者も、悲しむ者も──もう誰も表には出さなかった。
だが。
朝霧だけは違った。
たった一人、
必死に、
願っていた。
(まだ……終わりじゃない)
***
夜更け。
朝霧は、雪乃宮との最後の密会に向かっていた。
誰にも見つからぬよう、音を立てずに歩く。
足袋が夜露を含んだ砂利を踏みしめるたび、胸が痛んだ。
廊下を抜け、裏庭へ。
そして──
そこには、雪乃宮がいた。
夜空に舞う、満開の桜吹雪の中で。
淡い小袖を纏い、
まるでこの世のものとは思えぬほど美しく、静かに立っていた。
月明かりが、
その白い肌を照らす。
風が、髪をそっと撫でる。
朝霧は、息を呑んだ。
ただ、見惚れてしまった。
このひとを、
こんなにも、愛している──。
「……来てくれたのですね」
雪乃宮が、微笑んだ。
その笑みは、
悲しみと喜びを、同時に孕んでいた。
朝霧は、何も言わず、
ただ、駆け寄った。
その細い身体を、ぎゅっと抱きしめた。
「雪乃宮様……」
声が震える。
涙が、滲む。
だけど、
今だけは、泣きたくなかった。
この大切な夜を、
涙で曇らせたくなかった。
雪乃宮は、そっと朝霧の髪に手を伸ばし、
優しく撫でた。
指先が、震えていた。
それを感じて、朝霧の胸が、締め付けられた。
「朝霧」
耳元で、柔らかな声が囁く。
「あなたと出会えて、
わたくしは、本当に……幸せでした」
頬に、雪乃宮の温もりが触れる。
「でも、これからは──」
「違います」
朝霧は、顔を上げた。
涙に濡れた瞳で、まっすぐに雪乃宮を見つめた。
「これからも、です」
「これからも、わたくしは……
雪乃宮様と、生きていきます」
桜吹雪が、ふたりの間を舞った。
柔らかな花びらが、
雪乃宮の肩に、朝霧の髪に、静かに降り積もる。
「たとえ世界が敵でも」
朝霧は、ふるえる手で、雪乃宮の手を握った。
「あなたとなら、
どこまでも、生きていけます」
雪乃宮は、
一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、
ゆっくりと、微笑んだ。
「……朝霧」
その名を、愛おしげに呼ぶ声。
たったそれだけで、
すべてが救われた気がした。
「わたくしも」
雪乃宮は、朝霧の手をぎゅっと握り返した。
「どこまでも、あなたと」
「たとえ、どれほどの闇が待っていようとも」
「あなたとなら」
「生きていける」
ふたりは、
額を寄せ合った。
呼吸が、重なる。
心音が、響き合う。
もう、
誰にも引き裂くことはできない。
夜桜が、
ふたりを包んでいた。
淡い花びらの雨の中で、
ふたりは静かに、
未来への契りを交わした。
涙と、笑顔と。
すべてを込めて。
***
その翌朝。
雪乃宮は、
大奥を、去った。
朝霧は、ただ静かに、
その背中を見送った。
けれど、
心は泣かなかった。
別れではない。
終わりではない。
これは、始まりだ。
(必ず……また、会える)
(必ず……)
朝霧は、胸に手を当て、
堅く誓った。
どんな苦難も、
どんな陰謀も、
ふたりで乗り越えていく。
この命を賭しても。
──そして、運命の歯車は回り始める。




