子殺し
月の宮のテラスで、リューとサーニは手持ち無沙汰で庭園を眺めていた。
朝の陽射しは、緑の芳香を運びつつ回廊を抜け、宮の石壁を照らしている。
爽やかな時刻。
だが2人の顔色は冴えない。
「龍一さまは何を考えていらっしゃるのかしら…?」
「さあ?だけど、何だかとても、お辛そうに見える。」
「あなたにもそう見えるのね。」
一見淡々と日々を過ごしているかに見えるが、彼が深い懊悩の虜となっていることを、2人は知っていた。
だが、どうしようもない。
彼は、他人に頼ることも、甘えることも知らずに大人になったように見える。
その出自と卓越した能力からすれば当然かも知れないが、それは人間として自然なことではないだろう。
唯一、彼が執着している妃が姿を消してしまったことの裏には、サーニたちにはわからない事情があるのだろうと、推測することはできる。
が、このままでは、盟主が壊れてしまう、
そんな得体の知れない危機感を、リューとサーニは共有していた。
「龍一さま?」
音もなく石回廊から現れた彼の姿に、2人は思わず動揺した。
いつもの通勤時の服装ではなく、技官の制服でもない。
それは、軍用装備に見えた。
それも、礼服の類ではなく、高級将校のものですらない。
かと言って、一般兵士用でもない。
「偵察隊の…?」
と、リュー。短期間ではあるが、彼には従軍経験がある。
動きやすい軽装に短いジャケット。
ポケットの類は極力障害物に引っかかることのないよう作られている。
背にはバックパック。
これも軍用品だが、偵察隊より衛生兵あたりが持つようなタイプである。
軍服の武器ホルスターは全て空のようだ。
武器も弾薬も、彼には邪魔なだけだろうが。
「2〜3日留守にする。」
淡々とそれだけを告げ、彼は庭園に降りた。
「どちらへ?」
ありったけの勇気を振り絞って、サーニが問う。
盟主は立ち止まったが、振り向かずに答えた。
「千絵の居る場所へ。」
「…!」
サーニは、自分がその声に何を聞き取ったのか、後でいくら考えても分からなかったのだが。
気がついたら身体が動いていた。
庭園に走り降り、盟主の前に出る。
何の感情もない目が、彼女を見た。
「龍一さま!何をなさるおつもりか、私如きにはわかりません。ですが…、ですが他に方法はないのですか?」
「他の方法か。」
静かに、彼は呟いた。
そんなものがあるなら、自分は生命に換えてでもそうしたい。
だが。
「どきなさい、サーニ。いずれにしても千絵は無事だ。ここに戻るかはわからないが。」
感情を含まない声。
言葉を失ったサーニの肩を、回廊から降りてきたリューが引き寄せる。
「リュー…」
彼は、首を横に振ると、彼女を脇に導いた。何が起きているかは、わからない。
だが、もはや自分たちの出る幕ではない。
盟主はそのまま、庭園の奥へと歩み去った。
「行ったか。」
「レヴィさま…、龍一さまは何処へ?」
石回廊の手すりに両手をかけて、黒の宮は庭園を見つめたまま答える。
「道はいくつかあるが、アビスブリンガーは協力するまいな。」
リューがハッとしたように顔を上げた。
「では、姫さまはあの世界に?」
「そうだフランツ。千絵はある人物に保護されている。」
あの異界への最短コースを守るのがアビスブリンガーであることを、リューは知っていた。
彼の研究対象を産んだ力は、あの世界からやってきたのだ。
通称、〝魔界〟。
「そんな。それはあまりにも危険では?万一、龍一さまとあの世界の実力者が衝突すれば…」
黒の宮は頷く。
「だがな、少しでも時間を稼ぐためには、他に手がなかったのだ。龍一は、一旦こうと決めたら頑固だからな。誰の言うことにも耳を貸さない。俺が無理に奴を足止めしようとすれば、リマノが壊滅しかねない。」
「レヴィさま。時間を稼ぐ、とおっしゃいましたが、それで何か解決の糸口が?」
「ふむ。可能性に過ぎないが、しかし、賭けてみる価値はあるのだ、サーニ。このままでは、龍一も、生きた屍となるしかないのだから。」
「生きた、しかばね…?」
「あいつはそうやって18年間を生きてきたんだ。千絵に会うまでの年月を。可哀想なことをしたとは思うが、全ての感情を制御できなければ、あいつは自滅する。その時はこの世界すら道連れとなろう。千絵だけが、あれにとって唯一の救いだった。」
朧げな認識が、サーニの脳裏でじわじわと輪郭を鮮明にする。
「まさか、姫さまは!?」
「サーニ?」
「ご懐妊。そうなのですね、レヴィ様?」
それは、本来慶事である。
だが、リューは青ざめ、黒の宮は沈痛な表情だった。
その意味するところは、皆知っている。
人間は、神族を無事出産することはできない。
受精卵を胎内から取り出して育成することも、不可能だ。
碌に分割していない発生初期段階であっても、受精卵には生存本能がある。
それは本能であって、理屈ではない。
闇雲な生存本能は、母体をも容赦なく攻撃するだろう。
つまり、胎内からとりだそうとしたなら、母体共々死ぬことになる。
レヴィとリューは、以前それについて議論したことがあった。
サーニは理屈は知らなかったものの、仮に妊娠した場合正妃の身体が耐えきれないことは聞いていた。
事実を認識した途端、サーニの内部に膨れ上がったのは、純粋な怒りだった。
「なぜですか!龍一さまは、その危険性を充分ご存知だったはずです!」
妊娠確率は極めて低いと知っていた。
だがゼロではなかったのだ。
そう、今更どうなることでもない。
過失なのか、或いは未必の故意とやらなのか、追求したところで全く意味はない。
まさに今更、である。
ならば…!
つまり、子殺し。
盟主は我が子を手にかけようとしている。
決して望んだことではなかろう。
その結果、正妃の生命は助かるはずだが、盟主は永遠に彼女を失うかも知れない。
彼女は無事でも、ここに戻らないかもしれないと、盟主は言ったのだ。
全て覚悟の上だろう。
「今はただ待つことしか出来ぬ。」
黒の宮すらなすすべがないのか。
ならば、ただの人間であるサーニにできるのは、祈ることだけだ。
信じる神はない。
誰に、何に祈れば良いのかわからないが、月の宮が意思ある存在であるならば、月の宮にこそ祈ろう。
この場所で宿った生命である。
無事にこの場所に戻ってきて欲しい。
それがサーニの願いだ。
なぜかはわからないが、この場所自体が強くそれを望んでいることを、サーニは感じていた。
後少し。最後までお付き合いいただけたら、嬉しいです。