揺れる思い
翌朝。
サーニは、いつものように身支度を整えて朝食の席についた。
今朝は、まだリューの姿を見ていない。
彼のことだから、昨夜も遅くまで、フィールドワークの整理をしていたのだろう。
学者バカ、まさにそれが、彼だ。
あれから2日、彼とほとんど話すことなく、すれ違う時間ばかりが過ぎた。
それでいいと思う。
たまに、遠くから視線を感じることがあるだけで、今は十分。
ふたりのこの先は、なくてもいい。
でも、本当に?
気持ちが揺れている。
気がつくと、彼の姿を探して、庭園の方を見ている自分がいた。
初恋が甘酸っぱいなんて、誰が言った?
私、ほんと、馬鹿みたいだ。
変に浮ついてたり、ぼんやり夢みたいなことを考えてたり、こんなの、病気でしょ。
しっかりしろ!サーニ・ナルシオン・ダ=リマーニエ!
こんなんじゃ、自分のご大層な名前にも顔向け出来ないわよね。
一人で生きてくんでしょ。
そのために、いまここにいる。
自分の足で立つために。
「サーニ、ごめんなさい、お食事中に。」
入り口からひょいと顔をのぞかせたのは、彼女の女主人、ブリュンヒルデ妃だった。
「ちょっと外出するわ。お留守番、よろしくね。」
それだけ言うと、彼女はひらりと立ち去る。人というより、森から一瞬顔を出した仔鹿みたいな軽やかさで。
その足元にいたのは、小さな黒い猫?
あんな猫、ここにいたっけ?
え、そ、それより、外出って!
サーニは、慌てて立ち上がって、後を追おうとするが、もはや手遅れだった。
ここから住人が外出する方法はいくつかある。本宮の何ヶ所かに直通のゲートはその一つだ。盟主が通勤に使用しているものは、内陣を囲む闇に通じていて、迂闊に踏み入ったら命にかかわるとの注意を受けていたが、それ以外はさほど危険ではないという。
まあ、ここの住人の基準では、だが。
妃と黒猫の姿は既になく、どのゲートからどこへ向かったかは、わからない。
呆然と立ち尽くすしかないサーニだった。
「おはよう、サーニ。どうした?」
「あ、レヴィさま。おはようございます。」
黒の宮の姿を見て、サーニは少しほっとした。歴史上稀にみる極悪犯罪者、のはずなのだが、何故か彼女はこの神族が嫌いではない。
何より、リューを助けてくれた人だ。
新月の東屋から、リューを連れ出すことは、人間には不可能だったのだから。
感謝してもしきれないだけの恩がある。
「レヴィさま、実は、姫様が。」
外出の件を告げると、彼はひとつ頷いた。
「結局、そうなったか。君は心配しなくてもいいよ、お嬢さん。」
「何があったか、お聞きしてもよろしいでしょうか、レヴィさま?」
「そうだな。知っておいた方がいいだろう。フランツ、君もだ。」
え?リュー?
廊下から、おずおずと現れたのは、赤い目の学者バカ、フランツ・リュートベリだ。
「2人とも、そこに掛けてくれ。」
サーニとリューは一瞬目を見交わして、黒の宮に従った。
異世界の魔物について、ざっと説明を聞いたが、サーニにはそれと妃の外出との関係が分からない。
が、聞き終えたリューの表情が、強張ったのが気になる。
「では、ブリュンヒルデ様は、まさか?」
リューの質問に、黒の宮は頷いた。
「ああ。探すつもりだろうな、その吸血鬼を。」
「そんな!」サーニは青ざめた。
「千絵は、猫を連れていただろう?」
「は、はい。黒い猫でした。」
「ふむ。ならば滅多なことはあるまい。あやつならば、あのジャジャ馬を、何としても守り抜くだろう。だから、今は、そっちは忘れていてもいい。そこで、フランツ、君の意見を聞きたいのだが?」
「僕ごときでお役に立てるなら、何なりとご下問下さい。」
若い学者は、背筋を伸ばし、姿勢を正す。
表情は決意に満ちて、緊張感とともに、誇らしさで輝いてもいた。
黒の宮は、人類史上最悪の疫病と闘い、これをねじ伏せた天才としても名高い。
研究対象は違えど、そのような偉大な学者と直接意見交換ができるチャンスなんて、望んでも得られるものではないのだ。
それから始まった2人の会話は、サーニにとっては、とても理解できるものではなかった。
医学的な内容、たぶん、生理学かしら?
薬理って、薬の作用に関係したことね?セイリカッセイって、何だろう?
そんな内容から、次第に、リューの専門分野である、生態学へと話題は移るが、専門用語が多過ぎて、ちんぷんかんぷんなのは変わらない。
『リューの表情は、この上なく真剣だわ。私がいることなんて、すっかり忘れたみたいね。だから、こうして彼を見つめていられる。』
話の中身は相変わらずサッパリで、サーニ1人だけが置き去りにされている。だけど、少し幸せな気分で、サーニは、透明な赤い宝石の色をした、彼の目を眺めた。
やっぱり、大好き。
初めてあの温室で出会った時から、この色を忘れたことがあったんだろうか?
たぶん、忘れたことなんてなかった。
これからだって、忘れはしないと思う。
リューが、私を忘れても。
「では君は、その吸血鬼が、宿主と共生関係を築く可能性があると?」
黒の宮の問いに、リューは頷いた。
「前例は少ないのですが、憑依型の妖物の場合、宿主との共感関係が生じることがあります。つまり、一方通行ではなく、互いに意思疎通が可能になるし、ギブアンドテイクというか、契約関係に似た協力関係が築かれることがあります。僕は、今回のケースについて、その可能性が高いと考えています。理由は、」と、リューは、いくつかの推論を述べた。この内容ならサーニにもついて行ける。ただし、それが現実なら、決してありがたくはない。
つまり、誰かが、自分の目的のために、その魔物と手を組んだってことよね?
殺人も、ひょっとしたら、操られてしたことじゃないかもしれないんだ…。
リューは、専門家だわ。
結局、魔物だけの発想では、傷痕を綺麗に隠すことは難しい、そういうことなのね。
結論は出なかったが、このイヤな可能性について、黒の宮とリューは合意に達したらしい。
「少し調べてみよう」そう言うと、黒の宮は席を立った。
続いてサーニも立ち去ろうとしたが、
「待って、サーニ。」
と、リューに手を押さえられ、再度座り直すことになった。
「何?」
「あの。僕、ちゃんと言えてなかったと思うんだ。鳥だった時、君に会えてなかったら、僕はいまこうして人の姿に戻れてなかった。ありがとう。」
「あ、それは、レヴィ様がいらしたからで、私なんて何にもしてないわ。」
キス以外なんにも、だけど。
リューは、一度目を伏せ、正面からサーニを見つめた。その目は、怖いくらい真剣だった。
「上手く言えない。でも、君でなきゃダメだった、それだけは確かなんだ。鳥の時の僕は、ずっと、夢みたいな幻の時間を生きてた気がする。自分が何ものかすら忘れていた。君が来てくれたから、いま、僕はこうしていられる。ありがとう、サーニ。」
サーニは言葉を失ったまま、リューを見つめる。
しばし無言の時が流れた。