四面楚歌?
重い沈黙。
ローザは目を閉じたままだった。
彼女を、そして祖父を陥れた人物が誰なのかはもうわかっていた。
正確には、今までは理解したくなかっただけなのかもしれない。
疑いだせば、いくらでもヒントはあった。
乳母は、ローザを育ててくれた女性だ。
疎遠な父母とは違って、幼い日から彼女を見守り、慈しみ、いつもそばにいてくれた唯一の人。
容姿や人となりに、これといった特徴はないが、ただ穏やかに優しく受け止めてくれた。母と呼べるものがあるなら、彼女こそがそれだろう。
ロッシも無言である。
あの乳母が、ローザを操り陥れようとしたなら、もはや信頼できるものなど、どこにもいないではないか。
その結論は、あまりに衝撃的だった。
思い返せば、乳母はもともとローザの母方のツテで雇い入れた者だったかもしれない。
ローザの母は一族ぐるみ、完全に敵方と見做して間違いないから、乳母だけがシロであるはずはないのだ。
息子たち娘たちの反目と、足の引っ張り合いは、彼らが愚かであっただけが原因ではなくて、側近や連れ合いの仕業であった可能性も大きかった。
身内でいがみあっていれば、外部にしっかり目を配ることは難しい。その隙を突かれたということだ。
ロッシの企業帝国に、じわじわと浸透してきた者たちの存在は実に不気味だ。
だが本来のロッシならば、その影に気づいたら、身内の全てをもっと疑っていたはずだ。
それが、事ここに至ってようやくとは。
何という愚かさか。
悔やんでも悔やみきれない。
ただ、ローザがまだ生きていてくれたことだけが救いだった。
ノックの音に続いて、ドアが開く。
「邪魔するぜ。お嬢さん、気がついたんだな。まずは、良かった。」
「ああ、カリス捜査官。」
ドアの向こうに立ったエドガー・カリス。
その横に…
ロッシは、首を傾げた。
「その女性は…?」
医師だろうか?
それにしては、あまりに場違いな装いである。パーティにでも行こうというのか?
「ああ、こっちは監察官のアリスだ。オブザーバーだから、気にしなくていいぜ。まずは、お嬢さんを診察させて欲しいんだ。医者は連れてきた。」
2人の後から、医師らしき男が入ってきて軽く会釈した。
こちらは、病院スタッフらしく、ガウンとゴーグル、マスク、キャップのフル装備である。
そう、これが普通だ。
ここは司法省の病院なのである。
アリス、とかいう女性の服装がおかしすぎるのだ。類稀なる美女ではあるが…。
医師がモニターや点滴などを調べる間も、ロッシは女とカリス捜査官から目が離せないでいた。
それは、ローザも同じだった。
人目を引く長身の美女は、完全にリラックスしているように見える。
だが、カリス捜査官は、なぜか苦虫を噛み潰したような、深刻な表情なのだ。
2人の様子を見比べると、あまりに対照的で違和感しかない。
ローザの診察を終えた医師が、捜査官に軽く頷く。状態に問題はなさそうだ。
頷き返した捜査官が、ロッシを見た。
「早速お嬢さんのお話を聞きたいところなんだが、実はちょっとした問題が起きた。ロッシさん、あんた、今夜はここに泊まった方がいいぜ。」
「それはどういう…」
「あんたのボディガードに何かが起こったようだ。」
「…!」
ロッシは、弁護士と2人のボディガードを残してここに来た。
長くなるのがわかっていたから、弁護士は送り届けて再度駐車場で待機するよう、ボディガードには命じていたはずだ。
その彼らに、何かが起きた?
ロッシは、最悪の事態と解釈した。
ローザも、より青ざめている。
「車は一旦駐車場を出て、一時間程で戻って来たが、その時は3人乗っていた。その後、運転者は立ち去ったんだが、他の2人は降りて来ない。そして今、車の中には、生命反応がない。…人間の反応は、ってことだがな。」
最悪の想像か当たったようだ。
接地走行と飛行の機能を持つ車には、運転手は必要ない。
非常事態に対処するため、運転手と呼ばれるオペレーターを配置することはあるが、今回は護衛の1人が兼務していた。
ロッシの車は、通常のサーチを受け付けない仕様だが、カリス捜査官がハッタリや推測を述べているわけではないと、わかってもいた。
「立ち去った運転手というのは…?」
「ガタイのいい男性だ。」
ならば、弁護士ではない。
そいつが誰にせよ、敵には違いない。
「もう一つ。ここに侵入を試みた奴がいた。恥ずかしい話だが、通常のセキュリティは役に立ってなかったようだ。そいつは、この病室を目指していたと見ている。だよな、アリス?」
「そうですわ。」
外見以上に艶かしい声が続けた。
「ですが、排除しました。セキュリティは数段強化しましたが、内通者がいた可能性が否定できないのです。現在、調査中です。」
「調査が終わるまでは、内部の誰も信用出来ないってことだ。…だから、お嬢さんの意識が戻ったのに、医者まで外から呼ぶことになっちまったんだ。時間がかかった件については、司法省に代わって、あなた方に深くお詫びする。」
ロッシは、孫娘と顔を見合わせた。
司法省に侵入者?
内通者の存在?
悪寒がとまらない。
ロッシの体験に照らして、十分あり得る話だからだ。
長い長い年月をかけて慎重に行うならば、浸透出来ない組織などない。
不気味な悪意は、一体どこまでその触手を伸ばしているのだろう。
「簡易ベッドはすぐ用意できるが、安全が確保できるまで少し待ってくれ。それと、あんたの車だが…」
「ああ。私が標的なら、何か仕掛けられているだろうな。」
何か致命的なトラップが。
駐車場に近づくことすら危険だろう。
威力の大きい爆発物が仕掛けられていたなら、周囲にまで危険が及ぶ。
「泊めていただくしかないようだな。」
誰が信頼できるかわからないのは、ロッシの部下や家人、使用人も同様だ。
ローザの不安そうな表情が痛々しかった。
彼女が案じているのは自分自身ではなく、祖父の身の安全である。
だが、朗報がないわけではない。
「敵は相当焦っているようだ。」
ロッシの言葉に、カリスが頷く。
「その通りだ。…詳しくは言えないが、敵の動揺を招く事態が複数起きたからな。このまま行けば、治安維持法の発令がありえる。」
「何と!」
ロッシは、特別捜査官の表情に納得した。
治安維持法。
有名無実と悪名高い法律。
あのスラム暴動の際、その発令は遅れに遅れた。
元老たちも評議会の議員たちも、発令決定の責任を負いたがらなかったから。
法は、市民生活を大幅に制限する、厳しいものである。
速やかに発令されたなら、スラム暴動は萌芽のうちに収束したかもしれない。
スラムが壊滅した原因を、発動の遅れに帰する者も多かった。
だが、22年前と今では事情が違う。
今は、盟主が在位しているのだ。
彼の一存で、治安維持法は直ちに発令可能である。
まずは、首都全域に戒厳令が発令されるだろう。
だがしかし…。
ロッシが口を開きかけたとき、アリスの声が嫣然と響く。
「エド、それにはもう少しかかりますわ。先ずは露払いをいたしますから。」
「あー。内部粛清かよ。こえーっ。」
「まあ、そんな人聞きの悪いことを。全てはマスターのご命令のままに。」ほほほ、と上品な笑い声をあげる彼女を、カリスは薄気味悪そうに眺めた。
アリスはあのモンスターAIの戦闘端末、ということは、喋っているのはラグナロクそのものなのだ。
無論、笑っているのも。
楽しげでお上品な笑い声とその仕草が、ただひたすら気味悪かった。
機械がどこからどう見ても人間にしか見えないなど、あって良いのか?
これならバルト少尉の方が、まだ人間らしくなくて安心できる。
逆説的ながら、少なくとも生物だという共通点があるから、人間らしさなどどうでもいい。
それに引き換えコイツは生命体ですら…。
「まあ、こわい。そんなに見つめないでいただきたいわ。」
「…!!」
このバケモノが!怖いのはこっちだ!
などと叫びたいエドだったが、流石に部外者の前では我慢しかない。
戦っても勝てる相手じゃないしな。
「あー、ロッシさん。車の方はとりあえず監視している。遠隔操作は出来ないようにシールドしてるんで、心配ないだろう。あんたは、悪いがお嬢さんと同室で頼む。」
ロッシが頷く。相部屋の方が安全確保も監視も楽なのは承知だ。
「それじゃまた。お嬢さんも、ゆっくり休んでくれ。」
医師の処置が終わったのを見計らい、3人は、一旦病室を後にした。
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