道行き
ここは何処なのか。
どこであるにせよ、〝道〟の途中ではあるのだろう。
異界渡りにアビスブリンガーの助けが得られないことはわかっていた。
だから、庭園の全ての池からアビスブリンガーの気配が消えていることは、特に意外ではなかった。
あのオウム貝は、水面からはるか下、地底湖の深淵に身を潜めているのだろう。
今回使用した〝道〟の入り口は、庭園の東屋のひとつに隣接していた。
いつぞや、フランツ・リュートベリが鳥の姿で夜毎囀っていた、あの東屋である。
月の宮は、様々な異界に通じる封印のくさびだ。
壊れかけた封印を修復した後も、あちこちの小亀裂が全て塞がれた訳ではない。
この東屋は、本宮内陣を囲む闇の領域と同じく、異世界間を繋ぐどこでもない場所へと続く入り口である。
ここに棲んで悪さをしていたモノは、リューが人間の姿に戻った後、始末したから、いま彼の侵入を阻むものはいない。
いたとしても、押し通るまでである。
無造作に亀裂から〝道〟へと足を踏み入れて、さて何時間経っただろうか。
〝道〟は、多くの位相に跨って続いている。
曲がりくねりかたも、それらの世界を縫うように複雑で、曲がり角の先に何があるかは曲がってみるまでわからない。
途中、いくつかの世界を経由してきた。
できる限りそれらの世界の住民との接触を避けたつもりだが、全てを避けることは出来なかった。
時間も限られている。
最短コースに立ち塞がるものは邪魔だった。向こうから避けてくれるなら良し、そうでなければ排除する。
道の背後に躊躇いなく切り捨ててきたものが何者であったか、興味はない。
全ては殺意を向けられたことに対する、反射的な行動に過ぎないのだ。
相手は何者とも知れぬ相手に殺意を向けてきた以上、当然殺される覚悟を持つべきだろう。
会いたい。
その思いだけが募っていく。
彼女と離れていたのは僅か数日に過ぎないが、焦燥感はまるで何年もの間、砂漠で過ごした人がひと掬いの水に焦がれるかのようだ。
激しい渇きと飢餓にも似たこの感覚は、彼女を抱き締めるだけでは癒やされまい。
彼の全て。生きる意味そのもの。
これは彼女の生命を救い、更に彼女を永遠に失うための道行きである。
そうと知りつつ、今は彼女に会えることだけを希求して止まないこの心を、一体何と名付ければいいのか。
愛?欲望?執着?
定義など知らない。どれでも構わない。
再会したら、目的は一瞬で達成するつもりだ。
母体を傷つけることはない。
そして彼女は、彼を許さないだろう。
妊娠させてはならないことは充分知っていたというのに、この体たらくだ。
バースコントロールすらまともにできない医師を夫にしたばかりに、彼女は我が子を胸に抱くことを、諦めなければならない。
そんな男とはさっさと離婚して、自由になるべきだろう。
突然の痛みが体のどこかに奔った。
また何者かの攻撃だろう。全身は既に多数の傷に覆われている。今の傷はやや深いようだが、どうでもいい。
襲いくるモノを、無造作に斬り伏せる。
防御は最低限しかしていなかった。
行動不能にならなければそれでよい。
純血の神族である父や叔父なら、手足どころか首がもげても死にはしないだろうが、彼はそうはいかない。
手足の指一本が欠けても、自力再生は出来ないのだ。
人間に比べれば遥かに強靭で、怪我の治りも早いとはいえ、無駄に怪我をするのは馬鹿げた選択でしかない。
それなのに。
この行動は、つまり自暴自棄ということなのだろう。
愚かな男には相応しい。
青ざめた頬に、また何かの飛沫が飛んだ。
動物の体液なのか、植物由来か。
頬は既に彼自身の血と、得体の知れない液体やら何かの細片で汚染されていた。
全身もひどいありさまだろう。
ただ、一目でいい。
彼女の姿が見たかった。
2度と抱きしめられなくてもかまわない。
何者かの群れが、また暗闇から押し寄せてくる。
耳ざわりな金切り声と翼のはためく音。
コウモリに似た動物のようだが、大きさが異常だ。鋭い牙と爪の群れ。
濡れた毛皮と腐肉の臭気が満ちる。
彼は、迫り来る奇怪な生き物を見ていながら見ていない。
ただ、無心に剣を振る。
この数時間、彼はカルバウィングを握ったままだ。抜き身だが、それは元から鞘のない剣である。
実体化した刃は、何を斬っても刃毀れすることはないし、汚れることもない。
浅手ながらも満身創痍で、汚物にまみれた彼とは違うのだ。
遥か古、どことも知れない異世界からもたらされたと伝えられる剣。
普段はいくつもの世界に少しづつ同時に存在しているから、鞘は必要ない。
それぞれの世界で、どのような形で認識されているかはわからない。
それは剣かも知れないし、ただの石や金属、場合によっては動植物のような生命体であるのかも知れなかった。
それらを統合することによって、剣は彼の手元に実体化する。
カルバウィングは意思ある剣。
自ら主人を選ぶ。
刀身を実体化できるのは、剣が認めた主人だけに可能な技なのだ。
新たな痛みがどこかに奔る。
彼女に会うまでは死ぬ気はないが、まるで己を罰するかのように、敵の攻撃を受け続けることが、なぜか当然だと思えるのだ。
一度も立ち止まることなく翼の群れを抜けて、彼は歩む。行くべき場所はまだ先だ。
「どうしましたか、千絵さん?」
穏やかなオルテアの声で、彼女は自分が物思いに耽っていたことに気付いた。
「なんでもないです。」
オルテアは彼女の前にカップを置いた。
「緑茶です。」
「え?ここにもお茶の木があるの?」
「そもそも、お茶の原産地はこの世界ですよ。冷めないうちにどうぞ。」
「そうだったんですね。いただきます。」
茶の優しい甘みと深い味わいも、彼女の憂いを晴らすには至らない。
白いカップの中、淡い若緑の水色を見ながら、視線が揺れた。
「心配なんですね、ご夫君が。」
「無茶な人だから。」
「愛しているのですか、彼を?」
「多分そうだと思うけど、この子を殺そうとするなら、もう一緒には居られないわ。だけど…どうしたらいいか、わからない。彼を1人にするなんて…」
涙が静かに彼女の頬を伝う。
「私この頃泣いてばかりです。自分がこんなに弱いなんて思わなかったのに。」
オルテアは柔らかな笑みを浮かべた。
「泣ける時は泣いてもいいんですよ。だけどね、そんなに心配することはないと思います。まあ、とりあえずあなたとお腹の子は私が守りますから。」
「…どうしてそこまでしてくださるのですか?」
オルテアの笑みが深まる。
「理由はあります。龍一さんが来られたらお話ししましょう。」
「…!」
「そんなに驚かなくても。」
「彼がここへ向かっているんですね?だ、だったらアビスブリンガーは大丈夫なんですか?」
「大丈夫。龍一さんだって、アビスブリンガーが素直に通してくれるとは思わないはずですから、別の道を選ぶでしょう。」
「別の道?」
「道は1つではありません。今は待ちましょう。心配しないで。」
不思議と心地よい声だった。
何もかもを預けてしまいたくなる。
どこかとても懐かしい…。
「眠りなさい。お腹の子のためにも。」
柔らかな声の微かな残響が消える前に、彼女の意識は眠りの世界へと漂っていた。
次回もどうぞよろしく。