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斜陽島に響く音

潮風に混じる、低く唸るような機械音が絶えず響いている。金属の擦れる音、蒸気の吹き出す音、どこかで響く警告のベル。それらはすべて、この島の日常の一部だった。


島の名は斜陽島。コンクリートの建物が無秩序に積み重なり、ささくれ立った鉄骨がむき出しになった工場群が視界を埋め尽くしている。空は鉛色に曇り、風は潮の匂いと煤煙を運ぶ。ここでは、日差しさえも鈍く霞んでいた。


瞳子は、あもの神社の一人娘だ。制服のセーラー服の上から潮風を受けながら、坂道を登る。背筋を伸ばし、足元に気をつけながら歩くのは、彼女の生来の性格と、幼いころから神社で仕込まれた所作の名残だった。


しかし、そんな彼女が向かう先は、決して清らかな場所ではない。


斜陽寮。

剥き出しのコンクリート壁は黒ずみ、建物全体が沈み込むように傾いている。上階へ続く階段には古びた木の足場が無造作に組まれ、それらは全て、かつてここに住んだ者たちが「自分たちのために」作ったものだった。昔は手すりさえなく、転落すれば助かる見込みのない造りだったという。


この寮の最上階に、千佳子が住んでいる。


「おーい、とうこー!」


上から響く声に、瞳子は顔を上げた。


裸足のまま、手すりに腰掛けるようにして、千佳子がこちらを見下ろしていた。制服はきちんと着ているが、その下に何も着ていないことは、瞳子にはもう分かりきっていた。


「そんなとこで何やってるの!」


「別にー。風が気持ちいいなーって思って」


千佳子は笑い、ひょいと立ち上がる。見ているだけで冷や汗が出そうなその動作に、瞳子は言葉を失う。千佳子が何を考えているのか、本当のところは分からない。けれど、彼女の軽薄な笑顔の奥に、何かが隠されているような気がしてならなかった。


「ほら、行こうぜー。遅刻だぞー!」


「……千佳子が言う?」


「私は毎日遅刻してるから、ちょっとくらい変わんない!」


千佳子は気にした様子もなく、寮の階段を駆け下りていく。瞳子はため息をつき、彼女の背を追いかけた。


——この島では、卒業できなければ、生きる道は一つしかない。

それを思えば、千佳子の奔放さは、ただの気まぐれではないのかもしれない。


二人の背後で、斜陽島の工場群が再び呻るような音を立てていた。



瞳子と千佳子が学校へ向かう道、かみした通りは相変わらずの混雑だった。

狭い路地に市場が広がり、干物や野菜を売る声が飛び交う。油にまみれた作業服の男たちが酒瓶を片手に座り込み、顔をすすで汚した子どもたちが走り回る。その頭上には、錆びついたパイプが無数に交差し、空を分断している。


「瞳子、手、つなごうぜ」


千佳子が自然に手を伸ばしてくる。彼女の手は驚くほどひんやりしていた。裸足のせいだろうか、それとも——。


「なんで?」


「迷子にならないように」


「……ならないよ」


瞳子は口を尖らせながらも、千佳子の手を振り払えなかった。

繊細な指先が触れるたび、心臓が不規則なリズムを刻む。千佳子にとっては、ただの気まぐれなのかもしれない。けれど、瞳子にとっては、この島の雑踏の中で、ほんの一瞬だけ二人だけの世界に閉じ込められるような——そんな錯覚を抱かせる、特別なものだった。


「それに、ちょっとくらい人目を気にしないと」


瞳子の言葉に千佳子が笑う。


彼女はこの島で孤立していた。誰も直接口にはしないが、彼女の周囲にできる自然な空白が、それを物語っている。


「気にしてないけど?」


「本当に?」


瞳子はふと立ち止まる。千佳子の顔を覗き込むと、彼女は困ったように笑っていた。


「おまえは時々、変なところで意地が悪いよな」


「そうかな?」


千佳子は答えず、もう一度手を引く。そしてそのまま駆け出した。


「ほら、遅刻するって!」


瞳子は心の奥に絡みつく得体の知れない感情を振り払うように、千佳子の背を追いかけた。


イガケ校の7階。


この島で高校に通うのは瞳子と千佳子の二人だけ。


学校の教室は、まるで倉庫だった。木製の学習机の隣には工具が置かれ、体育の備品も山積みになっている。壁際には昔の生徒が使っていたらしい錆びた椅子が積まれ、窓の隙間からは風が吹き抜けていた。


「今日も、授業ないの?」


「ないなぁ。ま、どうせいつものことだろ?」


千佳子は椅子に座ると、そのまま机に突っ伏してしまう。


「……ちょっとは勉強すればいいのに」


「瞳子が教えてくれるなら、やるかも?」


「……はいはい」


瞳子はため息をつきながらも、ノートを広げる。


千佳子の隣に座ると、彼女の髪が揺れて、かすかに潮の匂いがした。寝転がる千佳子の横顔は穏やかで、いつもより幼く見える。


瞳子はふと、その頬に触れたくなる衝動に駆られる。


——触れたら、どうなるのだろう。


そんなことを考える自分に驚き、慌てて視線を落とす。


「瞳子、赤くなってない?」


「な、なってない!」


「ふーん?」


千佳子は目を細め、何かを悟ったように微笑んだ。


瞳子は顔を背け、ノートに意識を集中させる。けれど、指先に残る千佳子の体温が、どうしようもなく心を乱していた。



その日の夜。


瞳子は神社の奥、住居として使われている広い和室で、ゆっくりと髪をほどいた。


家では和服を着るのが習慣になっている。白い襦袢に袖を通し、帯を締める。すると、学校とは違う自分に変わるような気がする。


千佳子のことを考える。


——好き。


その一言を、声に出せたことはない。


けれど、隠しきれてはいない気がする。


その時、障子の向こうで微かな気配がした。


「端島さん?」


「……違うよ」


かすれた声が返ってくる。胸が高鳴る。


瞳子がそっと襖を開けると、そこにいたのは——。


千佳子だった。


「あのさ、ちょっと話せる?」


月明かりに照らされた千佳子の表情は、いつもの能天気なものではなかった。


まるで、この島の夜のように。


暗く、深く、何かを隠しているような——そんな表情だった。

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