アビスブリンガー
「ほんっと心配性なんだから。ごめんなさい、カイ。」
「そんな。ボク、姫様の騎士ですから、当然お共はしますよ。しかし、アビスブリンガーが必要な情報を持ってるかどうか。」
「そうよね。でも、できることはやってみなくちゃ。」
石回廊から少し離れた池のほとりである。
差し渡し10メートルほどの小さな池だ。
もっと大きな池はいくつもあるのだが、黒猫が盟主妃を導いたのはここだった。
時刻は夜とあって、周囲の庭園は闇に沈んでいる。
清かな月光が木々の葉叢から射し込み、水面を照らしていた。
水はわずかに波立っているらしく、きらきらと砕けた光が踊っている。
「ここがいいと思います。池は全て繋がっているんですが、本体に聞こえやすい場所がここなので。」
「耳あるんだよね?目は凄く大きいけど、耳は見えないじゃない?」
「目の少し上あたりです。でも、見てもわからないと思いますよ。あと、触手で水の振動を感じることもできるようです。水と接している地面の振動もね。ほら。」
池に背を向けて、黒猫の尾がゆらりと揺れた。
水面に踊る光がさらに細かく砕ける。
風はほとんどないのに、水の揺らぎが強くなったようだ。
「気付いたみたいですね。」
言葉と共に、池からにゅっと現れたのは、一本の触手の先端だった。
それは、池の中央あたりから2メートルばかり突き出し、そのままスルスルと岸に寄ってくる。
濡れて光っている表面は、黒っぽい。
間近に来ると、触手が半透明であることがわかる。
吸盤や、刺胞のような構造物は全くない。
どこまでも均一かつ滑らか。
「こんばんは。あなたにお願いがあって来たの。」
声をかけると、触手は先端部分を軽く曲げた。会釈したようにも見える動きだ。
「姫様には挨拶するんだ。ボクにはいつも無愛想なんだけどな。」
「カイだってかなり無愛想だと思うけど。んー、ちょっと行ってくるわね。すぐ戻るから、ここにいて頂戴、カイ。」
「は?行くって、どこへ?まさか?!」
「池の底、って言うか、地底湖。大丈夫、前にも行ったことがあるの。」
「はあっ!い、いつの間に?冗談はやめて下さい!」
「冗談な訳ないでしょ。お願いするのはこちらなんだから、出向くのが筋だわ。そ・れ・と!龍ちゃんには内緒よ。あの人、過保護にも程があるんだから。ムダに大騒ぎするに決まってる。じゃあね!」
言い終わるが早いか、彼女は触手の先端に触れた。
瞬間、触手ごとその姿が消える。
カイがどうすることもできない早業だ。
池の端には、悄然とした黒猫が残された。
「ボク、なんでこんな目に…」
涙目でぼやきたくもなるが、今更仕方がない。
彼女が危険はないと判断したならそれは確かだろうし、カイ自身アビスブリンガーに脅威は感じていなかった。
しかし、である。
この庭園にある全ての池と小川は全て地下て繋がっていて、深部では巨大な地底湖になっていた。
地底湖は更に、いくつかの異界へ通じる通路でもあり、ゲートキーパーであるアビスブリンガーがそこを守っているのだ。
地底湖はアビスブリンガーの領域であり、カイのシールドさえそこでは機能しない。
直接乗り込めば問題はないのだが、正妃は随行を拒否した。
それに。
アビスブリンガーは強力な魔獣である。
最強のドラゴンであるカイが戦闘力で遅れを取ることはないだろうが、彼が守るべき姫は人間だ。
うっかり巻き込みでもすれば、無事で済むはずはない。
耳と尻尾を垂れ、肩を落として、カイは岸辺を行き来する。
「どうしよう?龍一さまにお知らせするべき?でも、姫様が、知らせないでって。」
言わずもがなの独り言だったが、返事は予期しないタイミングでやって来た。
「大丈夫でしょ。千絵さんがそういうんだから。」
池の向こう側に忽然と現れた、白く燐光を帯びたその姿。
出たな、野良ヘビ!
と、一瞬身構えはしたものの、今はそれどころじゃない。
「そう思いますか、サルラ?」
大蛇は、スルスルと池に入る。
泳いでいるのか、水面を滑っているのか、どちらともつかない滑らかな動きで渡りきると、カイと並んで池の方へ頭を向けた。
「ここで待ちましょう。それほど時間はかからないでしょうから。」
「だといいけど…」
しばらくの間、黙って2匹(?)は水面を見つめていた。
細かな波はすっかり凪いだとみえて、池には月と木々、それに2匹の影が映っている。
「あの、サルラ?」
「なんですか?」
「姫様はこの頃少し、変じゃないでしょうか?」
「どんな風に?」
「どんなって…」
黒猫は大蛇をチラッと見て、視線を池に戻す。
「その…何となく。」
他に言い方がなかった。
何か気に掛かることがあるらしいのは分かっていたのだ。
ぼんやりすることが多くなっているし、周囲にひどく無関心な瞬間がある。
それに、元気がない。
表面は取り繕っているが、少なからず悩んでいることはわかる。
元々、何かに悩むようなタイプじゃないはずなのに。
そして。
「何かを恐れていらっしゃるように見えます。こんなこと、今までなかった。」
「そうですか。」
サルラは否定も肯定もしないが、重要なのはそこじゃない。
「理由、知ってるんですねサルラ。」
瞬間的に確信した。
理屈でなく、直感に近いが、間違いない。
「さあ。」
「ボクには言えないこと?」
「どうでしょう。」
「はぐらかさないで!」
白い蛇は、ゆっくりと舌を出す。夜目にも鮮やかな赤と見えた。
先が二股に分かれたそれは、独立した生き物のようにヒラヒラと蠢く。
ボディと同じく、燐光を帯びているようだ。
「戻られたようです。」
「あ…。」
池が波立つ。
真ん中の辺りに、数本の触手が一度に現れたのだ。
黒猫は精一杯伸び上がって触手を見た。
それらは一度一塊にあわさり、先端部分だけが広がる。
真上から見れば、イソギンチャクか花のように見えることだろう。
その中央に。
「姫様!」
「ただいま!あれ、サルラもいたんだ。」
触手は滑らかに岸へと動き、真ん中に乗せていた彼女を地面にそっと降ろす。
「ありがとう、アビスブリンガー。助かったわ。」
触手は一斉に先端部分を軽く折る。
挨拶の仕草としか見えない上、ひどく優雅でさえあった。
触手はそのままスルスルと水に戻り、後には同心円を描く波紋だけが残る。
今水底から来たばかりの正妃の着衣が全く濡れていないことに、カイは気付いた。
アビスブリンガーが高い知性を持つことを改めて確信する。
しかし、今はそれどころじゃない。
「ご無事で何よりです。」
「えー?何言ってるのよ。無事に決まってるじゃない。」
「急に消えたじゃないですか。」
「あ、そのこと?大丈夫って言ったでしょ。カイまで龍ちゃんみたいなこと言ってどうするのよ。」
「ボクは、龍一様のドラゴンですから。」
「千絵さん、アビスブリンガーは何と?」
サルラの質問に、彼女は頷いた。
「心配するほどのことはなさそうよ。まあ少し込み入った話なんだけど、中で説明するわ。」
という次第で、1人と2匹は庭園を後にした。