ジェシカ
ぱきん、と頭の中で何かの音がして、それは呆気なく壊れてしまったのだと思う。
メイベルの姉であるジェシカがどこか軽蔑した顔をして、こちらを見た瞬間。メイベルは気付いたのだ。私の姉は、もうどこにもいない。そのことに。
◇◆
決まったような流れだった。
まるで号令かの如く、卒業パーティーで「ジェシカ・エマール、貴女との婚約を破棄する!」と婚約者である王太子が高らかに宣言したのも。その王太子の横には、ジェシカの義妹であるメイベルが不安げに並んだのも。ジェシカが、特に驚きもせず王太子に相対したのも。すべて予定調和な流れだった。
王太子はわざとらしくメイベルのか細い腰を引いてジェシカを詰る。曰く、ジェシカには裏切られ、失望したのだと。
義妹であり、妾腹の子であるメイベルをジェシカは粗雑に扱い、差別し、虐め抜いた。別館にメイベルを押し込んで、公爵令嬢にあるまじき扱いをして与える食事も十分ではない。使用人たちにも不遇な扱いを強要している――そんなことを言って、王太子はジェシカを断罪した。正確に言えば、断罪しようとしたのだ。
しかし王太子の目論見は外れ、ジェシカがただ黙って断罪を受けいれることはなかった。
ジェシカは覚悟を決めたように王太子と義妹に目を向け、そして冷静に「わたくしはそのようなこと一度もしてはおりません」とはっきりと告げた。ざわつく会場の熱気を、すぱんと切るような潔い声だ。
ぴくりと王太子が動いたが、それよりも早くジェシカの背後から人影が動く。
王太子の弟である第二王子、そして宰相令息や若き騎士団長であった。彼らは王太子とメイベルを射抜くような鋭い目で見つめる。
ジェシカを背に庇うように前に出た彼らは王太子の先ほどの陳述の矛盾点を一つ一つ指摘した。完膚なきまで丁寧に、ジェシカがメイベルに対しての虐待など行なっていなかったことを反証していく。
「兄上、一方の意見のみを拾って、このような大衆の面前で淑女たるジェシカを陥れようとするなんて、愚の骨頂だ」
そうして、最後に第二王子が締めくくれば会場はしんとした沈黙に包まれた。王太子は、口を浅く開いては閉じを何度か繰り返したが、結局それ以上は何もいうことはない。
ただ、縋るようにメイベルを掴んでいた腕の力を強くする。
メイベルは、何も言葉を話さなかった。ただ真っ直ぐにジェシカだけを凝視している。
「………このような晴れの舞台を乱しておきながら、少し反論されればだんまりか。……もうよい」
静まり返った会場に、厳かな声が通る。玉座にいる陛下が心底疲れたというような顔をしてため息をついた。おざなりともいえるほど、緩慢に衛兵に「そこな二人を連れて行け」と命じる。
すぐさま捕えられた二人を見て、ジェシカが一歩前を出た。
「メイベル。愚かなわたくしの妹……。わたくしがしてもいない罪をでっちあげ、貴女は未来の王妃なる夢を願ったのかしら?わたくしは、貴女に謝るべき罪など何一つないわ。………ああでも、ただ一つ、貴女に謝ることがあるとするならば、幼気な貴女が屋敷に連れられてきたあの当時、貴女に辛く当たり、怪我までさせたことかしら。あの頃は……わたくしは本当に未熟で申し訳なかったわ」
そういって、彼女は息をつく。後悔も寂しさも感じるような言い方であった。
慈しみさえ感じる目線を受け、メイベルは大きく目を瞠り、それから体を震わせた。
「貴女と、仲良くなりたかった」
そう言って、ジェシカがぽつりと零すのを受け取ったメイベルは、目を一瞬伏せてから顔を上げた。ジェシカから、目を逸らさずにまっすぐに彼女はメイベルを見つめる。
「ああ……お姉様、私、貴女が大嫌いですわ」
そう言って、場違いなほど綺麗な笑顔を浮かべメイベルは言い捨てる。そしてそのまま衛兵に引き摺られ、物語から退場した。
◆◇
あの騒動から一週間。
ジェシカと王太子の婚約破棄は正式に執り行われた。
件の王太子は王位継承権を剥奪された上に辺境の地へ送られ、学園内で熱心にその彼と密会していたメイベルもほとんど無理矢理な形で婚姻を結ばれた上で彼に帯同したらしい。らしい、とつくのはジェシカ自身はあの卒業パーティー以降彼らと相対することはなかったからだ。王家側はあの王太子の行動を重く見て、早々に問題を片付けたかったのである。
第二王子は正式な王太子となった。彼にはまだ正式に婚約者は決まっていないが、候補としてジェシカの名前はきっと挙がるだろう。決して鈍くはないジェシカは、彼に並々ならぬ好意や執着を向けられていることは理解している。
フと軽くはない息をついて、窓辺から自領の庭園を眺めた。
この家にはもう、使用人以外は父とジェシカしかいない。いつのまにか、メイベルの実母であり、ジェシカの義母となっていた女は消えていた。
父とジェシカの実母は典型的な政略結婚であった。体が強くはなかった母はジェシカを産んで数年で若すぎる死を迎え、そうして父は外で作っていた愛人とその子供を屋敷に迎え入れた……よくある話だ。
向き合う前からジェシカは義母を激しく拒否したため、美しく華々しい義母に夢中だった父からは距離を置かれていた。そんな中で唯一自分に屈託なく笑いかけてくれるのは、メイベルだけ。
しかしある時から徐々にメイベルもジェシカと距離を置き、気がつけばジェシカの婚約者と密会する仲になり、最後はあの騒動にまで発展した。
あの義妹――メイベルも、自分と同様にある日突然前世を思い出した人間だったのだろうか。
そうであった気もするし、そうではなかった気もする。
ただジェシカは、そうであった。
ジェシカの転機は十歳の頃。高熱を出して一日寝込んでと床に伏せた後であった。翌日、彼女の見える世界は一転した。
此処が、前世で自分がはまっていたアプリゲームの世界だと気づいたのだ。
最初は混乱し、自分の中に溢れかえった前世の記憶の処理に更に寝込んだ。そうして次に目を覚ましたのは結局最初に寝込んでから三日後だった。
その頃にはジェシカは、思い出した前世の記憶の中で、自分がアプリゲームの所謂悪役である【ジェシカ】であることを自覚した。そしてこの物語の主人公は――
「お姉様……、高熱が出たって聞いたけど、落ち着いた?」
おどおどとした様子で扉からこちらを伺う少女、メイベルだ。
ジェシカという視点でメイベルを見れば、メイベルが憎い気持ちは抑えきれない。自分の母を蔑ろにする原因を作った母娘。家そのものを乗っ取られるという恐怖を植え付けた根源。
しかしメイベル側の物語はまた異なるのだ。いままでの【ジェシカ】では知り得なかったことだが、義母はメイベルを愛してはいなかった。メイベルを貴族の妻になるための道具としてしか思っておらず、そして彼女の愛は父へ一心に向けられている。父は義母に似たメイベルを愛したが、彼の最愛もまた義母に向けられていた。
そして、年近い形ばかりの姉妹であるジェシカには辛く当たられる。
子供は産まれる時、自ら親も家族も選べない。その葛藤を、アプリゲームを通して今のジェシカは知っている。
その上でメイベルを見る。メイベルはどれだけジェシカに冷たくされようと、まるで刷り込みされた雛鳥のようにお姉様、お姉様と健気に着いてきた。メイベルはいつだってジェシカに歩み寄り、家族になろうとしていたのだ。こうやって、高熱を出したジェシカの下に来るのだって、メイベルのみなことがわかりやすい証拠である。
「メイベル………私、いままで酷いことばかり言って、横暴な真似ばかりしてごめんなさい……」
そう、ボロボロとみっともなく泣きながらもベッドの上で小さく言えば、慌てたようにジェシカに駆け寄って手を握ってくれた。
小さくて、柔らかい手だ。なぜ【ジェシカ】はこの小さな妹を迫害しようとしたのだろう。向き合って、打ち解けようと思えなかったのだろう。
「ごめんなさい……」
そう言えば、メイベルは困惑しながらも精一杯笑って「変なお姉様」と一言呟いた。
前世を思い出したジェシカは、それこそ言葉通り「人が変わったように」聞き分けのいい理知的な淑女へ変わっていったのだから。
刺々しく我儘ばかりを言っては周りを困らせたジェシカ。最初はジェシカのその変わりように周りは驚いたものだが、高熱を出し生死の境を彷徨った末、人生観が拓けたのだといえば大体の者は納得した。
しかし、それでは納得しない者もいた。メイベルである。
最初は優しくなったジェシカの態度に喜んだメイベルだが、徐々にメイベルはジェシカに戸惑うようになったのだ。優しくする度に、声をかける度に、どんどん態度が固くなっていく。
ある時、メイベルが「お姉様……ほんとうに、人が変わってしまったようね」と、何処か憮然とした様子でジェシカに言った。その言葉を受けて、ジェシカはさあっと顔を青くする。
まるで、変わってしまったことを嘆くようだったからだ。
一般的に見てジェシカの変化は好意的に取られていた。やっとあの我儘娘が大人しくなったのだ。
メイベルにしたって、今まで明らかにジェシカに虐げられてきたのだ。ジェシカの変化は喜ぶべきである。
だというのに、メイベルはまるで変わってしまったジェシカを責めるように見ている。
【ジェシカ】という悪役を求められているのだと思った。ゲーム終盤ではヒロインのメイベルを貶めようとして、返り討ちにされる【ジェシカ】を。
それがゲームの抑制力なのか、もしくはメイベルがジェシカと同じく転生者でありゲーム通りのヒロイン扱いをされたいが故かはわからない。
ただ【ジェシカ】を求めるメイベルが怖かった。だからジェシカは、それ以来歩み寄ろうと――ゲームとは違う仲良しな姉妹になろうとしていた心を捨てた。断罪される悪役令嬢になんて、なるつもりはさらさらなかったからだ。
ジェシカとメイベルは不仲ではなくなったが、距離のある姉妹となった。
メイベルも、ジェシカをそれ以上追うことはなくなった。不思議なものだ。【ジェシカ】である時の方が、メイベルはジェシカにひっついて回ったのに。
幼い時からジェシカの婚約者である王太子と、メイベルが高等学院に通うようになってから内通していたのは知っていた。誰にでも優しく、気立のいいメイベルは唯一、ジェシカとの接触を避けていたのも。
だから、ゲームの断罪劇をよく思い出して自分に謂れもない罪を被せるのを回避するためたくさんの手を打った。
そしてやっと、ジェシカは安寧を手に入れてひと心地がやっとつけた。
もうゲームの時間軸は過ぎた。これから先はエンディングロールより先のことだ。そう思うと、自分の中に滞留していた悪役令嬢の【ジェシカ】という存在がようやく消えていった気がした。
やっと、ジェシカとして自分は歩んでいける。そんな気がした。
不意に、庭園の隅の木陰にぼんやりと佇む父の姿が見えた。その背はどこまでも頼りなく、昔思っていた姿よりも小さく見える。
父と義母はよく、自分たちは真実の愛で結ばれていると言っていた。しかし結局、メイベルがあのような騒動を起こして、その実母である女はすぐに貴族籍から外され領地を追われた。あれほど義母に対する愛を語っていた父も、その義母を追うことはない。結局、自領と地位などを天秤にかけ、義母を愛のままに追いかけることなどできなかったのだろう。
義母がいなくなった父は、まるで今までの仕事の放棄ぶりがうたかた泡沫の夢だったのかのように、勤勉で仕事熱心な男になった。国からのペナルティもおそらくはあるのだろうが、しかしそれにしたって仕事にのめり込んでいる。そして仕事をしないときはまるで生気が抜けたかのようにぼうっと景色を眺めているのだ。父が何を考え、何を後悔しているのかジェシカはわからない。聞きたいとも思わない。
父がジェシカに対する愛を放棄した瞬間、ジェシカもまた父に見切りをつけていたからだ。
メイベルと元王太子の男も、周りからあれは真実の愛なのだと囁かれていた。見目麗しい美男美女の秘めたる恋は、遠くから見ている分には確かに美しく儚いものに見えたのだ。
真実、婚約者の義妹に手を出したというならただの最低最悪な浮気でしかないが。
メイベルと元王太子は、父と義母とは反対に、その真実の愛を貫くことが罰とされた。あちらの真実の愛の行方はどこにあるのだろう、と少しだけジェシカは考えてから、すぐに思考を放棄した。もう二度と会いはしない者たちだ。それこそ考えたとて詮無いことである。
恋をしようと愛を貫こうと、溺れることはしないようにしよう、とどこか冷めた気持ちでジェシカは思い、窓から身を離した。
◆◇
年の半分は雪で閉ざされた不毛の地。
子爵位を承り、その地を統治するよう言われた元王太子――サージェスは、その妻とされたメイベルを連れて庭園を歩いていた。
王都からは馬車で一月は掛かる上、雪で閉ざされてしまえばそもそも道路は封鎖される。そんな辺鄙な地。それ故、サージェスとメイベルがこの地に領主として訪れた時、少ない領民たちは存外好意的に二人を受け入れた。王都の噂話もここまでは回ってこないのだ。お姫様と王子様みたい!とはしゃいで回った村娘に、苦笑したのは家令のみであった。
思っていたよりも待遇は悪くない。おそらくは王である父の最後の情けなのだろう。
雪がちらついてきている。
一月もすれば、あっというまに雪で閉ざされますよ、と教えてくれた家令は、そうなる前に散歩でもしてきてはと二人に言ってきた。吹雪の時期もあり、そうなってしまえば雪籠するしかないのだからと優しく言う。やはり、待遇は悪くなかった。
メイベルは、この地に来てからあまり話さなくなった。人懐こく、誰に対しても細かな気遣いをする女だと思っていたが、サージェスと二人きりになると途端喋らなくなるのだ。他の、村人や使用人に関しては元気は少ないにしてもそこそこに喋るのに。
それでも、道を分つことを許されない相手だ。それであるならば積極的に険悪な仲にはなりたくはない。二人の間に、皆が思うような愛などはじめからなくても。
こちらを頑なに振り向かず、様子も気にせずずんずんと歩く背を黙ってサージェスは追い続けた。そうやって、付かず離れずの距離で、どれほど歩いた頃だろうか。
「気弱で、そのくせ何処かズルをしたがって、でもどこまでも人間臭かったお姉様はもうどこにもいない」
前にいた頼りない背がぽつりと溢す。語尾は堪えきれず震えていた。
サージェスは、少し早足で距離を詰め、その肩を抱く。支えるように。
覗き込んだメイベルの目には、少し触れればそのまま溢れ落ちそうなほど深い涙を堪えていた。
「中身が違うのよ」
サージェスとメイベルが共にいたのは、周りが思うような秘めたる恋故などではとてもなかった。ただ、そう見えた方が都合がいいと思って否定していなかっただけ。
二人は、ただの共犯者であった。
ジェシカという天真爛漫で、我儘で、気まぐれで高慢なあの時の少女にまた会いたい。それだけが二人の共通の願いだったのだ。だからあんなにバカな企みを二人で考えた。
無謀な冤罪劇。あんなものが元よりうまくいかないことなど、二人にだってわかっていた。どんな経路を辿ろうと、二人の結末だけは同じ。王命による除籍と王都からの離脱。しかし例え罰がもっと重いものになったとしても、メイベルはこの企みを止めなかっただろう。
それくらいの覚悟で、この人生の全て賭けて、メイベルはジェシカに向き合った。
だというのに、彼女が探したジェシカはもうどこにもいなかった。それどころか、ジェシカは最後、メイベルを憐れんだのだ。過去の自分がごめんなさい、と。
違う!何もかも違う!私は過去の貴女と家族になりたかったし、愛していたのだと、そうあの場で叫んでやりたかった。ジェシカと同じ顔をして、ジェシカとは正反対の性質を持つ女。
姉の体は、得体の知れない何かに乗っ取られたのだと、そうとしか思えなかった。
メイベルの姉、ジェシカはおそらく世間一般で言えば良き姉とは言えなかっただろう。それでもあの家族の中、唯一メイベルと対等な目線で話をしてくれたのはジェシカだけだった。
意地悪もされたし、きつい言葉も投げかけられた。傷つき、もう近寄りたくないと何度も思った。けれど、そもそもジェシカの家庭を壊したのは紛れもなくメイベルの母であり、メイベルという存在のせいなのだ。一朝一夕で分かり合えるとも許されるなどとは思ってはいない。
それに、ジェシカが折り合いがつけられない子供であるなら、メイベルだって事情を慮りながらもあまりに意地悪なジェシカにやり返す選択をしてしまう程の子供だった。
さすがに姉妹であったからとっくみあいの喧嘩とまではいかないが、意地悪されればやり返したこともあるし、悪口に言い返したこともある。
周りの使用人たちは特殊な環境故に過度に二人の仲を心配していたが、メイベルはそれこそ本物の姉妹らしいと思っていた。
それに、気分屋の姉は時たまメイベルに優しくした。少しだけの労いだったり、いらなくなったというぬいぐるみや小物をくれたり。小物たちは確かに古ぼけてはいたが、かつての彼女がそれだけ大事にしていたものということだった。それを気まぐれであっても、メイベルにくれたことが嬉しかった。
メイベルは、意地悪で横暴で、メイベルを気に食わないと真っ向から言う姉が好きだったのだ。
メイベルが仲良くなりたかったのも、本当の姉妹になりたかったのも、生涯彼女だけだった。
だから、ジェシカの他人行儀な謝罪が、壁一枚隔てた上での優しさが、決して自分ごととは思っていない他人行儀な態度が。全てが全て、気に入らなかった。
だからあんな場を起こした。
猫を被っているだけなら、出てきてよ姉さん。
悪役なら私がやるから、目一杯憎悪をぶつけていい存在に私がなるから、貴女がこの世界にいるんだという証明を私にちょうだい。
そう、子供みたいに欲しがって、手を伸ばして。自分のその後の未来よりも、ただ一目姉に会いたい一心で、メイベルは一世一代の賭けに出たのに。
「ねえ、私も貴方も、執着していたのはお姉様だけ」
サージェスが、メイベルのか細い肩を強く抱きしめた。サージェスもまた、かつてのジェシカに会いたい一心でメイベルの誘いに乗った馬鹿者だった。
当たり前だがそこには真実の愛だなんてどこにもなかった。執着の成れの果て。醜い獣が二体、そこにいるだけだ。
「何故誰も………お姉さまがいなくなったことを儚むことをしないの……っ」
「……メイベル……」
サージェスが名を呼べば、堪えきれず、ついにメイベルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
今のジェシカは冷静で理知的。それでいて最後のところでは優しい。淑女の鑑と言われる賢女だ。誰も彼女を悪く言わない。きっと彼女の人柄と能力はそのうち功績を残すだろう。
昔の姉の気性の荒さは、子供ならではの一時期の反抗期。そんな風に捉え、大人は都合よく解釈してジェシカを迎え入れる。優しく、一歩引いた目を持ち、苛烈な愛も感情も持たない、穏やかなジェシカを受け入れる。
けど違う。そうじゃない。あんなのは変化じゃない。ただ別人が成り変わっただけ。
ジェシカは、メイベルの姉は、死んだのだ。
本来、メイベルは彼女に謝罪をすべき立場なのだろう。でもきっと、どうしたってできない。
メイベルとジェシカの関係に対してジェシカが一方的に悪かったと、他人面してメイベルの肩を持った。そのくせジェシカではないとは言わなかった、彼女を。
ジェシカでないと、自分の中身は違うのだと言ったら、まだ許容できただろう。けれど、彼女は、――あの女は!言わなかったではないか!自分がジェシカでないことを!ジェシカの顔をして成り代わろうとしたじゃないか!
メイベルは悪くないと言いながら、メイベルにもジェシカにも向き合わず、信じようともしなかった。
「私のお姉様を返してよ……っ」
ジェシカがメイベルへ向けるものが憎しみでもよかった。それでもメイベルを真っ向から見ていたのは姉だけなのだから。
わぁわぁと、子供のようにみっともなく、メイベルは大声をあげて泣いた。まるで迷子の子供のように。
その公爵令嬢らしかぬ様子にサージェスは目を見開いた。咎めようとして、それから彼女はもう公爵令嬢ではないことに気付いて、自分ももう――王太子ではないことに気付いて。唇を戦慄かせ、それから素直に涙をこぼした。
ジェシカはいいところだけを言えるわけではない。欠点も多く言える女性だった。けれど、それを含め愛していたのだ。人間臭く、完璧ではない彼女を、確かに愛していた。我儘を言い続ける彼女の望みを、聞き続けてあげたいと思うほどに。可愛いと、確かに思える人だったのだ。
二人は手を握り合って、空の色が変わるまで泣き続けた。目が真っ赤に腫れるまで。顔が浮腫むまで。
彼女と彼だけは、ジェシカという一人の女性の消失を、ただ泣き続けた。
◇◆
目が溶けて、もう一生分の涙を溢した翌日、メイベルは吹っ切れたように昔のメイベルへ戻った。
明るく笑い、大きく怒り、他人が悲しめば同じよう悲しむ。感情表現の大きな、子供のような屈託さを持つメイベルへと戻った。
ジェシカの婚約者の時代からメイベルと出会い、付き合いが長かったサージェスはそれこそがメイベルの本来の気質だと知っている。ただ、領民は最初に見かけた時の物憂げな淑女こそメイベルだとばかり思っていたので、その様子に目を白黒させた。笑いながら、サージェスは「猫を被ってたんじゃないのか」と言ってやる。サージェスもまた、吹っ切れたのだ。
サージェスとメイベルは、本来の性質を取り戻して積極的に領地の開拓に身を乗り出した。寒冷地のため作物などはどうしようもないが、他に伸ばせる部門はないものかと領地の地質や歴史、果ては周辺動物などまでをも洗い出して少しでも利益が見込めるものを探し出した。
全てが順調に進むわけはなかったが、王都の学園に通い知識があった二人の地道な努力は小さな実を結ぶものもあった。
何より、領主がそうやって身を乗り出して領地のために身を粉にしている姿は領民の胸を打つ。領民の力も借りて、彼らはずっと模索し続けた。
人手が足りないということで、芋の収穫に駆り出されたサージェスが泥まみれで屋敷に帰ってきた。
へとへとだ、と力無く笑った彼だが、庭で散歩をしていたメイベルの下までわざわざいくと、そのまま散歩に付き合った。
「つい数年前までは王太子という面影がどんどん薄れますね」
「似合わないか?」
「似合うから戸惑ってます」
「元々俺は狭い範囲でしか物事が考えられないから、そういう意味でも王位は弟に譲って正解だったな」
少し逞しくなったサージェスはどこか得意げだ。本心から言っているのだろう。大きくもない領地の経営が己には身分相応だと。
少しそんな彼を眩しく思いながらも、慣れない畑仕事で疲れているだろうし部屋で休んでもいいのに、と思う。
隣を歩くサージェスを見上げれば、その頬に泥がついている。
「土がついておりますよ」
子供のようだ。
メイベルはくすりと笑って、その泥を拭ってやった。
事もなく触れられたサージェスは呆気にとられた顔で固まって、それから離れていくメイベルの指先を捕まえる。
何を、とメイベルが口を開くより先に、サージェスはほとんど衝動的に、メイベルの形のいい唇に、自身の唇を寄せた。
キスをしたのはほんの数秒。しかし、時が止まったかのように、メイベルは固まって、ゆっくり離れていったサージェスの顔を見上げた。
「結婚してくれ」
サージェスが真面目くさった顔でそう言えば、メイベルは目を見開いて、それから困ったように笑った。
「もう、私たち結婚してますよ」
そう言えば、サージェスも困ったように笑って、メイベルを優しく抱きしめた。
「愛してる」
「……はい、私もです」
いつからかはわからない。だが、二人はそうであるのが当然のように、すとんと納得した。
「私たちが愛し合ったなど知れれば、嫉妬深いお姉さまが化けてて出るかもしれませんわ」
「そうか?」
「ええだって、お姉様ったらサージェスのこと大好きだったんですよ!サージェスの前では憎まれ口ばかりだったかもしれませんけど、あの人ベタな王子様に弱いんです」
そういって、悪戯げにメイベルは笑う。
その言葉にサージェスは目を見開き、それから苦笑した。確かに初恋はジェシカで、深く暗い執着を長年抱いていた。
故にメイベルの言葉が嬉しくないわけではないが。
「メイベルは、好きだとは言ってくれないのか?」
困ったような顔で笑えば、メイベルはぼっと顔を赤くしてわたわたとしてそれから蚊の鳴くような小さな声で「………すき、です……」となんだか悔しそうに言った。それが可愛くて、愛らしくて。大笑いしながらサージェスはメイベルを力一杯抱きしめた。
メイベルは口では散々文句を言いながら、サージェスを同じくらい強く、ぎゅうと抱きしめる。
そんな仲睦まじい領主たちのやり取りを、使用人たちは呆れつつも温かく見守ってやった。
幾年後、メイベルとサージェスは子に恵まれた。その子は子供らしく我儘を言い、両親も使用人も困らせたが同時に人々の顔をしょうがない方だと綻ばせたともいう。息女の名は――