1. 迷い道と大樹
(迷い道と大樹)
何処で道を間違えたのか分からない……
きっと道標を見落としてしまったのだろう……
もうじき、日が暮れる……、満月が大きく東の空の山際に見える……
このまま、麓に辿り着けなかったら、野宿しかない……
原生林が生い茂る森、ここは何処だろう……
峠道を進んできたのに、そこから麓に下る道がない……、まるで、伏せたお椀の上をぐるぐる回っているようだ……
テントを背負って登山に来ているのだから、道端で野宿する事は容易い……、でも、食糧と水がない……
川の音も聞こえてこない……
このまま、この森に飲み込まれて、出られなければ、野垂れ死ぬのか……
富士の青木ヶ原の樹海を思い浮かべてしまう……
少し開けた所に出た……
「……、疲れた……、もう、いいかな……、……」
そこには、あたりの木々とは違う、ひときわ大きな大樹があった……
「……、屋久杉か……? でも、ここは屋久島じゃーない……、何て大きな木だ……、……」
それは黄昏の中、月明かりに照らされて、神々しく立っていた……
僕は、重いリュックを放り投げるように下ろして、その大樹に寄り掛かり腰を下ろした……
何時間歩いたのだろう……、朝からだから、14時間かな……
「……、女の人……? ……?」
ぼーっと、月明かりに青白く照らされている森を見ていると、森の奥の方から……
「……、裸の女の人……、……」
まるで、妖精のように長い髪を揺らしながら、黄昏の中の月明かりに鈍く照らされて、こちらに歩いてくる……
こんな森の中に、それも裸で女の人がいるはずもない……、いるとすれば幽霊だ……
僕は、命の終わりを感じた……
「……、幻が見えるようになっては、お終いだ……」
これも立派な遭難なんだ……、簡単に人間って死ぬのだなっと思った……
彼女は、16歳18歳くらいに見えた……、片手に籠を持っていた……、その籠の中には白い花が溢れそうに入っていた……
「……、やー、君は誰……? ……」
裸の女の人は、僕の3メートル前で来て止まった……
「貴方こそ誰なの……? ……」
「……、僕は、蒼……、松山蒼……、道に迷ってしまった……、麓の街に帰りたいのだけど……」
「それは、できないわ……、この街に来た人は、誰も帰れないのよ……」
「……、街って……? ……、こんな森の中に街があるの……?」
「あるじゃない……、貴方の寄りかかっている木は、このお寺の御神木よ……」
「……、お寺だって……? ……」
僕は、あたりを見て驚いた……
確かに、黄昏の森の中に大きなお寺が見えた……
「……、本当だ……、誰か……、住んでいるの……?」
「和尚さんがいるわよ……」
「……、よかった……、もう死んでしまうかと思った……、水はあるの……?」
「もちろん、井戸があるわ……」
「……、近く……?」
「お寺の側よ……、でも、夜は誰も外には出ないのよ……、でも、井戸は外だから、勝手に使っていいんじゃないの……」
「……、今晩、お寺で泊めてもらえないかな……?」
「お寺の和尚さんは、もう寝ていると思うわ……、お寺にあかりがないから……、でも、私の家なら開いているわよ……」
「……、ほんと、家族の人がいるの……?」
「私しかいないわ……、……」
「……、君……、一人で住んでいるの……?」
「そうよ……、……」
「……、じゃー、泊めてくれるかい……?」
「いいわ……、家には水もあるから……」
「……、家は遠いの……?」
「すぐ、そこよ……、お寺の横だから……」
僕は、重い体をよろけながら、立ち上がり、また放り投げた重いリュックを背負った……
彼女は、僕を置いて、何もなかったように前を歩いて行った……
僕は、遅れないように、彼女を追った……
「……、ねー、どうして君は裸でいるの……?」
逢ったときから訊きたかったことを、今……、彼女の背中に訊いた……
彼女は立ち止まり、微笑んで振り返って僕を見た……
「何故でしょうね……、私……、昔、この村の女たちに、酷いことをされて、裸にされて、あの木の下に埋められたの……」
「……、じゃー、君は死んでいるんだね……」
「違うわ……、それを見ていた、あの楢木は、私を憐んで、もう一度、あの木から生まれたの……、だから私は着物が着れないのよ……、木が着物を着ていたら可笑しいでしょう……」
「……、そんなことは無いと思うけど……、君の姿は人間みたいだから、服を着ても似合うと思うよ……」
「そうかしら……?」
「……、でも、寒くないの……?」
「そうね……、雪の降る頃は少し寒いけど……、今は、何も感じないから、ちょうどいいわ……」
彼女は、また前を向いて歩き出した……
よく周りを見ると月見草が一面咲き誇っていた……
月見草の花は、夜に開き一晩咲いて、朝には萎んでしまう……、一夜花とも言われる……
花の寿命は短いけれど、その種子から取れる油には、長寿の薬効成分がある……
彼女の持っている籠の中の花は月見草だった……
大樹から生まれたと言う彼女……、嘘か本当なのかわからないけど……、綺麗な人だ……
「ここよ……、……」
壊れそうな門構えがあり、板塀はすでに朽ち果てていた……
奥に入ると寝殿造なのか、大きな屋根と吹き曝しの縁側と居間が見えた……
そこには、窓も扉も壁もない……
「井戸は……、そこよ……」
草の生い茂った中に井戸らしき物が見えた……
早速、水筒を持って井戸を覗くと、手の届きそうな所に水面が見えた……
でも、井戸の側に置いてあった、もう何年も使っていないような木の桶で水を汲んだ……、それを水筒に移して、まづは自分の喉を潤した……
「……、美味しい……、……」
明らかに、水道水とは違う……、自然の美味しい水だ……
水でお腹が満たされると、やっぱり何か食べ物が欲しくなる……
振り返り母屋を見ると、彼女が灯したのか、ぼんやり明かりが見えた……
僕は、彼女が入っていた母屋の前の庇に上がって彼女に訊いた……
彼女は、渡殿と母屋の縁に腰を下ろして、黄昏て行く空を見ながら、籠に入った月見草の花を食べていた……
「……、何か食べるものは無いの……?」
「月見草の花を食べる……?」
「……、いや、もう少し何かない……?」
「離れの台所に行けば、豆とか芋とか、あるんじゃないかな……、私は食べないから分からないけど……」
「……、ほんと……?」
僕は、リュックのところまで戻って、ヘッドランプを出した……
それを付けて、庇を回りながら台所を探した……
母屋の東棟の隅に台所があった……
床の上に無造作に置かれた籔の中に山芋が入っていた……
部屋の隅には、色あせた四角いお櫃があり、開けると玄米が入っていた……
「……、ありがたい……、ご飯が食べられる……」
しかし、どうやって食べればいいんだ……
あたりを見回すと、土間の隅に臼と杵が見えた……
「……、これで玄米のぬかを擦り潰せば、少しは食べられるかな……?」
僕は、コッフェルとコンロを取りにリュックのところまで戻ってみると、彼女はもういなかった……
でも、母屋の明かりだけが怪しく灯ったままだった……
台所に戻り、玄米を臼杵で3分つき米にして、コッフェルで炊いた……
それを蒸している間に山芋を茹でた……
ご飯は芯があって、美味しくなかった……、さらに水を加えてお粥状態にして、茹でた山芋を入れて食べた……、どちらも美味しくなかった……
調味料を入れないせいだ……、塩、ひとつまみでもあれば、最高に美味しいはずだ……
でも、少しはお腹が満たされた……
朝になったら、調味料と食料を探そう……
その日は、母屋の床の上でエアーマットを出して、寝袋にくるまって寝た……
動物の鳴き声も、風の音もしない静かな夜だった……
月が、南の空まで上がってきて、庇の奥まで明るく照らしていた……