第九話 薔薇の棘──新たなる脅威
春が深まるにつれ、
大奥の空気は、どこか異様な緊張に満ち始めていた。
桜が散り、新緑が萌え、
表向きは穏やかな季節の移ろい。
けれど、朝霧にはわかっていた。
肌を刺すこの空気は、季節のものではない。
新たな「何か」が、確実に動き出している。
「雪乃宮様、そろそろ……お戻りになりませぬか」
廊下の隅で、ひそやかな声が漏れる。
立ち話をしていた上臈方たちが、朝霧に気づくと、ぱたりと口を閉ざした。
代わりに、意味深な笑みだけを残して散っていく。
(……何かがおかしい)
朝霧は、胸の奥でざわめく不安を振り払うように、足を速めた。
その夜。
雪乃宮の部屋に、御年寄の使者が現れた。
「紅梅局様が、雪乃宮様にお目通りを仰せつけられました」
紅梅局。
聞いた瞬間、朝霧の背筋に冷たいものが走った。
大奥において、事実上の女帝とも呼ばれる存在。
将軍の生母筋──つまり、徳川家に連なる血を持つ女人であり、
今や大奥内で誰も逆らえぬ権威を握っている。
その紅梅局が、雪乃宮を──
いや、雪乃宮と行動を共にする朝霧を、明確に「目に留めた」のだ。
(なぜ、いま──)
答えは、すぐにわかった。
雪乃宮の存在は、あまりに美しく、清らかだった。
それゆえに、大奥の暗い欲望と策謀の中で、異物だった。
目立つ者は、叩かれる。
純粋な者は、踏みにじられる。
それが、この世界の掟だった。
雪乃宮は、静かに微笑んだ。
「参りましょう、朝霧」
朝霧は、息を呑んだ。
自分まで同行を許されたのは、
雪乃宮の計らいだとすぐに悟った。
孤独な戦いに、一人で向かわせまいと──。
けれど、
その背に漂う気配は、どこか儚かった。
まるで、折れかけた枝を、無理に支えるような。
(わたくしが……守らなければ)
小さく、胸の中で誓う。
たとえ、
この命が砕けようとも。
この人を、一人にはさせない。
ふたり、肩を並べて、
夜の奥深くへと、静かに歩き出した。
待ち受けるのは、
紅梅局という名の、
血より濃い「棘」だった。
(続く)




