贖罪の時間①
突然、天鵞絨の笑い声が、沈黙を破った。
「トリニア大神官の計画なら、知っていたよ。君のせいじゃない。」
「先生、あの、いつから…」
「出席の申し込みの頃かな。こまかいことは省くが、大神官は俺の妻を拉致しようとしていた。そうだね。」
それが質問でなく、事実確認に過ぎないことは、オルタにも分かる。
知ってたんだ。全部バレてた…。
ん?
俺の妻、って?
オルタは、遅まきながら気付く。
聖女ブリュンヒルデ様が、妻?
目だけ動かし、よく見ると、先生は片腕でしっかり正妃さまの腰を抱いていた。
それが当たり前のことみたいに、落ち着いた様子で。
「先生が盟主陛下、ですか…?」
「ああ。そういうことになるかな。」
低く笑って、彼は黒猫を放り投げ、指をパチンと鳴らす。
何かが近づいてきた。あれは…
「ユニコーン…」
「彼がいたことが、君の怪我の原因だが。サーニ、来なさい。」
赤毛の女性がおずおずと近づいてきた。
「紹介しよう。妻が拾ってきたユニコーンと、妻の侍女のサーニだ。ユニコーンがあの場に現れたのは、サーニの発案だった。」
「ごめんなさい、本当に。こんなことになるなんて、想像もしていませんでした。」
侍女とユニコーンが、シンクロしたように頭を下げた。
拾ったって?ユニコーンって、拾うもの?
ど、どこに落ちてたの?
「謝って済むことではないが、彼らには罰が用意されている。それで許してもらえるだろうか?」
「そんな、許すも何も…私に謝って頂くことなんて、何もないです。ただ、大神官さまはどうなりましたか?あの、決して許されないことを計画していたのは本当ですが、それには訳が…」
とは言っても、上手に説明できる自信なんてない。舌足らずのオルタが、何かをまともに伝えられたことなんて、未だかつてないのだから。
焦ったい。今何より心配なのは、大神官さまの身の上だけど、それを持ち出すのは、図々し過ぎるだろう。
大神官さまが、とんでもないことをしようとしたのは事実だし、幸い未遂だったみたいだけど、全部バレてた。
陛下は、公正で厳格な方だと聞いている。
この優しい先生が陛下だなんて。
あの金色の波紋を見てなければ、絶対信じられなかった。
あれは…神力の、ほんのわずかな木霊みたいなものだったと思う。
「大神官のことを心配しているのね。」
唐突に、正妃が言った。
「大丈夫、彼は無事よ。ただ、自由は奪わせて貰ったわ。」
「あ…」
涙が溢れて流れ落ちる。
拭おうにも、手が動かせない。
生きておられた、それだけで…。
「大神官は、二つの罪を犯したと、俺は考えている。一つは、妻を拉致しようとしたことだが、これは最初から成功するはずもない試みだから、不問としよう。しかし。」
医師は、真っ直ぐ患者の目を見た。
「龍ちゃん、それは…」
ハッとしたように、正妃が何か言いかけたが、彼はオルタの目を見たまま、微かに首を横に振る。
「君は、知らなければならない、トリニア嬢。君には、その権利と義務がある。」
深い眼差し。長い睫毛。
オルタはこのとき、何となく、彼の次の言葉を察していたのかもしれない。
「君を刺したのは、大神官だ。」
衝撃がなかったといえば嘘になる。
一瞬、呼吸を忘れた。
ああ、やっぱりか。
心の中で納得すると共に、得体の知れない感情が一気に押し寄せる。
あの時、オルタの後ろにいたのは、大神官さまだけだった。
何より、あの刃先。
オルタの胸から突き出した、あの細い刃物の刃先に刻まれていたのは、神聖文字。
トリニア教の大神官が、錫杖と共に代々受け継いできた、細身の短刀にあるのと同じ祈りの言葉。
神聖文字は苦手だけど、あの形は覚えてる。
見間違うはずはない。
「君を殺そうとしたわけではないだろう。彼は、ただユニコーンを妻から引き離そうとしたのだろうね。しかし、その手段は許されないものだ。俺は、この罪を重大だと考えている。」
「あ…。」
言葉が出て来なかった。
理由については、完全に納得したが、それでも悲しさと悔しさは感じる。
大神官さまがそう望まれるなら、殺されるのは仕方ない。
ただ、ひとこと教えて欲しかった。
何のためにそうするのか。
オルタから見ても無茶苦茶な理屈だし、そもそも最初からバレていたなら、死んだって無駄死にだろう。
それでも。
せめて、大神官さまが信じる大義のために死ねって言って下さったら、こんな思いはしなかったに違いない。
それが悔しくて、悲しくて、どうしようもないのだ。
自分は、やっぱりそれだけの存在だったんだと思う。家族だって、娘だって言って下さったのに…。
「龍ちゃん、じゃなくて陛下。私、トリニア大神官に直接聞きたいことがあるの。」
妻のその囁きに一つ頷き、彼は先ほど放り投げた黒猫を振り向いた。
「少尉。」
「御意。全てお任せ下さい。」
「まだ何も言っていないが、まあいいか。パープルセット、お前たちに命じる。虜囚をこれへ。」
『はいはーい♪勅命おっけーよ♡』
いとも軽いノリの返事は正妃以外の誰にも聞こえない。
しかし、次の瞬間、床の上に忽然とあらわれたのは、大神官の姿だった。
這いつくばるようにうつ伏せになったまま、半ば気を失っているようだ。
見たところ、外傷はなさそうだった。
そして確かに生きていた。
オルタからその姿は見えなかったが、存在を感じる事はできる。
「トリニア大神官。妻が君に尋ねたいことがあるそうだ。」
盟主が静かに声を掛けた。
低い呻きが床に伏す大神官の口から漏れたが、起き上がるには程遠い様子だ。
無限に落下し続ける数時間は、よほど強靭な者の精神にも強い負担を与える。
落ちていく最中はいかに足掻こうと、何一つ出来ない。
落下している事は分かっても、上下前後左右、どこを見たって何も見えはしない。
無限牢獄は、真の闇。
そして、落下が止まる時に思いを馳せれば、そこには恐怖しかあるまい。
叩きつけられ、潰される。
虫ケラのように。
誰かが自分の前に立った。
体の下には堅牢な床。
辺りは明るいようだが、なぜか目を開けることができず、身体を動かすこともままならない。声すら出ないのだ。
周りに誰かいるのか?
わからない。
その時ふわり、と風を感じた。
優しい花の香りが鼻腔をくすぐる。
すぐそばで、誰かが屈んだ気配。
「トリニア大神官、私は盟主妃ブリュンヒルデと言います。あなたにお聞きしたいことがあります。」
ふと、喉の辺りの強張りが緩んだ。
「せ、聖女さま…」
掠れた声が出る。
「私は、そのような者ではありません。あなたが、私をどうするつもりだったかにも興味はないのです。ただ、あなたはなぜ、彼女を刺したのですか?」
「あ…」
オルタ。
オルタ、たった1人の家族。
どこから話せば良いのか。
しばし沈黙の時が流れる。
一気に読んでくださる方、アップのときに読んでくださる方々、ちょっと覗いて下さる皆さまに感謝を。
次回もよろしくお願いします。