2. もう一度、帰り道
(もう一度、帰り道)
あたりが、少し明るくなった頃、僕はまた重いリュックを背負って、来た道を戻ることにした……
裸の彼女にお礼を言いたかったが、あれから彼女は何処にもいない……
それより、この森を抜けるのが先だと、荷物をまとめた……
大きな大きな楢木にお別れの挨拶をして、来た道を戻った……
昨日は、黄昏ていてよく見えなかった道も、今日は、はっきり見える……
そして、また深い森の中……、そして、少し開た峠道……、遠くの山がよく見える……、そしてまた森の中……
歩いている道は、昨日と同じ峠道のはず……、それが証拠には、人が踏み固めた道筋が見える……
昨日、道を間違えたと気付いたのは、午後4時ごろだった……、だから、そろそろ、下山コースに戻っていいはず……
しかし、周りは深い森の中……、それを抜けると、峠道が続く……、峠道は、背丈ほどある葦や熊笹で覆われている……
お昼近くになって、お腹が空いた……
少し開けた見晴らしの良いところで、リュックを置いて、座り込む……
昨日の玄米でもいいから、おにぎりにして持ってくればよかったと、後悔……
それでも、水筒の水を飲んで、また歩く……
更に1時間、2時間……、歩く……、歩く……
道筋の無い深い森の中や雪原の中に迷い込むと、同じ所をぐるぐる回ると言う……、いわゆる、リングワンダリングだ……
でも、僕は違う……、峠の道筋のある道をひたすら歩いている……、だから必ず到達する場所があるはずだ……、いつか必ず尾根を下って街に出る……
しかし、更に1時間、2時間……、歩く……、歩く……
深い森の中……、また夕暮れ時が迫って来ている……
そんな時……、見慣れた風景が見えて来た……
あの大樹だ……、そして、その奥に大きなお寺……
戻って来たんだ……
そんな事は、ありえない……、同じ道を戻って帰るはずだった……
まるで、お椀の淵を回っていただけなのか……、狐か狸に化かされているのか……
僕は、一人で笑った……
そして、彼女の言葉を思い出した……
「この街からは、出られないのよ……」
これが……、異世界と言うものか……
僕は、また一人で笑った……
「……、いいじゃないか……、出られないのなら、ここで暮らしても……、……」
そうさ……、最初っから、下界には何の未練もないさ……
僕は、昨日の彼女の家に向かった……
「……、あった……、異世界と言うのに、律儀にもちゃんと僕を待っていてくれたのか……、……」
でも、裸の彼女はいなかった……
「……、それでもいいや……、とりあえず、ご飯だ……」
僕は、庇にリュックを置くと、昨日の台所に向かった……
「……、調味料は無いのか……? 塩か味噌くらいあるだろう……?」
床のほぼ真ん中あたりに囲炉裏があり、その側の瓶を覗くと塩があった……
「……、これで、ご飯が美味しく食べられる……」
土間には、竈があり、お釜が据えてあった……
「……、これも使えそうだ……」
僕は、もう一度リュックの所まで戻って、コッフェルとライターを出して、また台所に戻った……
「……、今日はお釜で玄米を炊こう……」
ご飯が食べられると思うと、少し元気が出て来た……
昨日のように、臼と杵で玄米を5分つきくらいには仕上げた……
裏口の横にあった手桶を持って井戸に水を汲み、お釜に玄米を入れ水で浸した……
それから、竈に火を入れ薪を焚べた……
アウトドアー派の自分にとって、得意の作業だ……
昨日の山芋は、味がなかった……
「……、もう少し、美味しいものは無いのか……」
「大豆か、何か豆とか……、……」
あたりかまわず、瓶やお櫃の蓋を開けて回った……
「……、あった……、小豆だ……」
これは嬉しい……、小豆ご飯にしよう……
僕は、囲炉裏にも火を入れて鍋をかけ、小豆を茹でた……
いつの間にか、陽は落ちて、竈の火と囲炉裏の火が眩しく見える……
そう言えば、ヘッドランプは、まだリュックの中だ……
そんな時、渡殿の方から灯りが進んでくるのが見えた……
「帰っていらしたのね……、……」
「……、そう……、君が言ったように、この村からは出られなかった……」
「和尚さんが言っていたわ……、この村は呪われているって……、……」
「……、そう……、やっぱしね……、……」
「灯りを持って来たわ……、……」
「囲炉裏の火で、少しは明るいけどね……、でも、ありがとう……」
彼女は、高灯台に火を移した……
「……、今日は着物を着ているんだね……」
「あなたが、着た方がいいって言うから、一枚白小袖を着てみたのよ……、昔、寝る時に着ていたから……」
「……、そうなんだ……、よく似合っているよ……」
「よかったわ……、気に入ってくれて……、……」
「……、君もご飯……、食べるかい……? もうじきできるけど……」
「私……、食べたことないのよ……」
「……、そう言っていたね……、でも一度、食べてみたら……? 月見草の花よりもいいかもしれないよ……、小豆と玄米だけどね……」
彼女は、囲炉裏を囲って、僕の横に座った……
彼女が座ると、はだけた小袖の裾の間が気に掛かってしまう……
そう思って、目線を上げると、彼女の襟元もはだけて膨らんだ胸元が囲炉裏の灯りに赤く幽玄に照らし出されている……
昨日の裸の彼女よりも、ムラムラしてしまう……
僕は気持ちを抑えようと、ご飯の炊き方の唄を口ずさみながら、竈の様子を見に立った……
「……、初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな、極めつけは火をひいて、蒸らしてご飯の出来上がり……」
お釜からは、湯気が盛んに上がり、炊き上がりの直近を知らせていた……
僕は竈から火のついた薪をかき出した……
暗い土間に火の粉が花火のように舞った……
「……、あと少し……、ご飯、蒸らしているから……」
僕は、もう一度囲炉裏に戻って、鍋の小豆をかき混ぜた……
「……、そう言えば、君の名前を訊いてなかったよね……」
「名前なんか無いわ……、誰も私には近づかないから……」
「……、でも、こうして一つ屋根の下で暮らしていると不便だから、名前を付けよう……」
「何でもいいわ……、村の人は月見草の化け物って呼んでるわ……」
「……、それも、酷いね……、じゃー、月見ちゃんでいいかな……?」
「もちろん、いいわ……、貴方は、蒼ね……」
「……、覚えてくれていたんだね……」
「そうね……、この村に来る人は珍しいから……」
「……、何の因果か来てしまったよ……、さー、ご飯を食べよう……」
僕は、お釜さら持って来て、囲炉裏の淵に置いた……
見回すと、土間の上り口の床の上に木箱があり、その中に信楽焼風の茶碗と木のお椀や箸なども入っていた……
それを木箱さら持って来て、月見に茶碗と箸を渡した……
お釜のご飯の半分を小豆の入ったお鍋の中に入れて、塩で味付けをした……
「……、小豆粥だ……、……」
考えれば、昨日から粥ばかりだ……
でも、今日の小豆粥は、塩味で美味しい……
僕は、月見の茶碗にも小豆粥をよそってやった……
「……、食べてごらん……、美味しいよ……」
月見は恐る恐る箸で口に運んだ……
「……、美味しいだろう……?」
月見は怪訝な顔で僕を見る……
「美味しいの……? 分からないわ……」
「……、そうかな……? 僕は美味しいと思うけど……、お粥なんか、こんな物だよ……」
それでも月見は、茶碗のお粥を全て食べ終えた……
僕は、もう一杯、小豆粥を茶碗によそって食べた……
静かな夜だった……、時よりパチパチと薪の爆ぜる音がする……
薄暗い台所と囲炉裏の赤い火……
僕の右横には、白小袖を着た月見がいる……
こんな夜も……、いいな……