魔眼
キイィン!
澄んだ金属音が岩肌を打つ。
残響の中、龍一は驚きに目を見張った。
必中のはずの刃が弾かれただと!?
辛うじて剣を手から飛ばされることはなかったものの、柄を握る手は痺れていた。
「座りなさい、お若い方。彼女には睡眠が必要です。ああ、私のことは、オルテアと呼んで下さい。」
弾いてのけたのは、オルテアとその手に握られた一振りの剣である。
実に易々と。
オルテアの静かな姿も声も、一切動揺がない。
彼の膝に上半身を預けて眠る千絵は、何ごともなかったかの如く寝息を立てている。
未だかつてこれほどの手練れに会ったことはなかった。
剣どころか意思までが弾かれたようで、龍一は素直に勧められた石に掛けた。
目は、オルテアの嫋やかな手に握られた一振りの剣から離れない。
「オルテア殿、それは…」
「お察しの通り。アビスブリンガーです。」
神剣カルバウィングと双璧をなす魔剣、アビスブリンガーは、細身の剣である。
カルバウィングと同じく、西洋の剣というより日本刀に近い形だ。
これには鍔があるが、鞘はない。
カルバウィングには鍔もないのだが。
オルテアが剣を軽く振ると、剣はフッとかき消えて、代わりに手首には今まで無かったブレスレットが現れた。
オルテアの金髪と同じ色の、何十本という細く繊細な金糸で編まれた優雅な品だ。
サラリと手首を滑る涼やかな音がした。
ここにコータローがいればこう言ったに違いない。
『剣が喜んでいる』と。
「召喚したのは久しぶりです。貴方の叔父上にお貸しして以来ですね。」
閉じた目をブレスレットに向け、オルテアは微笑んだ。
「あなたは、俺たちのことをご存知だったんですか?」
「はい。タナトスの君から聞いていました。が、彼が知らない大事なこともあるのですよ。」
タナトス・レヴァイアサン。黒の宮。
最近も連絡を取り合っていたらしい。
「約束して下さい、龍一さん。それを説明するまで、短気は起こさないと。」
「しかし、結論は変わりませんよ。今でも、後でも同じことではありませんか。」
そうだ。子は殺すしかない。それがどれほど辛く哀しく、許されざることでもだ。
小さな命は、この瞬間も生きようとしている。
もしかして、無事産まれてきてくれるのではと、そんなお伽話めいた夢も見たが、所詮夢は夢。
千絵を守るためにはどうしようもない。
八方塞がりのジレンマからくる自暴自棄が、彼を毒し蝕み続けているのだ。
だが、龍一が懊悩する様子に、オルテアの笑みは深くなった。
「さあそれはどうでしょう。まずは見て、聞いてから判断してもよいのでは?」
見る?今更何を見せようというのか。
何者も現実を変えることは出来ない。
しかし、彼女を保護してくれた恩義はある。
フッと息を吐いて、カルバウィングの実体化をキャンセルした。
「お任せします、オルテア殿。」
「結構です。さて、その前に片付けねばならないことが起きたようですね。」
閉じられた目が、入り口の方を向いた。
龍一は、誰かがここへ走ってくることには気付いていたが、現れたものの様子にハッとした。
2対4本の腕をもつ異形の大男だが、問題は姿形ではない。
その者、ガラムは、血まみれだったのだ。
「オルテア!敵襲だ!」
「そのようですね。こちらへいらっしゃい、手当てしましょう。」
「俺のことなんかどうでもいい!逃げろ!あいつら、俺を見るなり撃ってきやがった!」
走って来たせいか息が上がっているが、出血量の割には軽症、と判定して、龍一はオルテアに視線を向けた。
今この地がどのような状況にあるのかは分からないが、しかしこれはあり得ない。
この4本腕は、少なくともオルテア側の者であろう。
それをいきなり攻撃した?
撃ってきたというのは銃器の類だろうが、残留魔素からして、何らかの属性の魔力弾が使用されたと見える。
龍一がそこまで考えたタイミングで、4本腕はようやく見慣れない客に気付いたようだ。
同時に、オルテアに凭れていた千絵が顔を上げた。
騒ぎで目が覚めたらしい。
「龍ちゃん!」
「千絵…。」
辛うじて名を呼びはしたが、後の言葉が続かない。
反射的に彼女から目を逸らしてしまった。
狼狽。
それが最も適切な形容詞だろう。
ひどく後ろめたくて、間抜けな気分だ。
浮気現場を見つかった男はこんな感じなのだろうか、と、場違いな考えが浮かぶ。
気まずい…。この場から逃げ出したい。
幸いなことに、彼女の注意はすぐに龍一から逸れた。
「ガラムさんどうしたの!?怪我してるじゃない!」
「千絵、いいから逃げろ!」
「私は大丈夫。ていうか、これどういうこと、龍ちゃん?」
俺に聞くな、こっちが聞きたい。
答えようもなく、再度オルテアを見る。
つられて、残る2人もオルテアを見た。
彼のみが落ち着き払って、口元に苦笑らしきものを刻んでいる。
「ガラムさん、手当てが先でしょう。大丈夫、あなたを襲った人たちは、ここに入ることは出来ません。」
「?」
ガラムは訝しげに首を傾げた。
わかっていないのは、この場で彼だけなのだが。
「あのね、ガラムさん。ここにはすごく強力な結界があるの。だから、オルテアさんが許した人しか入れないわ。」
龍一は思わず頷いた。その通りである。
結界の存在は知っていたし、入れなければ押し通るつもりでいたが、結果としてその必要はなかった。
「はあ?ンなもん、見たことも聞いたこともねえや。」
「ガラムさんは、許された人だから。感じなかったのも普通。」
「ということです。」
オルテアは澄ましたものだ。
ガラムにとっては、結界など影も形もないだろうが、それは実在し、とてつもなく巨大かつ壮麗な、魔法による構築物である。
龍一と千絵は、岩屋の低い天井を透かして遥かな上空まで続いている、塔のようなその姿を感知することが出来る。
巨大な伽藍のように、幾重にも重なる積層構造は、緻密で繊細だ。
美しい、と龍一は改めて思う。
この美しい結界を破壊せずに済んで良かった、と。
だが、魔族にはこれが見えないのだろうか?
ふとそんな疑問が湧いた。
「ねえオルテアさん、何でこんなことになってるの?そうそうあることじゃないんでしょ?」
「レアケースですね。」
「そうだよな。俺が門番になって10年経ったが、こんなこたあなかった。そもそも、この城を取り巻く、黒水晶の森を抜けてくる者なんかいなかったんだ。」
千絵の顔が輝く。
「黒水晶の森!それって、何?お伽話みたい!」
「は…?オメエ、あそこを通って来たわけじゃないのか?それに、あー、その?」
ガラムの視線を察して、オルテアが簡潔に双方を紹介する。
「彼が千絵さんの夫です。龍一さん、彼はガラム。この城の門番です。」
話しながら、オルテアはガラムの怪我に軽く手を翳した。
治癒魔法。
それも、非常に高度な術式ある。
使い手が稀有な属性であり、膨大な魔力が必要なことから、魔法が日常的に使用されているこの世界でも、あまり実用的と見做されてはいないのだが。
オルテアならば、魔力量は全く問題ないことは、龍一と千絵にとって当たり前だ。
しかしガラムはそう思っていないらしい。
「どこまで器用なんだよ、オメエ。」
完全に塞がった銃創に、目を丸くしている。
「火と風、ですか。」
傷に残留していた属性のことらしい。
「お、おうよ、多分な。サントマーレンだと思う。何をとち狂ってんだか。」
「ガラムさん、それって誰?」
「おう、サントマーレンは、シュレージュってとこの支配者でよ、実力者の1人なんだがしかし、この辺りで発砲するほど分別がないはずが…」
ガラムは困惑顔である。
オルテアは、ため息をついた。
「隠遁が長過ぎましたかね。私としては、引退したいところですか…、そうだ、龍一さん、外の連中をお任せしてよろしいですか?」
「は…?」
「お好きになさって頂いて結構です。」
「し、しかし、それは…」
困惑顔の龍一を押し除けて、千絵がオルテアに迫る。
「ダメよ!龍ちゃんなんかにやらせたら、誰も生き残らないもの。彼は医者のくせに、生かすより殺す方が何倍も得意なんだから!」
「千絵…」
聞きなれた意見だが、事実だけに今日は一段と堪える。
正に殺すために、ここに来たのだから。
「ああ。全部を生かす必要はありません。そうですね、注文をつけさせていただくなら、1人は主人に報告できるように生かしてくださいね。では、よろしく。この年寄りを失望させないで。」
その時。
オルテアが、薄らと笑いつつ、その両眼を開いたのだ。
メッセージは明白である。つまり、龍一に選択肢はないということだ。
「承知した。」
簡潔に答えて、彼はドアに向かう。
千絵は化石したように黙り込み、オルテアの背後にいたガラムは、呆気に取られて、出ていく龍一を見送った。
「お、おいオルテア、い、いいのか!?」
「何がですか?」
「あっちは、完全武装した上級魔兵が100人はいるはずだ。森に潜んでいる奴らもいる。臭いからして、下手したらサントマーレンの側近辺りまでいるんじゃないか?そ、それなのに、あの男丸腰で…」
人間である上、着衣はズタズタ。
怪我をしている様子まである。
勝ち目があるなし以前に、何秒で殺されるかという問題だ。
「龍一さんなら大丈夫です。仮に実力者たちが束になってかかっても、瀕死の彼に勝てはしません。龍一さんに勝てるのは、千絵さんくらいのものでしょう。」
クスッと笑い、彼はガラムを振り向いた。
既に、目は閉じられている。
魔性のオッドアイ。
「ガラムさんって…」
「お?どうした、千絵?」
「臭いには敏感なのに、鈍いとこもすごくない?10年気付かないとか、ある?」
「おお?何のことだ?」
「うん。ガラムさんはそれで良いと思うよ。」
彼の腕の一本をポンポンと叩いて、彼女は頷いた。なにやら納得した様子である。
「???」
太陽と黒曜石の君。
それは、彼の目の色に由来する名だ。
金色と、黒。
眼球のない、裂け目のような目は、片方が自ら発光するかの如き金、もう片方はどこまでも光を吸い込む漆黒の闇そのもの。
オルテア・ベルゼアルファ・ルルド。
一般には、魔王ベルゼとして知られている存在の、最も有名な特徴であった。