長い夜の片隅で④
「そう。それで漁師になったんだ。」
「うん。父さんも代々漁師だったしね。子供が金を稼ぐのは難しいけど、獲物を買い取ってくれてる店は、死んだ父さんの馴染みのとこだから。」
クルムは、短い竿の先につけた糸を交換して針を付けた。
さっきの騒ぎのあとで見たら、糸は途中で切れてしまっていたのだ。
「ここの川ってさ、他にいない獲物が色々獲れるんだ。水草もちょっと変わってるし、時々は宝石や砂金もとれる。
これって、離宮のおかげなんでしょ?」
「そうかもね。離宮内の小川とか池から移ってくるものがいるだろうし、君の友達は、姿形からすると、離宮の池に棲んでいるものの亜種かな?」
シャルのことだ。
カイは、シャルの姿をはっきり見てないはずだけど。
そういえば、植木屋のにいちゃん、龍一とかいう名前のあの人と、以前初めて会ったとき、シャルは全然警戒していなかった。
だけどカイの時は…
「ねえカイ?ドラゴン騎士って、どういう意味?」
「そのままだけど。ボク、ドラゴンだもん。」
「それって、マジで言ってる?」
「そう。ボクらドラゴンは、代々主家にお仕えしてきたんだ。今ボクがお仕えしているご主人様が龍一様で、お守りする方が姫様なんだよ。龍一様には護衛なんて邪魔なだけだもん。」
意味不明もいいところだ。
大丈夫か、この人?
「カイがドラゴンだから、シャルがあんなに怖がったってこと?」
「ごめんね。普段ならあんなことないんだよ。姫様のことで、ボク慌ててたんだ。ほんとごめんね。」
何なんだろう。カイって、アタマがちょっと不自由なひと?
「あ、うん、そんなのはいいけど。でもさ、警備の仕事は?さっきもなんか爆発したみたいなすごい音がしてたし、今夜は危ない連中が多そうなのに、僕なんかのために、こんなこと…、迷惑じゃなかったのかな?」
あの氷の人形みたいに綺麗なお妃さまが、命を狙われてることは知っていた。
夜、川にいると、怪しげな連中をよく見たし、ニュースの界隈じゃお妃の地位の争奪戦が面白おかしく扱われてる。
正妃さまになれる人はたった1人だから、その座を勝ち取るためには、今その地位にいる人を排除しないといけないんだって。
今まで、現実感はなかったが、今夜の様子を見ると冗談ごとじゃなさそうだ。
これ、すっごく深刻な事態なんじゃ?
だけど、カイはあっけらかんとしている。
「大丈夫だよ。龍一さまがお戻りになったし、そうでなくても、ここの戦力は過剰なんだから。」
カイはため息をつく。
「ボクってものがありながら…」
何かブツブツ言っているが、よく聞き取れない。カイがドラゴンで、警備責任者?
やっぱそこは冗談だよな。
でも、シャルの様子はおかしかった。
どうなってるんだろ、サッパリ分からん。
「お妃様って、すごく綺麗なひとだよね。カイはよく知ってるんでしょ?」
「ん?あー、あれでドレス着てすましてさえいたら、どっから見たって完璧な貴婦人なんだけどなあ…。それと、クルムさあ、姫様に会ったことあるじゃない。」
「…え?」
カイってば、何言ってるんだろ。
「僕なんかが会えるわけないじゃん」
「いーや、会ってる。ホラ、ボクとか龍一様が生垣の刈り込みしてる時、妃殿下はいつも一緒にいるじゃない?」
「いつも…?」
植木屋さんチームは、いつも大抵3人だ。
カイと、龍一さん。
それと…
「ええっ?あの…千絵さんのこと?」
「そうだよ。あの方がブリュンヒルデ妃だ。ボクがお守りする姫様ってこと。」
「はい?」
ますますわからない。
千絵さんは、確かにほかでは見たことないほど可愛いけど、まだ子供だと思う。
戴冠式のニュースで見たお妃さまは、近寄りがたいほど気品のある、大人の女の人だったはずた。胸とか、こう…
い、いや、それは置いといて。
紫と青の宝石で飾られた、豪華なティアラがよく似合ってた。
その宝石は全部ダイアモンドで、ティアラだけで首都中央区に豪邸が買える値段だとか、母さんが興奮して話していたっけ。
さすが連邦のファーストレディに相応しいティアラ、なんてね。
女の人って、服とか宝石に目がないよね。
でも、千絵さんがアクセサリーなんかつけてるの見たことない。優しくて綺麗で、よく話してよく笑う、普通のお姉さんだ。
ダブダブの作業服を着てたりもする。
植木屋の兄ちゃんの家族だとも言ってた。
「クルム、疑ってるね。無理ないかな。ウチの姫様、演技派だから。」
いや演技とかそういう次元の話じゃない。
とにかく、別人だ。絶対。
「でも、千絵さんもここに住んでるってことは、やっぱ危ないんじゃないか!」
「だからー、もう。心配ないんだったら。
そんなことより、ボク、漁を手伝うよ。
さっき君が言ってた獲物の一つが近くにいる。捕まえても良いかな?」
「え?うん、でも。」
クルムはそこで絶句した。
カイの姿が一瞬にして溶け落ちたように見えたのだ。
淡い月光のイタズラ?
いや、これってどう見ても…
「猫?」
消え残った草の間に小さな猫らしき姿があった。
黒っぽい身体だから、輪郭は夜に溶けたみたいに曖昧だけど、それは猫に間違いないだろう。
「そう、猫だよ。」
「わっ!」
突然口を聞いた猫に驚き、クルムは思わず後ずさって、尻餅をついた。
「カイ…?」
「うんボクだよ。じゃ、ちょっと行ってくるね。」
どこへ、と聞き返す前に、猫の姿がフワリと宙に浮かんで、川の流れの上へ移動した。水面から50センチくらいの高さだろうか。
その全身を淡い光が縁取る。
猫はそのまま、空中を川の中央方向へとなめらかに移動して、水に落ちた。
いや、水音はしなかったし、小さな飛沫ひとつ上がらなかったところを見ると、落ちたというより水の中に消えたという方が近いだろう。
クルムはただあっけに取られて、尻餅をついた姿勢のまま、猫が消えた川面を見つめた。
僅か10秒と経たない内に、川からフワリと舞い上がったものがいた。
さっき猫が消えた場所よりかなり岸に近いところである。
「え?」
呟いて、クルムは目を凝らす。
それは、一匹の魚だった。
「!?」
クルムは、慌てて立ち上がった。
「うそ…、エメラルド・タピア…?」
弱い月の光のもとでも、その輝きは歴然としていた。見間違いではない。
淡水魚マニア垂涎の希少種である。
この水系でのみごく稀に捕獲される種類で、繁殖が難しいことから高値がつく。
クルムは素早く網を差し出して、宝石のような小魚を空中から掬いとった。
「これで合ってる?」
突然頭の上から降って来たカイの声にただ頷き、慎重に携帯生簀に魚を移した。
全身を安堵が包む。
これなら、3ヶ月は楽に暮らせるだろう。
「じゃあ、送っていくよ。もう遅いし。」
クルムは、やっとカイを見た。
人間の姿で、隣に立っているけど、いつの間にそこにいたのかが全然わからない。
「あの、猫、あれは…?」
「ボクだよ。」
こともなげに答えて、カイは続ける。
「ドラゴンは変化する力があるけど、ボクは、人の姿はあまり上手くなくてさ。猫の方が得意なんだ。何をするのもね。」
「あ…その、ありがとう。」
「どういたしまして。」
細かいことはどうでもいい。
いま獲物を獲ってくれたのは間違いなくカイだ。
そのお陰で、家族みんながしばらく飢えずにすむ。
2人は河川敷を横切ると、クルムの家路についた。
一方、月の宮では。
「これは何事です、叔父上?」
「うむ。俺もよくはわからんのだが、サルラがな。」
「あれ、僕だけのせいですか?レヴィさまだって。」
メインホールの横にある、大食堂には、少なくとも40人以上の男女がいた。
一見すると、整然と椅子に座っているだけのように見えるが、彼らの表情がそうではないと告げている。
青ざめて、顔面の筋肉を硬直させている者や、放心状態で虚な眼差しを正面に据えたまま、微動だにしない者。
誰も話さないが、話すことができない様子である。
紫の宮は、ラフな部屋着姿で、首にはタオルを引っ掛けていた。シャワー後なのか、黒髪がまだ濡れているようだ。
ざっと見渡して状況を把握したらしく、小さくため息をつく。
「刺客か。この人数でバリアを突破したなら、大したものだ。指揮官は?」
「彼女です。」
と、サルラ。
「ふむ。以前、見かけたことがある。確かルイの部隊にいたな、傭兵。名は…カサンドラ・ヘイス。」
黒髪の女が、目に絶望を浮かべて紫の宮を見た。最初はまさかと思ったが、この声!
なぜ、彼がここにいる?
そして、彼の後ろから、ひょいと食堂を覗きこんだ小柄な姿。
何の装飾もない部屋着にノーメイク、しかし、その顔は!
兵士たちの何人かが動揺した。
ターゲットに間違いなかった。
長いまっすぐな黒髪と、整った小さな顔。
この離宮の女主人、ブリュンヒルデ妃。
「お腹空いたわ。皆さんは?」
平然と言いはなつ声は、よく通る。
紫の宮は苦笑まじりに彼女の肩を抱き寄せた。
「カサンドラ。俺がわかるよな?ついでに紹介しておこうか。」
紫の宮は、妃にキスした。
「妻だ。最愛の。」
食堂内に深刻な動揺が走る。
が、ブリュンヒルデ妃はそんな空気にお構いなしに、夫を押しのけた。
頬は、遠目にもわかるほど赤い。
「もうっ!よくそんな歯の浮くようなセリフが出るよね?信じらんない!」
「今更照れるか?8年連れ添った夫に?」
別の種類の動揺が室内を席巻した。
『犯罪だ』
という言葉が、声なく飛び交う。
彼らは、ターゲット・ブリュンヒルデ妃の実年齢を知っていた。
8年、ということは、16歳で結婚したことになる。
それでもかなり危ういが、目の前の妖精のような少女と、寒気がするほどに美しい、優雅だが肉食獣めいた男、しかも多分神族との異類婚となると…。
兵士たちは、黒の宮の呪縛によって、ろくに身動き出来ない状態に置かれていたが、
この時、全身を縛る不可視の鎖が解かれたのを感じた。
かといって、そのまま座り続けるほかに何が出来ただろうか。
彼らは、熟練した兵士たちだ。
どんな時もチャンスがあれば逃すはずはなかったが、呪縛からの開放はチャンスではないことを、全員が感じていた。
おかしな真似をすれば、瞬殺される。
ためらいも、慈悲もなく。
そのことを全員が本能的に悟った。
それだけ優れたチームである証だ。
だが、状況は最悪に近い。事前情報は前提からして間違いだった。
その証拠に、15代盟主がここにいる。
当代盟主は、神族最強と言われる怪物で、厳格公正な為政者としても知られている。
最愛の妻、と彼は言った。
戯言ではあるまい。
その女性の命を奪おうとした者がどうなるのか、考えるまでもないだろう。
重い空気が流れる…
評価、お付き合い、今後もよろしくお願いします。