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月の宮異聞  作者: WR-140
103/109

道行き

ここは何処なのか。

どこであるにせよ、〝道〟の途中ではあるのだろう。

異界渡りにアビスブリンガーの助けが得られないことはわかっていた。

だから、庭園の全ての池からアビスブリンガーの気配が消えていることは、特に意外ではなかった。

あのオウム貝は、水面からはるか下、地底湖の深淵に身を潜めているのだろう。

今回使用した〝道〟の入り口は、庭園の東屋のひとつに隣接していた。

いつぞや、フランツ・リュートベリが鳥の姿で夜毎囀っていた、あの東屋である。

月の宮は、様々な異界に通じる封印のくさびだ。

壊れかけた封印を修復した後も、あちこちの小亀裂が全て塞がれた訳ではない。

この東屋は、本宮内陣を囲む闇の領域と同じく、異世界間を繋ぐどこでもない場所へと続く入り口である。

ここに棲んで悪さをしていたモノは、リューが人間の姿に戻った後、始末したから、いま彼の侵入を阻むものはいない。

いたとしても、押し通るまでである。

無造作に亀裂から〝道〟へと足を踏み入れて、さて何時間経っただろうか。

〝道〟は、多くの位相に跨って続いている。

曲がりくねりかたも、それらの世界を縫うように複雑で、曲がり角の先に何があるかは曲がってみるまでわからない。

途中、いくつかの世界を経由してきた。

できる限りそれらの世界の住民との接触を避けたつもりだが、全てを避けることは出来なかった。

時間も限られている。

最短コースに立ち塞がるものは邪魔だった。向こうから避けてくれるなら良し、そうでなければ排除する。

道の背後に躊躇いなく切り捨ててきたものが何者であったか、興味はない。

全ては殺意を向けられたことに対する、反射的な行動に過ぎないのだ。

相手は何者とも知れぬ相手に殺意を向けてきた以上、当然殺される覚悟を持つべきだろう。


会いたい。

その思いだけが募っていく。

彼女と離れていたのは僅か数日に過ぎないが、焦燥感はまるで何年もの間、砂漠で過ごした人がひと掬いの水に焦がれるかのようだ。

激しい渇きと飢餓にも似たこの感覚は、彼女を抱き締めるだけでは癒やされまい。

彼の全て。生きる意味そのもの。

これは彼女の生命を救い、更に彼女を永遠に失うための道行きである。

そうと知りつつ、今は彼女に会えることだけを希求して止まないこの心を、一体何と名付ければいいのか。

愛?欲望?執着?

定義など知らない。どれでも構わない。

再会したら、目的は一瞬で達成するつもりだ。

母体を傷つけることはない。

そして彼女は、彼を許さないだろう。

妊娠させてはならないことは充分知っていたというのに、この(てい)たらくだ。

バースコントロールすらまともにできない医師を夫にしたばかりに、彼女は我が子を胸に抱くことを、諦めなければならない。

そんな男とはさっさと離婚して、自由になるべきだろう。


突然の痛みが体のどこかに奔った。

また何者かの攻撃だろう。全身は既に多数の傷に覆われている。今の傷はやや深いようだが、どうでもいい。

襲いくるモノを、無造作に斬り伏せる。

防御は最低限しかしていなかった。

行動不能にならなければそれでよい。

純血の神族である父や叔父なら、手足どころか首がもげても死にはしないだろうが、彼はそうはいかない。

手足の指一本が欠けても、自力再生は出来ないのだ。

人間に比べれば遥かに強靭で、怪我の治りも早いとはいえ、無駄に怪我をするのは馬鹿げた選択でしかない。

それなのに。

この行動は、つまり自暴自棄ということなのだろう。

愚かな男には相応しい。

青ざめた頬に、また何かの飛沫が飛んだ。

動物の体液なのか、植物由来か。

頬は既に彼自身の血と、得体の知れない液体やら何かの細片で汚染されていた。

全身もひどいありさまだろう。


ただ、一目でいい。

彼女の姿が見たかった。

2度と抱きしめられなくてもかまわない。

何者かの群れが、また暗闇から押し寄せてくる。

耳ざわりな金切り声と翼のはためく音。

コウモリに似た動物のようだが、大きさが異常だ。鋭い牙と爪の群れ。

濡れた毛皮と腐肉の臭気が満ちる。

彼は、迫り来る奇怪な生き物を見ていながら見ていない。

ただ、無心に剣を振る。

この数時間、彼はカルバウィングを握ったままだ。抜き身だが、それは元から鞘のない剣である。

実体化した刃は、何を斬っても刃毀れすることはないし、汚れることもない。

浅手ながらも満身創痍で、汚物にまみれた彼とは違うのだ。

遥か古、どことも知れない異世界からもたらされたと伝えられる剣。

普段はいくつもの世界に少しづつ同時に存在しているから、鞘は必要ない。

それぞれの世界で、どのような形で認識されているかはわからない。

それは剣かも知れないし、ただの石や金属、場合によっては動植物のような生命体であるのかも知れなかった。

それらを統合することによって、剣は彼の手元に実体化する。

カルバウィングは意思ある剣。

自ら主人を選ぶ。

刀身を実体化できるのは、剣が認めた主人だけに可能な技なのだ。

新たな痛みがどこかに(はし)る。

彼女に会うまでは死ぬ気はないが、まるで己を罰するかのように、敵の攻撃を受け続けることが、なぜか当然だと思えるのだ。

一度も立ち止まることなく翼の群れを抜けて、彼は歩む。行くべき場所はまだ先だ。


「どうしましたか、千絵さん?」

穏やかなオルテアの声で、彼女は自分が物思いに耽っていたことに気付いた。

「なんでもないです。」

オルテアは彼女の前にカップを置いた。

「緑茶です。」

「え?ここにもお茶の木があるの?」

「そもそも、お茶の原産地はこの世界ですよ。冷めないうちにどうぞ。」

「そうだったんですね。いただきます。」

茶の優しい甘みと深い味わいも、彼女の憂いを晴らすには至らない。

白いカップの中、淡い若緑の水色(すいしょく)を見ながら、視線が揺れた。

「心配なんですね、ご夫君が。」

「無茶な人だから。」

「愛しているのですか、彼を?」

「多分そうだと思うけど、この子を殺そうとするなら、もう一緒には居られないわ。だけど…どうしたらいいか、わからない。彼を1人にするなんて…」

涙が静かに彼女の頬を伝う。

「私この頃泣いてばかりです。自分がこんなに弱いなんて思わなかったのに。」

オルテアは柔らかな笑みを浮かべた。

「泣ける時は泣いてもいいんですよ。だけどね、そんなに心配することはないと思います。まあ、とりあえずあなたとお腹の子は私が守りますから。」

「…どうしてそこまでしてくださるのですか?」

オルテアの笑みが深まる。

「理由はあります。龍一さんが来られたらお話ししましょう。」

「…!」

「そんなに驚かなくても。」

「彼がここへ向かっているんですね?だ、だったらアビスブリンガーは大丈夫なんですか?」

「大丈夫。龍一さんだって、アビスブリンガーが素直に通してくれるとは思わないはずですから、別の道を選ぶでしょう。」

「別の道?」

「道は1つではありません。今は待ちましょう。心配しないで。」

不思議と心地よい声だった。

何もかもを預けてしまいたくなる。

どこかとても懐かしい…。

「眠りなさい。お腹の子のためにも。」

柔らかな声の微かな残響が消える前に、彼女の意識は眠りの世界へと漂っていた。


次回もどうぞよろしく。

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