病室にて
待合室には、1人の女性がいた。
スラリとした、美しい肢体に、リマノの最新流行のファッション。
妊娠6ヶ月目に入っていたが、背が高いこともあり、腹部は全く目立たない。
濃い赤紫の目と、ほとんど黒く見える濃紫の長い髪。
好みの問題はあろうが、人目を惹く美女と言えた。
年齢は30歳。
彼女の国は、連邦に加盟していないが、リマノを訪れるのは大好きだった。
ここは煌びやかな魔都。
目の眩むような富と美。
旧い大都市でありながら、流行の最先端は全てリマノから発信されるから。
享楽をこよなく愛する生活を送ってきた彼女だが、その肌にも髪にもまだツケは回って来ていない。
魅了の魔力に頼らずとも、好みの男を手に入れるのは容易かった。
ただ、スキャンダルには気をつけてきた。
何と言っても、王国随一の聖女である。
だから、秘密裏に遊んだら、飽きた頃に男は始末することにしていた。
もっとも、ベッドに引き込む前に男は死んでいる。
何故なら彼女が殺すから。
生きた人間は、必ず裏切る。
殺した上、空っぽの器として蘇らせれば、裏切りや要らぬ妊娠の心配もない。
正に一石二鳥。
例外はリヒテンシュトールだが、苦痛と屈辱に壊れそうなあの表情は、嫌いではなかった。
妊娠という目的は達成した。
傀儡の王を演じさせるためには、生かしておく必要があったが、それももう終わりだ。
まさか、この後に及んで私から逃亡するなんて!
だから生きた男は嫌いだ。
放っておいても、呪いが彼を殺すはずだが、念には念を入れなければ。
そう。
最後の最後、じっくりと甚振って、殺す。
ムチ?ナイフ?ノコギリもいいわね。
ああそうだ、残った手足の腱も切ってやらないと。
あの男、生かしておくのは、本当に面倒だった。
奴隷の分際で、この私に楯突くなんて。
そもそもの間違いを、はっきりと解らせてやらないとね。
それが貴き聖女の義務だ。
ああ、面会許可が出たのね。
このまま、連れ帰る。
邪魔はさせない。
殺風景な病室は、どこも大差ない作りだ。
係の武官に案内され、スロヴェシアの公爵令嬢が入室した時、その個室にはリヒテンシュトールと医師だけがいた。
それと、医師の足元に1匹の猫。
黒猫である。
動物が何故こんなところにいるのだろう?
一瞬の戸惑いは、ベッド上のリヒテンシュトールを確認した瞬間、どうでも良くなった。
間違いなく彼だ。
よくも逃げ出してくれたものだが、再会の喜びは、悪くない。
今は彼だけしか目に入らないくらいだ。
怯えて、彼女を嫌悪しつつ、逃れる方法のないことに絶望したその表情!
堪らない。
内心舌舐めずりしながら、彼に駆け寄る。
「ああ!良かったわリヒト!」
そのまま、抱きしめようとしたが、それは、リヒトと彼女との間に立ち塞がった医師によって阻まれてしまった。
頭にカッと血が上る。
「無礼者!」
「無礼者か。」
低い笑い声。
背筋に戦慄をもたらす、その響き。
レティシアナは、初めて医師の顔を見た。
「…!」
間近で見るその顔は、あまりに強いインパクトを持っていた。
それに、彼女は、この顔に見覚えがあった。
あの映画。
まさか、こんな顔が実在していたとでも言うの!?
「無礼なのは、貴女だろう。ここは連邦の管轄下にある。そして、彼に関するあなたの申告は虚偽だ。」
冷たいが、ぞくりとするほど美しい声。
天鵞絨の刃。
「な、何を根拠に!」
辛うじて反論するが、焦りは隠しきれなかった。
だが、ここで引くわけにはいかない。
素早く体勢の立て直しを図る。
目的完遂の強い意思でもって、再度状況を確認した。
リヒトには何も出来ないだろう。
彼は肉体的に無力だし、魔法は投薬で封じてある。
その効果は、どうしたってまだ切れない。
医師はかなり大柄な男ではあるが、彼から魔力は感じられない。
ならば、簡単に制圧できる。
内心、ニヤリと笑って、彼女は体を引いた。
それにしても、美しい男だ。
とても生身の人間とは思えない。
人外の美貌は、この私にこそ相応しい。
この男と、リヒテンシュトール、2人とも持ち帰るとしよう。
自分にはその力と権利があるのだから。
「心外ですわ、先生。虚偽などと仰いますけど、私たちにも立場というものがあります。ああ!可哀想なリヒト!私の大切な家族の、こんなにも痛ましい状況を宣伝したいはずがないでしょう?」
嫣然と微笑み、困惑を見せる。
同時に、魅了の魔法を発動させた。
相手がどこまで知っているかはどうでもいいのだ。
ただ、少し駆け引きを楽しみたいだけ。
顔も身体も、見れば見るほど美しい男。
殺してしまうのが勿体無いくらい。
「本当に無礼な人ですね、ご主人様?」
突然、聞いたことのない声が聞こえた。
誰だ…?
見回しても隠れる場所はないし、ここにはリヒトと医師だけしかいないが、どちらの声でもない。
「確かに無礼だな、カイ。レディ、俺は妻帯者だが、仮にそうでなくとも、いきなりの魅了魔法は失礼ではないか?」
「!」
何故気付かれた?
防御用の魔具?
いや、その気配はない。魔力も感じられないから、体質のせいか?
稀にそういう者もいる。
理由はどうあれ、この男に魅了魔法は無効であることはわかった。
「ど、どうして…?」
怯むフリとすると同時に、致死性の魔法を放つ。
これなら耐性など貫通するだろう。
素早く場を制圧するには、常に防御より攻撃が有効だ。
だが、医師は何事もなく、平然と立ったままだった。
馬鹿な!あり得ない!
「さて。先に手を出したのはそちらだ。ならば、これは正当防衛だな?」
「御意。」
「リヒト。君の気持ちは変わらないか?」
「変わるはずがありません。でも先生!その女は危険です。」
医師はふと笑う。あたたかみのかけらもない視線はレティシアナに向けられている。
「さて。言い残すことは?」
「何を仰っているのかわかりませんわ。私、これで失礼します。」
仕切り直しだ。何故か魔法がうまく発動しない。
こんな時は一旦引くしかない。
「逃亡は無理です。」
足元から淡々とした声が聞こえる。
あの黒猫!
まさか、こいつが魔法使いなのか!?
いいや、何のトリックで喋るのか解らないが、この動物から魔力は感知できない。
「さて。言い残すことはないようだな。何をしても無駄だ、レディ。この部屋は、ドラゴンの結界によって隔離されている。」
意味がわからない。しかし、脱出のための魔法も、念の為仕込んで来た魔法具も、何一つ発動しない。
あり得ない!どうなっている!?
ドラゴンなど実在するはずがないし…。
目まぐるしく頭は回転するが、何をどうしても脱出できないという事実を、彼女は最後まで理解出来なかった。
「光栄なこととお考え下さいね。我が主君が、自ら手を下されるのですから。」
その刹那。
リヒトが目にしたのは、白銀の閃きだった。
ただ、それのみで、何一つ変わったことは
ない。レティシアナも同じ位置に、固まったように立ち尽くしている。
いや、1つ変わったことがあるとすれば、何故か彼女は立ったまま目を閉じていた。
「カイ。あとは任せる。」
そっけなく淡々とした医師の言葉に、黒猫が頷いた。
「おまかせを。胎児は無事です。さすがです、ご主人様。」
「当たり前だ。」
「あ、あの?」
「彼女は、死んだよ、リヒト。君はこれからどうしたいかを考えろ。アリスを寄越す。では、また。」
医師は何事もなかったかのように、病室から出て行った。
リヒトには聞きたいことが多すぎて、どこから聞けばいいか解らずにいたのだが。
第一、何故猫がしゃべる?
いや、猫であるはずはない。
「貴方は?」
丁重に尋ねてみた。
「ああ、申し遅れました。私は盟主近衞騎士のカイ・エミリオ=バルト、連邦軍では少尉です。お見知り置きを、国王陛下。」
「近衞?」
小さな黒猫は、エメラルドの目を閃かせた。頷いたらしい。
「少尉、レティシアナは?」
「既に亡くなられました。我が主君が、直接処断されましたので、肉体はまだ機能しています。しかし長くは持ちません。分娩します。」
「主君…?」
聞き返そうとした時、ノックに続いてドアが開いた。
アリス・デュラハンである。
黒猫は彼女に向かって一つ頷いた。
「ては、失礼します。」
黒猫は歩き出す。と、同時に、レティシアナがぎくしゃくと動き出した。
リヒトは、ビクッと体をこわばらせた。
彼女の目は閉じられている。
まるで操り人形のように奇妙な動きで回れ右をして、彼女(医師と黒猫の言葉を信じるなら、死体だが)は黒猫の後に続く。
アリスが呟いた。
「あらキョンシー。器用なのね、カイ。」
「貴方ほどじゃありませんよ、ラグナ。」
意味不明の会話を最後に、黒猫とレティシアナは出ていった。
これが、リヒトにとって、仇敵の見納めとなった。