公私の私
ところ変わって、月の宮の浴室である。
妃の私室に隣接する設備で、寝室側からも出入りが可能だ。
浴槽にはブリュンヒルデ妃。
傍の椅子には、専属侍女サーニ。
いつもなら、妃は自分で全てを行うので、サーニが入浴に関わることはないのだが、
今日の妃は非常に疲れた様子だったのだ。
午後半ば、バルト少尉に付き添われて帰って来た彼女を見て、サーニは驚いた。
朝の出がけには、黒猫を一匹だけ連れて、踊るような軽い足取りで、宮を後にしたはずだ。
それなのに帰った時は、少尉に抱えられるようにして歩き、顔色もあまりよくはなかった。
「それにしても、信じられません。」
「何のこと?」
「少尉です!姫さまの入浴のお世話をしようとするなんて!」
「ああ。でも、初めてじゃないのよ。カイは着付の技術も完璧だから、手伝って貰うこともあるわ。それに、私には、彼はドラゴンにしか見えないの。何か不都合があるかしら?」
そういうものなのだろうか。
サーニにとっては、少尉は人形みたいに無表情な、人間の男性にしか見えない。しかし、妃の能力ならば、彼の擬態を透かして本性が見えるのだろう。
この、妖精のような人の着付けや、入浴のお世話をするドラコン?
アリかもしれない。
それはそれで、神話の1ページを描いた絵画そのものだろう。
だがしかし、そのジャンルは、時々18禁の世界に繋がっているのでは?
異類婚姻譚って、好きな人は大好きよね。妄想を広げやすいのかしら?
唐突に、リューの顔が浮かんだ。
ナイチンゲールに変えられていた彼。
それで、嘴にキスしたら人に戻って・・
あの、唇の感触って・・ああっ!
ダメだわ!そんなこと、思い出してちゃいけないでしょ、サーニ!
今は仕事中なのよ?しっかりしなきゃ!
何で思い出しちゃうんだろう?
私ってまさか、世間でいうスキモノ、とか、痴女なのかしら?
そんな!でも、ひょっとしたら?
「サーニ、あなたって…。」
ハッと我に帰る。
入浴中の妃と目が合った。
「な、な、何でしょう、姫さま?」
「面白い!見てて飽きないわ。」
目を輝かせつつ、くすくす笑う彼女は、帰ってきたときよりは、かなり回復したようだ。
目の下のクマが薄くなり、頬が上気して、漆黒の長い髪とのコントラストは、さすがの美しさである。
「それで、サーニ、彼とはどう?」
そう聞かれた。一瞬で、サー二は真っ赤になってしまう。
「ど、どうと仰られましても。」
それから言葉が続かない。
「ふうん。好きなのね。」
妃は、にっこりと笑う。優しい笑顔だ。
そ、そうだったわ。
姫様に感情は隠せない。
サーニはさらに狼狽えそうになる。
慌てて話題の転換を図ってみるが、咄嗟に何も浮かばず、仕方なく臨時ニュースに頼ることにした。
「そ、それより、陛下が緊急会議を召集されたとか。一体、何事でしょうか?」
少し前、携帯情報端末に入ってきた臨時ニュースだ。
「あ…それ、ニュースになってたの?」
「?はい。速報で流れていました。詳しい内容は分かりませんが、あの、どうかされましたか、姫さま?お顔の色が。」
明らかに青ざめた妃。
苦し紛れの話題転換が期せずして成功した形である。
妃は小さく何事か呟いた。
やらかしたわ、と聞こえたが、サーニには意味不明である。
「はい?あ、あの、姫様?」
「やらかした自覚はあるんだな?」
突如、2人の頭上から降ってきた、静かな声。
「龍一さま。」
サー二は慌てて立ち上がり、一礼する。
え?ドア、開かなかったわよね?
それに、こんなに早い時間に戻られるなんて、会議はどうなったの?
頭の中は?だらけだ。
妃のいつにない沈黙も気になるが…。
とにかく、まずはご挨拶。
「お帰りなさいませ。」
「ただいま、サーニ。さて、どうするんだ、千絵?記者会見でも開くか?」
バスタブの縁に座って、彼は手にしたタオルで彼女の長い黒髪を包んだ。軽く叩くように水気を拭き取っていく。いつもそうしているように、手慣れた仕草である。
「龍ちゃん、お仕事は?」
「今日はもうやめだ。誰かが、とんでもないやらかしを仕出かしたからな。
サーニ、あとは俺が引き受ける。もうさがっていい。」
実質的に命令である。サーニは一礼して、浴室から退出した。
妃の様子が気になるが、一介の侍女ではどうすることも出来ない。
各室の点検作業を機械的にこなしながら、首を傾げる。
会議の召集は、姫さまと関係があるってことかしら?やらかし、って?何かわからないけど、あまり穏やかじゃない。
龍一さまが、お仕事を切り上げるのも、滅多にあることとは思えないけど。
何かよくないことでも起きたのかしら?
考えても仕方ない。ため息をついて、彼女は次の仕事に向かった。
「何故だ?」
至って静かな声である。が。
「怒ってる?」
「そうだ。」
しばしの沈黙が流れる。
バスローブ姿でベッドに座った妃と、向かい合った椅子に座る紫の宮。
「会議はどうでもいい。対外処理をするのは、俺の仕事だ。だが、約束したな、無茶はしないと。約束を破るのは、何度目か覚えているか?」
「公私の、私ってこと?」
「そうだ。」
「ごめんなさい。心配かけて。」
「ほう?しおらしいフリは出来るんだな。だが、また繰り返すんだろう?ん?」
「だって。」
「放っておけなかった、と?」
妃は、こくりと頷く。子供のような仕草。
男の長く力強い指が、黒髪の一房に絡んで、それを弄んだ。
「事態を知って、心臓を刺されたように感じた。頼むからもう勘弁してくれ。」
「ごめんなさい。」
「言葉はあてにならない。お仕置きが必要だろうな。おっと、逃げるな。」
反射的に身体を引こうとして、彼女は逆に彼に引き寄せられ、その膝に抱き上げられた。髪をかき上げる感触に続いて、うなじに唇が触れる。背筋に、悪寒に似た戦慄が走った。
「どうして欲しい?朝まで、時間はたっぷりある。」
耳元で囁く声は甘くて滑らかだが、隠しようもない欲望に濡れている。
同時に彼女は、彼の恐怖も感じていた。
切ないまでの執着。
そして、身体を引き裂いてもなお癒されないであろう、深く果てしない悲しみ。
かつて、瀕死の彼女を見つけた時の、彼の絶望の記憶。
それに触れたら、彼女には何も言えなくなってしまう。無鉄砲で軽率だったのは、確かに自分の落ち度だった。
そのせいで、彼をあんなにも苦しめてしまった。謝って済むことではない。
だけど。
「卑怯だわ、あなた。」
「そうだな。」
笑みを含んだ声。背後から抱きしめられて身動きがとれない彼女の、バスローブの合わせから、彼の手が忍び込んだ。
触れられた素肌が熱い。
出そうになる声を抑えるため、唇を噛む。
「以前も言ったろ。俺は卑怯な男だし、お前を側に置くためなら何でもする。」
そのためになら、彼女の罪悪感をとことん利用することも、彼にとっての必然だろう。
全身全霊を持って、彼は彼女を求めている。
そのことがはっきりとわかる。わかってしまう。どうしても拒めない。
なぜなら、彼女もまた彼を求めているから。
あらわになった方の肩に、唇が触れた。のけぞるあごを、彼の指が掴んで、顔を横に向かせる。
そのままキスされ、同時に、喉を焼く液体が口移しされた。強い蒸留酒の香りが彼女の鼻腔を満たす。彼女は、アルコールが苦手だ。それを知りながら強い酒を飲ませた理由は…。
「卑怯者!」
「それは褒め言葉だな。アルコールは感覚を鈍らせる。こうでもしなければ、お前はすぐに気を失ってしまうから、俺が十分楽しめないんだ。さて、覚悟はいいかな?」
返事はできなかった。尋ねた本人が濃厚なキスで唇を塞いだせいだ。
まだ、陽が落ちてさえいないのに。
夜はまだ始まってもいないのに・・・。