31. 夏子の戸籍
(夏子の戸籍)
月曜日……、……
朝早く、夏子を連れて、東京のアパートに行く……
管理会社に連絡して、実家に帰ることを告げた。
当たり前なのだが、部屋は山へ出て行った時のままだった。大学時代、ファストフード時代、九年いた割には綺麗だと思った。
「……、九年か……、あれから……」
長いようで、短い、日々の暮らしが目に浮かぶ……
「……、何やっていたんだろう……」
感傷に浸っている場合じゃない。荷物をまとめて引越しだ。
荷物は思ったより多かった。細々した物があちらこちらに転がっている。
九年間いた割には、少ない方だと思う。
夏子も、段ボールに細々した物を詰めてくれた。
午後から、宅配の単身引越しパックが届いて、荷物を送り出した。
「さー、帰ろう……」
便利な都会の生活ともお別れだ……
空を埋め尽くす高層ビルも、イルミネーションの風景も僕には似合わない。
役所に行って、転出届……
「三年間しかいませんでしたが……、実家に帰るんです」
係の人に言わなくても良いことを言った。
新しい生活への決意表明だ。
「……、お子さんですか?」
その言葉にハッとした。夏子の戸籍がない。
何故、もっと早く気がつかなかっただろう。
「……、いえ、……、いえ、……」
言葉を濁して、その場から消えた……
実家への帰り道、車窓から流れる風景は、何一つ目に入らなかった。
「こんな紙切れに何の意味があるんだ。夏子はここに存在して生きている。それだけでいいじゃないか……」
でも、戸籍が無ければ、この世界では生きていけない。
「いや……、世界では、戸籍がない国の方が多いはず……、四角四面に拘る日本の方が可笑しいのだ!」
今更そんなことを言ってもしょうがない。
「帰ったら、夏子の戸籍を作ろう……」
夏子が生まれた日、季節の無い異世界で、何月だったか分からない……
それに、一か月も経たないうちに、食べて、歩いて、話すなんて有り得ない。
夏子の歳は幾つですかと訊かれても、「まだ一か月なんですよ」と言っても誰も信じないし、自分の正気を疑われる。
「夏子……、幾つになった……?」
「何、それ……、……?」
「年齢だよ……、人は生まれて一年経つと一つ歳を取るんだ」
「ととさんは幾つなの……?」
「俺か……、二十八才かな……」
「じゃー、私も二十八才でいいわ……」
「いや、夏子は生まれたばかりだから、二十八才じゃ可笑しいよ」
「それなら、幾つがいいの……?」
「そうだなー、十才くらいかな……、……」
「じゃー、十才でいいわ……」
「……、いや……、十才じゃー可笑しいな?俺が十八の時の子供になる。ちょっと早いな……、せめて二十歳くらいでないと……」
「いい加減なのね……、……」
夏子にまで言われてしまった。
「そうなんだ……、この世の中、どうでもいい事で溢れているよ。そんなどうでもいい事なんだけど、八才でいいかな……?」
「もちろん、いいわよ、八才ね……」
夏子は、年齢の意味を分かっているのだろうか?
そうだよな……、夏子がいうように、年齢なんか、どうでもいい事なんだよな。
一年づつ年を数えた年齢が、その人の年齢とは限らない。運動も健康も気にしないで、好き勝手なことをして、ぐうたらしてきた人が、老化が加速する五十歳代、気がついてみると筋肉は痩せ細り、血管はボロボロな八十歳くらいの心体なのかも知れない。
それに比べて、運動もし健康にも気をつけて、貯筋に若返り法など努力してきた人は、まだ三十歳代の若さの持ち主かも知れない。
年齢とは、人それぞれの相対的な人生の縮図であり生活習慣の結果なのだ。
そうしてみると夏子は、もうすでに幼児を超えている。
「誕生日は、いつにしようか……?」
「……、誕生日って?」
「生まれた日のことだよ……」
「覚えているわけないじゃん!」
「……、そうだな……、夏子だから、5月5日にしよう。立夏の日だ。夏子の始まりの日だ……」
これで、役所に届出をだそう……
実家に着いたのは、夕方だった。
お店はまだ、営業中だ。
「暇そうだね……」
「さっきまで、忙しかったよ!遅かったね……」
母が嬉しそうに言う。
「引越しだから、色々あるんだよ。明日は手伝うから……」
それだけ言うと、玄関に急いだ。この時間なら姉貴が帰っているはず、子供の時から難しい相談事は、母より姉貴に相談していた。両親はもちろん、お店で働いていたので、普段は近寄りがたく、子供心にも面倒を掛けてはいけないと思っていた。
その代わりに姉貴が、いつも僕の面倒を見てくれていた。その頃は、姉貴に張り付いていて、まるで子分のように扱われていた。つまり、使いっ走りの子分だ。でも、それが嬉しかった。
二階に上がり、姉貴の部屋のドアをノックした。
返事がなかった。それでも、ドアを開けて中に入った。姉貴はもこもこのパジャマセットを着てベッドで寝ていた。
夏子は、寝ている姉貴を見るなり、ベッドに飛び乗った。
「お乳……、お乳……」
夏子は、姉貴の横に寝るとパジャマの裾を捲り上げ、乳房にしゃぶりついた。ブラジャーは着けていなかった。
「……、なっちゃん帰ってきたの?」
姉貴は、まだ半分眠っている様子で夏子を抱き寄せ、体を横に向けて腕枕をして乳を飲ませた。乳が出るわけでもないが……
「……、お姉ちゃん、……、相談があるんだけど……」
思いっきり甘い声で迫った。
「……、なーにー、あんたもお乳が欲しいの……?」
おいおい、まるで夕顔さんのようなことを言う。
姉貴は夏子を抱いて、目を瞑って寝ている。
「今日、役所に行って気づいたんだけど、……、夏子の戸籍が無いんだ。山の上のお寺だったし、彼女はいなくなるし、後は山の上の日々の暮らしに追われて、役所に行くのを忘れていた……」
「……、えー、そんなバカなことはないでしょう。奥さんが出しているわよ……、何処の病院で生まれたの……?」
「……、それが、病院ではなくお寺で、そこにいたお婆さんが取り上げてくれたんだ……」
「じゃー、そのお婆さんはどうしたの……?」
「……、彼女と一緒にいなくなった」
嘘は言っていない。これも本当のことなんだ。
「じゃー、夏子はどうするのよ……」
「……、どうすればいい……?」
「……、えー、分からないわ……、机の上にパソコンがあるでしょう……、調べてみなさいよ……」
姉貴は相変わらず寝たまま、上の空で答えている。
「……、そうだ、忘れていた。ネットで検索すれば良いんだ。僕と同じようなケースはあるはずだ」
早速、姉貴のパソコンは使わず、机の前の椅子に座って、自分のスマホで検索してみた。




