第十二話 花に潜む刃
薄曇りの空に、雨の匂いが漂っていた。
春とはいえ、今日の大奥には重苦しい空気が満ちている。
何かが起こる。
そんな予感を、朝霧は拭えなかった。
(雪乃宮様……)
思えば、あの夜以来だった。
雪乃宮が、どこか遠くに感じられるようになったのは。
優しく微笑んではいる。
声も変わらない。
けれど──心の奥で、何かを隠している。
(わたしは、何もできていない……)
拳を握る。
ふたりで誓ったはずだった。
互いを支え合うと。
それなのに──自分は、何ひとつ。
そんな焦燥を抱えたまま、朝霧は今日も雪乃宮の身の回りを世話していた。
その昼下がり。
事件は、起こった。
***
「──雪乃宮様、どうぞお召し上がりくださいませ」
女中が丁寧に盆を運び入れた。
その上には、色とりどりの干菓子と、春の茶。
香ばしい焙じ茶の香りが部屋に満ち、
どこか緊張を解くような温もりを運んでくる。
雪乃宮は、にこやかに盆を受け取り、
菓子にそっと手を伸ばしかけた──その瞬間。
がさり、と。
敷かれた畳が、わずかに沈んだ。
(──違和感)
雪乃宮は、微かに眉を寄せた。
同時に、朝霧も、その異様な気配を感じ取った。
次の瞬間。
雪乃宮の袖が滑り、
用意された茶碗が、派手に床に叩きつけられた。
ぱりん、という乾いた音と、
飛び散る欠片。
そして──
割れた茶碗の中から、
異様な色をした粉末がこぼれ落ちた。
毒。
間違いない。
朝霧は、血の気が引くのを感じた。
雪乃宮も、すぐに察したらしい。
だが、彼女は取り乱さず、ただ静かに立ち上がった。
その直後だった。
「毒だぞ!」 「雪乃宮様を──誰か、誰か毒を!」
廊下に控えていた女中たちが、蜘蛛の子を散らすように騒ぎ出す。
あっという間に、周囲は騒然となった。
そして、
次に、誰かが叫んだ。
「──あれを運んだのは、朝霧だ!」
***
(わたしが──?)
茫然とする間もなかった。
気づけば、朝霧は女中たちに取り囲まれていた。
「何をした!」 「裏切り者!」
罵声が飛び交う。
腕を掴まれ、乱暴に引き倒される。
抗うこともできなかった。
ただ、
ただ、思った。
(雪乃宮様が──)
そのとき。
「やめなさい」
凛とした声が、広間を貫いた。
朝霧を取り囲んでいた女たちが、息を呑む。
見ると、
雪乃宮が、静かに朝霧のもとへ歩み寄ってきていた。
白い小袖に、
月明かりのような冷たい気配を纏って。
「この者は、わたくしの人間です」
一言。
ただ、それだけ。
だが、
その言葉には、
何よりも重い力が宿っていた。
女たちがざわめき、
一歩、二歩と後ずさる。
雪乃宮は、
しゃがみ込んだ朝霧の前に跪き、
そっと手を差し伸べた。
朝霧は、
その白い手を、
震える指で掴んだ。
(助けてくださった……また)
瞳の奥が、熱くなる。
でも、今は泣いてはいけない。
必死に涙をこらえ、朝霧は立ち上がった。
雪乃宮は、誰にも言い訳をせず、
誰の非難も恐れず、
ただ、朝霧を抱き寄せた。
「大丈夫」
耳元で、
微かな囁き。
それだけで、
世界が、
たったひとつの確かなものになった。
***
その夜、
朝霧はひとり、
狭い部屋の片隅で、膝を抱えていた。
なぜ、自分だったのか。
なぜ、あんな罠にかけられたのか。
そして──
なぜ、雪乃宮様は、そこまでして自分を守ってくれたのか。
答えは、わからなかった。
ただ、確かなことが一つだけあった。
(今度こそ……わたしが守る)
強く、強く心に誓った。
愛している。
憧れている。
憐れんでいる。
救われたいと願っている。
そんな薄い感情ではない。
もっと、
もっと深い、
命そのものを差し出しても惜しくない──
そんな想いを、
朝霧は、静かに抱きしめた。
冷たい月明かりの下で。
(続く)




