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月の宮異聞  作者: WR-140
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悪夢の記憶

悪夢それは、いつものことだ。

眠れば必ずやってくる。

だが、決して慣れることはない。

今、彼は10歳。辺りはただ一面の炎。

泣き叫ぶ妹の声は、ぴたりと止んだ。

さっきまで、ドアの向こうから聞こえていたのに。

ドアは開かない。

鍵が掛かっているのだ。

力一杯叩いた。蹴った。体当たりした。

拳から滲む血が、黒ずんで固まっている。

凄まじい熱気。

ドアはもう、触れないくらい熱くなっている。

建物が崩れ落ちるのは今か、一瞬先か。

熱い!

喉と目が燃えるようだ。

熱い熱いあついっ!

逃げ場はない。

どこを見てもただ一面の炎しかない。

このまま…


そして、目覚めは唐突に訪れる。

いや、これは、次の夢だ。

痛い!無意識に両腕で頭を庇うが、蹴られたのは、腹だ。

一発、二発。

地面に転がったところを更に蹴られた。

執拗に、同じ場所を狙われている。

吐くものなど何もないが、捩れた腹から黄色い液が迫り上がる。

鼻先を青草と土の臭いがかすめた。

呻きは声にもならない。

更に数発の蹴り。

這いつくばり、地面に押し付けられた口に、容赦なく土くれが侵入した。

食いしばる歯に、じゃりっとする感触。

蹴っている相手が何か叫んでいるが、どうだっていい。

こんなことには慣れている。

出来ればさっさと飽きてくれたらとは思うけど、今日は長引きそうだ。

涙で霞む目の端に、青空がひらめく…。


視界が暗転した。

硬い木の椅子に座っている感触。

だが、立ち上がることはできない。

身体が椅子に縛り付けられている。

目隠しで、何も見えない。

彼はこれから何が起きるか知っている。

繰り返し見た夢。

二度と見たくないと思う心は、いつも裏切られた。せめて、今この瞬間に目覚めることが出来たなら!

だが、それは今回も叶わないだろう。

まるで呪いのようにまとわりつく、それは苦痛と屈辱の記憶に他ならない。

夢と知っているのに、どうしてもそこから逃げ出せないのだ。

手のひらが汗ばむ。

嫌だ!見たくない!この先は…!


外事第一病院と第二病院は別の組織だが、実は隣接した構造である。

第一は、主として連邦加盟国関係の患者が対象だ。

第二は、非加盟国と紛争地域など、外交上わけありの患者が入院している。

警備体制は第二の方が少し厳重だ。

しかし、両方とも結局は宮殿管轄であり、スタッフや物資は普通に行き来できるようになっていた。

その第一と第二の連絡通路を、医師とその患者が歩いていた。

「こっちです、先生。」

小柄で痩せっぽちの患者が通路の先を指さす。少し舌ったらずの話し方はまるで子供のようだが、オルタはこれでも今年28才になる、歴とした成人女性であった。

先生と呼ばれたのは、彼女の主治医。

つまりは上級医療技官神原龍一である。

オルタは、彼のもう一つの顔を知りながら全く怖がることがない。

月の宮の侍女サーニと同じく、稀有な人材だ。ありがたいことに。

映画「蛇神」の正式公開からまださほど日はたっていないが、彼が病院内にいる時、スタッフの反応ははっきりと以前と違うのだった。

必死で「知らないフリ」を装いなからも、彼から見えないと思う場合には、チラチラと視線を送る。

神族の感覚は、常人よりはるかに鋭いから、大抵の場合気付きながらも知らないフリをしてきたのだが。

疑心暗鬼。恐怖。打算。

以前よりも遥かに増した、欲望。

予期した事だったが、実に居心地が悪い。

妻は、あの映画はAVだと断言しているが、AV男優は皆、こういう視線に晒されているのだろうか?

だとしたら、同情を禁じ得ない。

以前から、卓越した外見が祟って、欲望の視線を浴びるのは日常茶飯事ではあった。

しかし、最近のこれは度が過ぎている。

視線に込められた感情が、前よりずっと具体的で生々しいのだ。

思考を読む能力などないが、こうまであからさまだと誤解のしようもない。

妻は彼を色情狂扱いする。

確かに、彼女に対する欲望の強さは若干、そう、あくまで少しだけ常軌を逸しているのは認めるが、それだって本気で嫌がる彼女をどうこうしたいとは思わない。

いやまあ、大体の場合は…。

しかし、不特定多数から具体的欲望の視線を向けられるのは、うんざりだ。

大概にしろ馬鹿野郎ども、と叫びたくもなる。

この状況では、医師としての非常勤業務は、潮時かもしれないと思い始めているこの頃だ。

だが、彼はそもそも医師だし、患者と接することが、現在の過酷な立場からの気分転換になるのも事実だった。


とりあえず、今日は主治医としてオルタの様子を見に来た。

嬉しいことに、重症だった彼女の回復は、驚くほど早かった。

そのオルタが顔を合わせるなり、いきなり言ったのだ。

「会わないといけないひとがいます。連れて行ってください。」

そういうわけで、2人は第二病院にやってきたという次第である。

相手の名もわからないと、オルタは言う。

しかし、彼女は見鬼である。

そして。

オルタが示した部屋の番号を見て、彼は患者の名前を思い出した。

スロヴェシアのリヒト。落ちてきた男。


悪夢は、続く。

蠢く暗闇。生暖かい無数の触手が全身を這う、悍ましい感覚。

そしてあの女が…

悲鳴を上げたいが、声は出ない。

切り刻まれる苦痛は耐え難かったが、屈辱は彼の精神を切り刻み、すり潰していく。

それは、苦痛を超えた苦痛。

悪夢は更に…


突然、誰かの声が聞こえた。

何を言っているのかはわからない。

知らない声。知らないけど、耳に優しく柔らかな少女の声だ。

知らない単語。知らない言葉。

ちょっと、舌足らずな印象。

その声が耳に届いた途端に、閉ざされていた視界が開けた。

どんなにもがいても覚めない悪夢から、脱出出来たのだ。


助かった。

これらはすでに過去に起こったことだ。

どれもこれも、今更どうしようもない記憶の呪いだった。

そして、彼は無力だ。

昔も今も。

病室の天井に向かって、震える息をはく。

心臓が激しく踊っている。

何回か深呼吸してから、ベッドサイドに誰かがいるのに、ようやく気付いた。

医師の制服…?なかなか目の焦点が合わない。

主治医ではないようだが?

それともう1人。子供、女の子か。

「気が付いたか。」

この声は知っている。

意味はわからないが一瞬遅れて、機械的な合成音声が、スロヴェシア語でセンテンスを翻訳した。

主治医も使っていた、自動翻訳機能だ。

「リュウイチ…さん?」

あの浜辺から、彼を連れてきた男だった。

外国人公務員、とだけ聞いていたが、医師だったとは。

亡命を真剣に検討し始めた時、連邦の公務員制度についても調べた。その登用はかなり厳しい実力主義だ。

人は見かけによらない。ずいぶん若く見えるのに、ユニコーンの紀章には、3本の金線が光っている。

と、いうことは、駆け出しの医師ではあり得ない。少なくとも15年以上の専門キャリアを持つ、上級医官ということだ。

半裸で魚を料理していた姿も、ただものではなかったが。

「ここの先生だったんですか。そのお子さんは?」

「俺の患者。君に会わなければならないというから、連れてきた。」

「…初対面、ですよね?」

「そうです。」

女の子は、彼をじっと見てそう言った。

小さな顔、可愛らしい顔立ち。黒い縮毛。

ただ、その目は、明るい琥珀色である。

そして、この声。

さっき、目覚める直前に聞いた、ちょっと舌足らずな…。

その声で、彼女は言葉を続けた。

遅れて合成音声が繰り返す。

「あなたには呪いが掛けられています。」

と。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

次回もよろしくお願いします。

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