逃亡
最初、異変に気付いたのは誰だったのだろう?
今朝はいつもと同じ朝、そうだったのは間違いない。
だが。
「マスター。バルト少尉から緊急連絡です。」
執務中だった盟主は、ラグナロクを介して異例の連絡を受けた。
「妃殿下が行方不明」と。
直ちに帰宅した盟主は、不気味なほど静かな職員達に出迎えられた。
青ざめ表情を失ったサーニは、立っているのがやっとの様子で、夫であるリューに支えられている。
そのリューもまた青ざめて、目の焦点が合っていない始末だった。
白金竜バルト少尉であるところの黒猫は、悄然と首を垂れたまま動かない。
どうかすれば、自身の影の中に溶けてしまいそうなほど、存在感をなくしてしまっている。
黄金竜ルイ・デュボア大佐は人間に擬態していたが、硬い表情で沈思黙考中。
不吉な予感が巨大な化鳥の翼となって、離宮全体を覆っているかの如くである。
盟主は一同を見回した。
「カイ。説明を。」
黒猫は、ビクッと震えた。
主君の静かな声が、却って嵐の底知れなさを予感させる。
顔を上げなければ、と、自分自身を鼓舞するが、あまりの事の重大さに筋肉が固まってしまったようだった。
「ご報告します。」
震える声でそう告げて、少尉は事態発覚までの経緯を述べ始めた。
と言っても、内容は僅かである。
朝、彼女は確かにいた。
そして、昼食時には居なくなっていた。
短い報告を終えて、少尉は耐え難い沈黙の中、何処かに飛びそうな意識を必死でつなぎ留めていた。
そこは、何処なのだろう。
岩屋の内部?
広い床と壁、上下を繋ぐ柱のような石柱の全ては、白っぽい大理石に似た石と見えるが、何処にも鑿の痕はなく、床のみ人工的に平らに磨かれている。
一方向は壁と、木のドアがみえるのだが、残り3方向には壁らしきものは見えない。
空間の先は闇に沈んでいた。
ただこの付近一帯だけが、光源不明の光に照らされているのだ。
低い天井もまた、ゴツゴツした剥き出しの岩である。
石の床からニョキニョキと突き出ているのは、石筍だ。
形は様々で、大部分には人の手が加わった様子はない。
床のそこかしこには、平らに切断されたらしい岩が置かれ、幾つかには敷物が置かれている。
ふと、弦が爪弾かれた。
最初の単音は、細くきらめく金糸の流れとなり宙を漂う。
長く透明な余韻。
次の音は一つではなく、和音。
小型の竪琴の音色は、楽器の大きさからは想像も出来ないほど豊かだ。
続くアルペジオは空気の層を成して、七色に共鳴する。
奏でるのは、1人の若者。
華奢で優しげな風貌の持ち主だが、奏でる音楽は、繊細なだけではなく、力強い。
その目は閉じられている。
彼の手がふと止まって、音楽の波濤が宙に砕けた。
誰かが来たようだ。
顔を上げたが、やはり目は開かない。
見えない視線の先で、ダミ声と共にドアがノックされた。
「おい、オルテア!開けてくれ!」
男は竪琴を置き立ち上がった。
「開いてますよ、ガラムさん。」
「おお。」
ドアが開かれ、来訪者が入ってきた。
異形の者。
ダミ声の主は、身長2メートル半を越える化け物である。
筋骨隆々たる体躯は、最低限の布で部分的に覆われていた。
肩から直接頭部が生えている。
つまり、首はない。更に頭髪もない。
逆に過剰にあるのが腕。
どこかの世界の、ゲーム好きの子供なら一眼でこう断じただろう。
4本腕のオーク、と。
実際頭部は、無毛のイノシシに似ている。
長く伸びた口吻、上下に突き出た牙。
彼は困惑した表情で、2本の腕に抱えた荷物を見下ろした。
「…その人は?」
「倒れてた。岩山の扉の前で。助けてくれよ、オルテア。」
「そこに寝かせて下さい。診てみましょう。」
「頼む。」
表情を輝かせて、4本腕のオークは荷物をそっと平らな岩に置いた。岩の上には白い毛皮が敷かれている。
ベッドかソファとして使われているらしい。
オルテアと呼ばれた青年は、注意深く傍に膝をついた。
「人間の女性ですね。」
彼の言葉に、ガラムは頷いた。
「やっぱりな。人間なんて、三百年生きてきて初めて見た。しかし、あんなとこに置いといたら、何が起こるかわからねえし。で、どうなんだ、生きてはいるんだろ?」
「大丈夫、深く眠っているだけです。界渡りのショックのようですね。」
「そうか。」
ガラムは見るからにほっとした様子で、傍の剥き出しの石筍にどっかと座った。
上部が平らになっていて、形は丁度高いスツールに似ている。ガラムの、いつもの席だ。
まもなく傍の平たい石の上に、湯気の立つ茶碗が置かれた。
オークの体躯に相応しく、厚手で大ぶりにできている。
「お、すまねえな、いつも。しかし、ここんところ、色々と妙な事が起こるとは思わねえか、オルテア?」
「例えば?」
「この人間の娘っこもそうだが、よその世界からやって来るモノが増えてる。あとなぁ、この辺りはそうでもないが、カシュケントやドノド辺りを歩くと、なんとなく妙な臭いがするんだ。」
「嗅覚に特化したあなたが言うならそうなんでしょうが、それは私にも分かるほどのものですか?」
「うーむ。今はまだわかんねえだろな。けど、時間の問題だぜ。段々強くなってっからよ。それにこの頃、お偉いさんたちの小競り合いが多かねえかい?なんかキナ臭えんだ。まあなぁ、この〝黒の岩山〟界隈じゃ滅多なことは起こらんだろが。」
ガラムは、一息つくと、飲みものを一気に流し込む。
彼は見かけによらず猫舌だが、オルテアはいつも適温の飲み物を出してくれるから、火傷の心配はない。
「…客人が目を覚ましたようですね。」
「おっ、大丈夫か?」
うっすらと彼女が目を開けた。
その上から、ガラムが顔を覗きこむ。
「いゃー、綺麗な娘だなあ。形はオルテアみてーだが、なんともいい匂いがする。」
彼女は、目をしっかりと見開いて、オークの顔を見た。至近距離だ。
普通なら、驚愕で再度気絶してもおかしくないほどの異相だが、彼女は何と微笑んだのである。
「ここは?」
言葉は通じないはずだが、なぜか彼女の言わんとするところは普通に聞きとれた。
「ここは、〝黒の岩山〟の地下だ。俺はガラム、門番だ。こっちはオルテア。吟遊詩人で、治療師。」
彼女は少し体を起こして、周囲を見回す。
興味津々、といったところだ。
その目がオルテアを見た。
彼の目は閉じられたままなのだが、正確に彼女の視線を感じたらしく、優雅に一礼する。
「よろしく。あなたのお名前をお聞きしても?」
「はい。私は神原千絵と言います。」
「そうですか。では千絵さん、とお呼びしてもいいですか?」
「はい、オルテアさん、それにガラムさん。助けていただいたんですよね。本当にありがとうございます。」
「いいってことよ。しかし何でまた?ここがどこだか、あんた知ってるのかい?」
「私たちの言いならわしでは、〝魔界〟。それで合ってますか?」
「ああ。そうなるだろな。俺らは〝世界〟と呼んでるが。そうすると、あんたらのとこは、人間界、ってことになんのか。」
「ええ。そうですね。」
と、彼女は笑った。
黙ってやり取りを聞きながら、飲みものを淹れていたオルテアが問う。
「それで、何故自ら界渡りを?」
何気ない言葉だが、彼女はハッとした。
自ら、と彼は言った。オークのガラムは、キョトンとした顔つきで首を傾げる。
「おいおい、なんでまた…」
「自分から来られたのは間違いないからですよ、ガラムさん。お忘れてすか、ここがどういう場所なのか。」
「…ああ。そういうことか。うん、確かにな。あそこで倒れてたってことは、例のゲートを通って来たってことだよな。あそこには確か、おっかない門番がいる筈だ。」
彼女は2人を交互に見つめて、はっきり言った。
「私、家出して来ました。」
「はあっ!?い、家出って、いや、いくら何でもここまで来るか?」
「ここまででも十分ではないんです。だって彼は…」
唇を噛み言い淀む彼女に閉じた目を向け、オルテアはふっと笑った。
「そうかも知れませんね。お会いしたことはありませんが、噂には聞いていますよ。龍一さん、でしたか?」
「はい。私、叔父からあなたのことを聞きました。一先ずあなたにお願いしろと。理由は…」
「わかっています。大丈夫、しばらくここで過ごして下さい。」
「ありがとうございます。」
彼女の目から、一筋の涙が溢れて頬を伝う。サルラの前で、この前流した涙と違って、そこには僅かだが希望の光が含まれていた。
よろしければ最後までお付き合いください。