魔王の城
「さて。お茶にしましょうか。」
ティーポットを取り上げるオルテアの手首を、ブレスレットがサラサラと滑った。
金粉を撒いたかのように、細かな光が舞う。
「あー、アビスブリンガーだ!」
「おや。お分かりですか。」
「当たり前でしょ?だけど、アビスブリンガーはどうしてそんなにご機嫌なの?」
「さて。」
和やかな2人のやり取りだが、ガラムにとっては、どうにも釈然としない。
結界があると言われたが、どんなに意識を集中してもそんなモノは見えないし、臭いすらしないのだ。
嗅覚に特化したガラムは、微かな魔法の痕跡すら嗅ぎ分けることが出来る。
匂いと言えば、千絵の夫だというさっきの男も謎だった。
嗅いだことのない、不思議な芳香。香水の類いとは異なるから、それは彼自身の種族特有のものだろう。
あれは、何なのか?
同族ではないが、人間でもないだろう。
それでも、外にいるあの連中に対峙するにはあまりに脆弱に見える。
武器の一つも持たず、単身で?
さまざまな外見のバリエーションをもつ魔族の中には、肉体そのものが変形して武器となる一群がいるが、そういうタイプにも見えない。
寒気がするほどの美貌は、戦闘の役には立たないだろう。
それなのに、オルテアも千絵も、彼の無事については全く心配する様子がない。
どうなってるんだ?
「ガラムさん、お茶をどうぞ。」
オルテアに声をかけられて、ガラムは自分がいままでぼんやり突っ立っていたことに気付いた。
いつもの椅子に座り、カップに口を付ける。うん、うまい。いつもの味だ。
しかし。
「千絵は面食いだったんだなぁ。」
しみじみと言うと、千絵に睨まれた。
「あの顔、好みじゃないもん!」
「だがオメエ、あの男と結婚して、子供まで作ったんだろ?」
「それはそうだけど。龍ちゃんは、初めから家族なの。私を育ててくれた。」
「あー。訳アリってヤツか?」
「そう。まあ、色々あるの。」
「けどよ、自分で育てて嫁にするとか、それ、人間は普通なのか?」
オルテアがクスリと笑った。
赤くなった千絵に代わって説明を加える。
「どちらかと言うと、タブーでしょう。我々の感覚と変わらないですよ。しかし血は争えないと言いますか、あなたを手元に置きながら、彼が我慢するのは無理でしょうね。」
「血?何のこと、オルテアさん?」
「それも、龍一さんが戻ったらお話しします。もう少しお待ちなさい。」
さほど待つ必要はなかった。
帰ってきた龍一は、どこも怪我をした様子はなく、戦闘の昂りなど微塵も感じられない。
むしろ退屈そうだった。
「ご希望通りに。」
淡々とそれだけ言って、差し出されたカップを受け取る。
「どれくらいいましたか?」
「ざっと200。主力は砲兵、コマンド。だが、あれはホムンクルスですね。」
「そうでしょうね。自我ある生き物をお客さまに処理していただくわけには行きませんから。
龍一は、鋭くオルテアを見た。
「差し出がましいですが。結界を不可視にされた意図は何なのですか?」
「小競り合いが続いていましてね。飛び抜けた実力者が居ないので、各勢力があちこちで衝突しはじめたのです。ならば、ここに彼らを引きつけることで、多少なりとも巻き込まれる人を減らせないか、と。」
「抑止力が要るなら魔王が復帰すればいいのでは?」
「さて。それは少し難しいかもしれませんね。」
千絵と龍一は、思わず視線を交わした。
漠然とだが、その理由に思い当たる節がある。
が、先に目を逸らしたのは龍一だ。
気まずさと後ろめたさ、さらには今すぐに彼女を抱きしめたい衝動。
この衝動が問題である。
抱きしめて、それから?
押し倒し、着衣を…、いや、何なんだ?
俺はこんな場面で一体何を考えて…
狼狽はますます激しくなる。だが、妄想が止まらない。
そのせいで、体の一部に変化が起き始めていて、しかもそれがほぼ正確に、彼女にバレている。
千絵の冷たい視線が突き刺さるようだ。
『このヘンタイ色魔!色情狂!』
という心の声まで聞こえるような…。
そんな彼の内心など知るはずもないガラムは、2組の腕を器用に組み、首を傾げた。
「どうにも解せねえんだがよ、オルテア。地下牢の番人のおめえなら、知ってんじゃねえか?ベルゼ陛下はどこにいらっしゃるんだろう?魔王様が姿を消したから、つまらん小競り合いが起きてんだろ?もう、百年以上にはなるらしいが、魔王様は現状をどうお考えなのか。知りたいのは、俺だけじゃねえ。」
オルテアは、カップを回収しつつ頷く。
「なら、あなたもいらっしゃい、ガラムさん。ご説明しましょうか。」
「あん?どこへ?」
「上へ。」
転移は、一瞬のことだった。
最初そこは薄明の世界で、辺りには何ものも見分けることができなかったのだが。
次の瞬間、明かりが灯る。
「お…」
ガラムはそれきり言葉を失った。
広大なエントランスホール。
一口に言うならそういうことなのだが、そこは、全てが桁外れの場所だった。
先ず、スケール感が違う。
柱一つないホールは、野球場が観客席ごとすっぽりと収まる広さである。
遥かな高みの天井からは、幾つもの巨大なシャンデリアが吊るされていた。
その数は、100どころではない。
材質はローズクォーツだろうか、透明な薄いピンクを帯び、幾重にも光を反射して輝きを増幅している。
燦然たる灯りは、シャンデリアに灯った火
が光源なのだが、それは蝋燭の炎ではなく、複雑な樹木の枝のような細工の先端に直接燃えているようだ。
シャンデリアの材質が燃えているわけではなく、他に燃料らしきものもない。
一つのシャンデリアにつき、ざっと数百から千以上を数える灯。
それは、魔法の光だろう。
床もまた、薔薇色や白、アイボリーの大理石を寄せ木細工風に組み合わせ、磨き上げたものだ。その床を縦横に水路が走る。
あちらこちらの床から立ち上がる台座の上には、巨大な花器が据えられ、縁から溢れる花々と緑の枝葉が妍を競う。
馥郁たる香り。
これも、100どころではない数である。
花器から溢れているのは植物だけではない。泉のように、豊かな水が溢れるものもあれば、きらめく砂金を吐き出すものもあり、ワインを溢れさせている場所もある。
巨大なシャンパンタワーのように、何段にも分かれて流れ落ちる水や砂金は合流し、床の上で小川となる。
小川は黄金の柵で両岸を飾られ、要所には橋がかけられていた。流れはある程度まとまった後、ホールの中央あたりでどことも知れない奈落へと流れ落ちる。
それは、黒い穴。
直径50メートルをこえる穴の底は見えなかった。
壮麗。
全ては、ただその言葉に尽きる。
黒曜石や大理石、クォーツと形容するも、その素材は人間界のそれとは異質なものであろう。
物理や化学法則のある部分は似通っていても、どこか根本的に違うのがこの世界であるらしい。
「お帰りなさいませ、ご主人様。ようこそいらっしゃいました、お客さま。」
澄んだ高い声が響いた。
黒一色のドレスを纏った少女が歩み寄る。
今の今まで、彼女はどこにもいなかったはずだ。
波打つ黒髪に青白い肌、見開かれた大きな目、華奢な手足。無表情だったその目が、突然更に大きく見開かれた。
「お、お后さま!」
「え?」
この場に女性は2人だけであり、少女の目はまっすぐ彼女を見ている。だが、初対面であるのは間違いない。
少女は、ふわりと舞うような動作で、床に跪いた。
「このカミラ・ヴォルティス、再びお会いできる日を信じておりました。これでもう、思い残すことはございません。」
その言葉には嘘がないことを感知して、千絵の当惑は深まるばかりである。
「ごめんなさい。あなたとお会いしたことはないと思うのだけど…。」
カミラと名乗った少女は笑顔で頷いた。
白く透き通る頬に赤味が差し、大きな瞳は興奮にきらきらと輝いている。
「ですが、あなた様は我が主人のご生母、シャ=ル・レイン様に間違いございません。」
予定よりすこーし長くなりそうです。
次回もお付き合い頂けたらとても嬉しいです。