シャ=ル・レイン
シャ=ル・レイン。
それは、伝説の巫女姫だ。
遠い昔、異界から先代魔王により拉致されてきた人間の女性であると、魔族の伝承は言う。
この美しい姫を、魔王は寵愛した。
その後、彼女は魔王との間に双子をもうけた。
その片割れこそ、当代の魔王ベルゼと伝えられている。
「なんかなー。俺にゃ訳がわからんが。」
ガラムは、早くも考えることを放棄したらしい。あるいは、自己防衛本能から来る逃避行動かも知れない。
どちらにしても、無理もなかった。
第一古すぎる話である。長命種である魔族の間ですら伝説の時代の出来事だ。
「しかしね、この世界にとっては数千年前でも、シャ=ル・レインの世界てはたった千年程度前の話ですから。さてカミラ、肖像画の間への道を開いて下さい。」
黒衣の少女は一礼した。
「承知しました。皆様、どうぞこちらへ。」
一同の前に、黒い扉が現れた。
ただ1枚のドアだが、カミラがそれを開くと
「○○でもドアだ!」
「同感。」
「何で龍ちゃんが知ってるの?」
「俺だって、子育てしたからな。」
「ふーん。アニメとか、見せてくれたことないじゃん。」
冷たい視線。反射的に目を逸らしたのはやはり龍一だった。
ドアの向こうは、別の部屋だ。
そのまま足を踏み入れると、床に敷き詰められた絨毯の感触が足裏に伝わる。毛足が短い、緻密な織物には、複雑な唐草模様が織り出されていた。
繊細かつ正確な細線は、名工の手になるものと見える。
豪華絢爛とは、まさにこの部屋のためにある言葉か。タペストリーや燭台、椅子やテーブルのどれをとっても、絨毯にふさわしい逸品のみで構成されていた。
正面には、布で覆われた絵画らしきもの。
カミラが軽く指先を動かすと、布が半分外れた。
肖像画だ。椅子に座る少女は、濃い紫に金をあしらった華麗な衣装を纏っている。
だが、表情は奇妙なほど虚なものだった。
そして、その顔は…
「私?え?これって…」
カミラはうっとりと頷いた。
「シャ=ル・レイン様です。」
「遠い昔先代の魔王、〝魔皇ジャルドス・ロア〟は、この世界を平定後、ハーレムを築きました。己の子孫を残す、ただそのためにです。しかし、何百何千という女たちと交わっても、受胎するものはいませんでした。カミラ?」
「はい。ご説明いたします。私は、ロア様の主治医でしたが、専門は産婦人科です。彼の方は、本当に桁外れの魔力を持つお方でしたが、そのせいでお子様をなすことが極めて難しかったのです。」
カミラの説明によると。
ざっと千年もの間、ありとあらゆる女や魔法、薬草の類など、考えられる全てを試しはしたが、結果は惨敗だった。
先ず受精自体が難しいのだ。彼の精を受けた卵子は、すぐに破裂して死ぬ。銃で風船を撃つようなものである。
仮に魔法で受精まで漕ぎ着けても、着床時同じことが起きる。その場合、破裂するのは子宮だ。これは、魔法でも回避出来なかった。ならば、受精卵を取り出して、培養できないか。
これは、受精卵の生存本能によって阻まれた。取り出そうとすれば、魔力の暴走を起こし、受精卵も母体も死ぬ。
何度繰り返しても同じことだった。
魔王の出した結論は、魔族やこの世界の他の種族の女が無理なら、他の時空はどうか試してみる価値がある、ということ。
彼は自ら時空を渡り、何人もの女を連れてきた。
「…彼は、空間座標は支配できても、時間は操れなかったわけですか?」
龍一の質問に、オルデアはうなずいた。
「そうです。だから、息子によって殺されたのですよ。」
うっすらと笑みを浮かべる彼を、龍一は複雑な気分で眺めたが、表情には出さない。
まあ、大体話の成り行きはわかってきた。
しかし、なぜそれが可能だったのか?
いや、期待するのはまだ早い。
だが。もしも…!
「ロア様は、人間界で1人の少女を見初めて、無理やり連れ帰りました。これは、その方、後のシャ=ル・レイン皇后陛下がこの世界に来られて間もないころのお姿でございます。人間の基準で、17歳ごろのこととお聞きしています。」
「…!」
千絵は、ハッとした。
17歳と言えば、初めて彼と…。
チラッと龍一を見る。何故か彼と目が合って、今度は彼女の方が先に目を逸らせた。
頬が熱い。
法律上結婚したのは16歳だったが、彼は彼女を抱こうとしなかったのだ。だから自分から迫った。
彼を愛していたから。
彼が欲望を我慢し続けていたことを知っていたせいもある。
思い出すだけで、身体中がおかしくなりそうだ。
彼が容赦ない性格なのは熟知していたものの、アレはあまりにも…。
鬼畜の所業というか、何度も気を失っては身体を洗われ、手当てされ、いや、あれはないでしょっ!
じわじわと怒りが込み上げてくる。
「ロア様は、容赦ない方でした。極めて絶倫な方でもありましたし、女性は、彼の方にとっては、ただの道具に過ぎませんでした。瀕死の皇后陛下を診たのは私です。この肖像画は、生命を取り留められた数日後です。普通なら、瀕死にまでなられた場合には受胎可能性なしとして、2度と会うことすらないのが通例でしたが、何故かロア様は、その後も何度も…。」
悲痛な表情で話すカミラである。
千絵は、再度肖像画に目を転じた。
同じ顔。
他人の空似というには、あまりにも酷似している。
青ざめた虚ろな表情。
凍りついたように動かない目は、まるでガラス玉のように見える。
背筋がざわりとした。
いきなり攫われて、犯された。
逃げることは不可能。
そう、彼女自身、似たような目に遭ったことがある。あの男は、ナイフを…
目眩がした。激しい震え。
同時に崩れ落ちる身体は、力強い腕に抱き留められた。
彼の匂いが、遠ざかりかけた意識を呼び止める。懐かしく、暖かな匂い。
「ゆっくり息を吸え。」
「龍ちゃん…」
「大丈夫。ただのフラッシュバックだ。」
抱きしめられ、背中を摩られて、最悪のパニック状態はすぐ治った。
が、四肢の力はなかなか戻らない。
だから話の続きは、彼の膝に横坐りになったまま聞くことになった。
カミラが気遣わしげにチラチラと視線を投げてくるが取り繕う気力が湧かない。
もう忘れたと思っていたあの事件は、まだまだ千絵を解放してはくれないようだ。
彼女は、自分にこれ程弱い部分があることを情けなく思っている。
しかし、暴力の後遺症の本当の深刻さは、被害者にしかわからないだろうとも思う。
その後、魔王は、異界の少女を溺愛した。
彼女にとっては全くの災難以外、何物でもなかっただっただろうが、他の女には目もくれずにひたすらに彼女を閨に閉じ込め続けた。
激しい陵辱に耐え続ける日々の果て、彼女は身籠り双子を出産。
唯一の皇后とされた。
彼女が魔王に心を開くことはなかった。
反面、子供たちを愛し慈しんだことは確かで、時には魔王の暴虐から身を挺して子供たちを守った。
また、彼女によって救われた臣下も多く、彼女こそが皇后に相応しいと慕う者も多数にのぼったのだが。
「ロア様は、残酷で嫉妬深い方でした。皇后陛下が侍女に笑顔を見せられただけで、その侍女を殺害されたこともあります。」
魔王は、彼女を慕うものの存在を許せなかった。たとえそれが、あれほど待ち望んだ己の子供達であろうとも。
そして、悲劇は起きた。
魔王の逆鱗に触れた子供達を庇って、彼女は生命を落としたのだ。
魔王とて、そんなつもりはなかったのだろうが、駆けつけたカミラの必死の努力も虚しく、皇后は身罷ったのである。
その後の魔王は、まるで抜け殻だった。
強大な力はそのままだが、周囲の全てに興味を失ってしまったように見えた。
「そして、実の息子に殺された。」
歌うような美しい声でそう呟き、オルテアは肖像画の半分残った覆いを引き落とす。
そこには、座るシャ=ル・レインの横に立つ、1人の男の姿が描かれていた。
彼は、ほとんど人間のように見えた。
整った目鼻立ちは、かなりの美貌と言えるだろう。
金色の長い巻き毛は燦然と輝き、シャ=ル・レインとペアのような紫と金の衣装を纏う美丈夫である。
そしてその両眼には白目の部分がない。
片眼は漆黒、もう片方が金。
オルテアと同じ、特徴的な目だった。
「主人さまは、ロアさま譲りの目を嫌われていましたが、皇后陛下は気にもされませんでした。」
カミラが、懐かしそうに目を細めた。
「さて。カミラ、彼が一番知りたいことを伝えてください。」
「承知いたしました。私も老いましたわ。前置きが長くなったこと、どうかお許しくださいませ、盟主陛下。」
カミラがふわりと一礼した。
彼女には、重量というものが存在しないらしい。
「俺のことを?」
「存じ上げておりますとも、人間界に君臨なさるお方。神族皇家の東宮さまに、魔族皇家家令、カミラ・ヴォルティスがご挨拶申し上げます。」
「挨拶を受けよう、家令どの。では、説明を。」
「はい。結論から申し上げますと、お妃さまは無事ご出産あそばしますでしょう。」
「根拠は?」
「シャ=ル・レイン皇后陛下は、もともとがお妃さまと同じ一族につらなるお方。更に、我が主人の双子の妹君は、その後主人によって母君のご生家にお戻り遊ばされました。この方が、お二方にとってはご先祖に当たられます。また、皇后陛下は元々特殊な能力をお持ちでいらっしゃいました。私にもはっきりとはわからないのですが、その遺伝子はご子孫に代々受け継がれ、ある時点で再度活性化される性質のものて、つまり、お妃さまは、皇后陛下とほぼ同一人物です。」
「そして、シャ=ル・レインは、無事双子を出産した…まさか?」
龍一は、ハッとして千絵を見た。
「その通りです。お妃さまは、双子のお子様を身籠っておられるのです。」
まだもう少し続きます。
なかなか計画通りにはいきませんが、どうぞ最後までお付き合い下さい。