プロローグ ──華の檻にて
桜の花が散る音を、わたくしは初めて聞いた。
人目を忍ぶ裏庭。
枝を滑り落ちる花弁が、敷石に触れるたびに、かすかに「はらり」と鳴った。
春とは、これほどまでに静かで、恐ろしいものだっただろうか。
ここは大奥。
徳川の世を支える、数千にも及ぶ女人たちの城。
男を遠ざけ、女のみが君臨する、絢爛と欲望と策略のるつぼ。
生まれた身分など、もう意味をなさない。
美しさも、才覚も、時には命さえ、踏み台にする。
微笑みながら、刺す。
撫でながら、貶める。
唇を重ねながら、裏切る。
そんな世界で、わたくしは彼女に出会った。
あの方は、まるで月のようだった。
誰にも手の届かぬ、淡く、清く、それでいて底知れぬ影を孕んだ、月の姫。
初めて目にしたそのとき、わたくしは知った。
――ああ、この人を愛してしまうのだと。
たとえ、
この身が塵と消えようとも。
たとえ、
血と涙にまみれることになろうとも。
「わたくしは、あなた様のために生きます」
花の檻の中で。
嘘と毒と、愛と裏切りが渦巻くこの牢獄で。
わたくしたちは、
互いを抱きしめながら、
ゆっくりと堕ちていく。
やがて、誰も知らぬ歴史の裏側に、
ひとしずくの恋の痕跡を残すために──。