石回廊の夕暮れ
「そうか。何があったかはわからないけど、緊急会議はかなり大規模だったからね。正妃殿下に関わることなら、それも仕方ないかな。」
夕暮れ迫る、石回廊のテラスである。
小さな石のテーブルを挟んで、2人は椅子に腰掛けていた。
常になく鮮やかな夕焼けが、周囲をオレンジ色に照らしている。
物思いにふけって、回廊を歩いていたサーニは、真正面からリューと出くわしてしまったのだ。
沈んだ彼女の様子に気付き、理由を問いかける彼に、サーニは、盟主の早い帰宅と、妃の様子を打ち明けた。
守秘義務という言葉がちらっと浮かんだが、そんなことより、今何が起きているのかが気になる。
「さっきね、義理の姉から、連絡が来たんだ。内容は問い合わせ、かな。」
彼の義理の姉といえば、次兄の配偶者である、マルガレーテだろう。
長兄は離婚していて、再婚はまだだ。
「たしかフィン商会のお嬢さまよね。」
「ああ。彼女は実業家としてやり手で、目端がきくし行動が早い。実家であるフィン商会だが、魔法や呪術関係の商品を手広く扱っていて、あまり知られてはいないが、マーゴ義姉さん自身、その方面の能力者でもある。」
マーゴ義姉さん?あら、リューはその人と親しいんだ。
軽く胸がざわつく。
どんな人がは知らないけど、お金持ちなのは確かね。
「リマノにはいくつかの危険な場所があるだろ。ここもそうだし、スラムの中心とかね。そういう場所の一つが、消えたんだそうだ。」
「え?」
意味がわからない。
「有名な場所ではないけど、常に封印に気を遣わないと危険な魔所なんだって。昔、疫病が流行ったとき、数万人の遺体を埋葬したところで、今でも危ないってさ。
そこが今日、浄化されたって。
だから、義姉さんたちの業界も大騒ぎになってる。
それに、ドラゴンと、ありえないほど強力な、巫女の聖力が関わってたからさ。
そして、緊急会議だ。僕がここでお世話になってることを、義姉さんは思い出したってわけ。何か知らないか、って。」
サーニは、皮膚が、ちりちりと粟立つのを感じた。
数万の死者?
その怨念の魔所?
いつになく疲れた様子の妃‥?
やらかし、って、そんなまさか?
「大変・・。」
思わず腰を浮かしかけた。
まさか、とは思うが、そのまさかが現実になるのがここだった。
だが。
サーニは、脱力する。
後は引き受ける、と、退出を命じられた。
一介の侍女にできることはない。
「心配しないで、サーニ。大丈夫さ、きっと。義姉さんには、僕は何も知らないって答えた。それに、姫さまは、何も悪いことをした訳じゃないでしょ。」
「それは、そうだけど…。」
夕日に照らされた、リューの赤い目は、燃えるオレンジ色の、透明な宝玉のようだ。
見ていると、不思議に落ちつく。
「そうよね。無茶かもしれないけど、決して悪いことをなさった訳ではないもの。」
リューは微笑んで頷いた。
「陛下がお怒りだとしても、それは姫さまを心配してのことでしょ。対外的な処理なんて、陛下にとっては大した問題じゃない。まあね、義姉さんみたいな業界の人にとっては、売り上げに響くかもしれないけどさ。」
それはそうだろう。
そっち方面の能力のあるなしに関わらず、危険な場所や存在は、人々に不利益をもたらす。
個人的に護符を持ち歩く人も多い。
裕福なら、浄化能力者を雇ったりもできるが、高額な料金に対して、浄化できる範囲はわずかだ。
通常の武器では効果がない場合も多い。
見ることも感じることも出来ない人は、全人口の60%いる。しかし、危険と見なされるような存在は、誰にも等しく牙を剥く。
何が起きたか知らないまま、命を落とすことだってあるのだ。
だから、結局は護符の類いに頼らざるを得ない。護符は、いわゆるお守りで、呪具はもう少し範囲が広いが、こちらは諸刃の剣的な面があり、知識なしに使うと危険だ。
需要があるから、市場が形成される。
個人用の護符や呪具のほかに、もっと広範囲に影響を及ぼすものもある。
こちらは強力で、持続時間が長いだけに、高価でもあった。リューの義姉は、どちらも扱っているだろう。
そうした業界団体は、今回の件を嬉しく思わないに違いない。
庶民には大人気の正妃だが、もともと一部貴族たちからは、暗殺対象No.1とされるほど、忌み嫌われている。
サンクチュアリの巫女だか何だか知らないが、リマノ貴族ですらない、辺境出身の小娘が、唯一の盟主正妃として連邦に君臨するなど、あってはならない。
彼らはそう考える。
盟主がリマノにいる時代、それは、どの家門にとっても、千載一遇のチャンスだ。
一族から正妃を送り込むことができれば、その後の勢力図を書き換えることすら可能であろう。
まして、現在の盟主は、人間の女性とのハイブリッドだと囁かれているのだ。
それが本当なら、リマノ社交界で前代未聞の下剋上すら可能なのではないか?
彼らは単純にそう考えるだろう。
サーニも、そしてリューも、そんなことは無理だと知っている。
現盟主、紫の宮の母は、確かに人間ではあるものの、正妃と同じくサンクチュアリの巫女姫である。彼女に受胎が可能だったのは、黒の宮が昔、行った遺伝子工学実験の結果であり、休眠状態の神族の遺伝情報を持っていたからだ。
それでも、受胎確率は非常に低い。
だから、リマノの令嬢が仮に、神族と性的関係を結べたとしても、妊娠は不可能である。
しかし、彼らはそんな事情は知らない。
正妃さえ居なければ。
まるで呪文のように、そう考えてしまうのは、ある意味必然だった。
今回の騒動で、危機感を覚えた団体や個人は多いだろう。
そういった勢力同志の結びつきは、時間の問題だ。
敵の敵は味方。
彼らが結託することで、妃に対する暗殺の試みはますます熾烈さを加えるだろう。
殺すまでもない、そう考える輩もいる。
正妃が失脚すればいいのだ。
必要なのはスキャンダルである。
「何があっても、私は姫さまをお守りするわ。あの方は、私の恩人だもの。」
消えゆく残照を目に宿したまま、リューが頷いた。
「姫さまと龍一さま、レヴィさま、そして君。みんな僕の恩人だ。だから、僕も姫さまを守るよ。僕なんかにできることは、何もないかも知れないけどさ。」
夕日の色はゆっくりと消えていく。
迫り来る薄暮が、まもなく回廊を紫に染めていくのだろう。
更に群青から闇の色へ。
月の宮に、夜が忍び寄ろうとしていた。