堕ちる偶像
慎重に数歩近付こうとした時だった。
不意に音もなく、庭園から1人の男が現れたのに気付いたユージーンは、その場でフリーズした。
まさか、護衛!?
マズいぞ。そんな邪魔が入ったら、妃と言葉を交わす前にここから摘み出される。
害虫みたいにな。
ユージーンが去就に迷い立ち止まる間に、その男はブリュンヒルデ妃に近付いた。
妃の口元に笑みが浮かぶ。
薄物の袖がふわりと舞うように見えた。
彼女が、たおやかな両腕を男の方へ差し延べたのだ。
男もまた微笑んで彼女に片手を伸ばす。
そこで、ユージーンは初めてしっかり男を見た。帽子のために顔の上半分は隠れているものの、端正な顔立ちであることは十分に見て取れる。
長身、わずかにウェーブのある黒い短髪。
どこにでもいる若い男の服装だが、それでいて何かが違う。
バーチャルモデルのように完璧なその体型のせいだろうか?
流行りの黒い帽子を含めて、特に高価な物を身につけているわけでもないが…。
どこかで会ったことがあるような?
と、そこまで考えたところで、ユージーンは驚愕した。
妃が男の首を抱き、男は無造作に彼女の頭部を引き寄せて、その唇にキスしたのだ。
最初はごく軽く、続く二度目は…
ウソだろ?あんな…
激しく官能的なキスは、遠目にもかかわらず、ユージーンを更にフリーズさせるに十分だった。
とくダネ?いや、それ以上だ!
録画機器はどちらも作動させてある。
あの男が誰だろうと、ブリュンヒルデ妃はこれで終わりだ。
悲劇の巫女姫、伝説級の聖女とまで祭り上げられていても、この画像が公になれば言い訳は出来まい。
大体、聖女なんてものが存在するはずはないのに、大衆がいかにウワサに騙されやすいかなど、今更言うまでもない。
そう、だからこそだ。最高じゃないか?
堕落した聖女とは!
壊れた偶像、汚された神聖。
しかも彼女を引き摺り下ろすのは誰あろうこのオレ、ユージーン・マーレだ!
ゾクゾクする!
さあ、これ以上の長居は無用。
この証拠画像が没収されたり、損壊されたりすることがないように、無事にここから脱出しなければ。
ジリジリと後退しつつ回廊の手すりの切れ目を目指す。
よしあそこだ!
更に数歩そろりそろりと後ずさる。
そして一気に庭園に降りて、彼は一目散に駆け出した。
勝利と上々の首尾を確信しながら。
「何だあれは?」
回廊に残された2人とは、言わずと知れた正妃とその夫である。
跳馬でも跳ぶように、軽々と手摺を越えた盟主は、妻の腰に手を回して引き寄せた。
「まあなんでもいいが。珍しくお前から触れてきた以上、責任は取れよ。」
「後でね。」
「今がいい。そんな格好で誘ったのはそっちだろ♡」
押し除けようとした彼女の手は、手首を掴まれてウエストの後ろで固定され、自由を奪われた。もう片方の手首も同じく。
胸から下は彼の身体と密着していて、身動き一つ出来ない。
あっという間に身体と両手を封じられたが、盟主の片手は自由なままだ。
その手が、薄い部屋着の裾から入って、直接素肌に触れる。
「こ、こんなとこで…」
「俺は場所と体位は選ばない♡」
「ま、待ってってば!カイ、説明!」
「はいはーい。」
黒猫がひょっこり現れて、手摺に飛び乗る。
「お帰りなさいませ、ご主人さま。実はですね、」
黒猫がかくかくしかじかと状況説明をする間、聞いているのかいないのか、盟主は絶妙な力加減で愛撫を続けた。
さっきのキスの余韻もあって、盟主妃の頬と目の周りはピンク色に上気している。
これ以上平常心でいるのはムリ。足元から崩れ落ちそうだ。
身体は既に半ば溶け、あわや理性が溶けかけたところで、すっと愛撫の手が離れた。
安堵したのか、物足りないのかすらよくわからないうちに、その手がうなじを抱く。
ゾクリとした。
ワザとか偶然か、指先が耳と頸動脈のあたりを掠めたのだ。
その感触!
密着した身体から伝わる体温。
なんだか、からかわれているみたいだ。
こういう時は、少し彼が憎らしくなる。
いや、少しどころではない。余裕を崩さないその態度に腹が立って仕方ないのだが、どうしようもなかった。
カイの説明は続く。
「ここにお住まいの死霊の皆さんも、張り切ってエキストラをしてくださっているんですが、さっきの男、どうやら少し呪術系の才があるみたいで、真っ青な顔で逃げ出したんですよ。何が見えたんだか。あ、画像も音声も何も残ってないので、万が一あの男が無事ここを出ても、問題はありません。」
「で、他の連中は?」
「パーティーに参加してます。サルラがお相手するようですよ。ご覧になります?」
「ふむ。寝室でも見られるか?」
え?寝室って?
妃が戸惑う間もなく。
「御意。お任せを。」
と、黒猫が一礼した。
「来い、千絵。」
「お食事まだよね?そ、それにシャワーとか?」
「あとでな。」
ニヤリと笑って、彼は妻を抱き上げた。
あと?なんの後で?
…聞くだけ野暮である。そんな訳で、2人は寝室に直行した。
「ご主人さまって、やっぱり鬼畜系だなあ。まあ、そうでもなきゃ、いたいけなドラゴンのボクをかつらむきにしようなんて発想しないだろうけど。」
ウンウンとひとり頷き、カイは命令通りの中継リンクを構築する。
電磁波を自在に操る権能を持つカイにとっては、片手間仕事であった。
スクリーンもアンテナも、それから増幅や変換の機器も必要ない。
とんでもない権能なのだが、カイとしてはこの力を戦争に使うよりは、こんな些細で繊細な作業に使うほうが好きだ。
もし、破壊目的で戦争に使用したら?
惑星規模の殲滅戦を行う方が、この作業を行うより簡単だろう。
だから、彼は普段、戦闘行為を禁止されているのだ。
黒猫カイは嬉々として設定を終えると、通常警戒任務に戻ることにした。
よろしければ、次回もお付き合い下さい。