1-6 〈コード〉という名の歪
「そういえば、ジンの〈コード〉ってなんだ?」
クラウスがジンの隣に腰を下ろして訊く。何故かジンが、座り直すついでに、少しだけクラウスとの距離を取っていた。
「僕のは〈シュナイダー〉っていう……まあ、コレを出す〈コード〉だよ」
そう言ってジンが右手の人差し指と中指を突き立てると、指先に黒い粒子のようなものが集まってきて、それらは一瞬で形を成す。一つ瞬きする間に、柄も刃先も黒一色のナイフが出現していた。
勿論冗談のつもりだろうが、ジンはナイフの切っ先をクラウスの顔に向ける。ちょっとマジヤメテ、とクラウスが笑いながら言うが、その声には余裕は無く、笑顔もかなり強張っていた。
そんな彼を鼻で笑いながらナイフを下ろす。
お前のは? とジンが訊ねると、悪戯する前の子供のように無邪気な笑顔を浮かべて、クラウスはベッドから立ち上がった。
「よぅく見てろよー……」
ニヤニヤしながら言った直後、クラウスの全身の色がすう、と薄く空気に透けて、そこには最初から誰もいなかったかのように、忽然と姿を消した。
ジンが、途端に目を丸くして、さっきまでクラウスがいたところに手を伸ばす。やはり何も無いようで、その手はただ虚空を掴むだけだった。
トゥールにはクラウスの姿が認知できており、ジンの手を避けつつ両手を彼にそっと近づけて、何か企んでいるのも全て筒抜けだった。しかし、それを止めはせず黙って見守っていると、パンッと、大きく乾いた音。クラウスがジンに猫騙しを仕掛けたのだ。
ジンは殆ど何が起こったか分からずに短く悲鳴を上げながら飛び上がり、後方にひっくり返った。
「あははは! いい反応するなー! 〈チェシャー〉つって、見ての通り透明になる〈コード〉だぜ!」
「……てめぇ何処にいやがる」
ジンが虚空を睨みつけながら低い声で唸るように言った。未だに姿を表さないクラウスを探して辺りを見回しながら、黒いナイフを構えている。その様子をニヤニヤと笑いながら、クラウスがそっとジンの頬を突く。そうすると、ジンにもクラウスの姿が目視できるようになった。〈チェシャー〉は、ヒトに触れると、その触れたヒトには可視化できるようになる〈コード〉なのだ。
楽しそうなクラウスを忌々しげに睨みつけていたジンだったが、呆れたように嘆息しながら彼の腕を払い除けた。それから不機嫌そうな表情のままのジンがトゥールに視線をやった。
「お前は見たまんまだけど。蜥蜴になる〈コード〉?」
「ああ。俺のは〈サウルス〉という。爬虫類に出来ることは大体可能だ。……例えば蛇と同じで、体温を認知することが出来るから透明になったクラウスの姿もサーモグラフィの様に目視できる、とかな」
それを説明すると、ジンはじろりとトゥールの顔を睨み付けた。
「へぇ? ということは、君はさっきクラウスが僕にクソみたいな嫌がらせをしている姿を、ただ黙って見ていたってことだよね?」
「あ。いや、それは……」
トゥールは口籠りながら目を逸らした。あまり無闇なことを口にすれば、彼の〈シュナイダー〉で出現させたナイフの餌食になる恐れがあった。ジンが、目を合わせようとしないトゥールに刃を突き立ててくることは無かったが、代わりに無言のまま睨み付けるその視線は、ナイフのように鋭く突き刺さっていた。
やっと目を合わせたトゥールが短くすまない、と謝罪するとジンは軽く舌打ちした。
「まあいいよ。それより、お前はずっと爬虫類のままなんだね。〈コード〉、解かないの?」
トゥールは曖昧に微笑んだ。あまり触れてほしく無い話題だったが、態々こんな姿で居続けるのはとても不自然なことで、誰だって疑問に思うだろう。尻尾や異形な手足、体中の鱗。バケモノじみた容姿のまま生活することの利点など、何一つありはしない。
絞りだすような、溜息にも似た掠れ声でそれを言葉にする。
「……解けないんだ。生まれつき、な」
トゥールの表情から何となく察したのか、ジンは一瞬悲しそうに顔を歪ませて、そう、と一言返し、それ以上深く言及しては来なかった。
トゥールが翡翠バーコード──失敗作たる由縁。
〈コード〉の発動が、解けないのだ。
バーコードと人間の親の間に産まれた子は必ず翡翠バーコード、不完全なバーコードとして産まれる。トゥールの母親は人間で、父親がバーコードだった。
バーコードの誕生など誰も祝福しない。産まれ付き蜥蜴のような容姿をしていたのだから尚更で、トゥールは存在を疎まれ続けて生きてきた。父はトゥールが産まれて直ぐに行方不明になった。何処かで野垂れ死んだのかもしれないし、家族を置いて逃げたのか。忽然と姿を消してしまったのだから、真相は誰も知らない。
それから人間である母と、異父兄弟である兄と、トゥールの三人は村で暮らし、“バケモノの家族”として家族は村から孤立していた。それでも母親はトゥールを責めることも恨むことも忌むことも無く、ただ、普通の息子として、トゥールを愛してくれた。兄はまったくその逆で、トゥールの事を心から嫌悪し憎んでいたため、頻繁に暴力を振るったりもしたが。
──お前がいなければ。
──死ねよ、バケモノ。
時折兄が口にした言葉は、トゥールの思いを代弁していた。トゥール自身も自分の存在が疎ましくて仕方がなかったし、家族を悩ませる異形な自分が許せなくて、死んでしまおうと思うことだってあったのだ。死ねと言うなら、いっそ殺してくれればよかったのに。村人たちに家を放火されるあの日まで、兄も、自分自身も、トゥールを殺す勇気などなくて。
「トゥール? 何変な顔してんの」
ぼんやりと思考に浸っていたトゥールは、クラウスの声で現実に引き戻される。いつの間にか、すぐ目の前にクラウスが来ていた。
不思議そうにトゥールの顔を見上げて、クラウスが緩く微笑む。
「何だよ、もう眠いのか? 寝る子は育つとはよく言ったもんだよな!」
長身のトゥールを見上げながら、クラウスはそう言う。
「……お前の睡眠が不足し過ぎているんだ。だから隈だって取れない」
なんだとー、と掴みかかってくるクラウスを尻尾であしらっていると、それをぼんやり眺めていたジンが、1つ大きく欠伸をした。ベッドの上であぐらをかいて、眠たそうに目を擦っている。
「はは、子供は寝る時間だしな。今日はもう寝るか」
「ふぁぁ……だれが子供だぁ」
「お前しかいないだろう」
ジンは既にベッドに横になって、布団を被ろうとしていた。怪我も治りきって無いし、素振りは見せないが、相当衰弱しているはずだった。
クラウスが軽く手を振って、じゃあお休み! とリビングへ向かうのを見届け、それからトゥールは蝋燭の火を吹き消して、ラグの上に蹲るようにして、瞼を閉じた。
「おやすみ……」
眠気のせいか、消え入りそうな声で言ったジンに、おやすみ、と返して、トゥールは寝息を立てた。
◆
寝返りを打つと、裂かれた胸元の傷が僅かに疼き、ジンは思わず顔をしかめる。治りかけではあるものの、心臓を狙った一撃は肋骨も砕いていたようで、予想以上に治りが遅かった。死んでいてもおかしくなかったのだ。こうして温かいベッドの中で痛みに耐えると、生きていることを実感した。
ジンはベッドの中、眠る気にもなれずに目を閉じて思考を巡らせていた。
“あの女”に殺されかけて、死にものぐるいで逃げ込んだマンションに、まさかバーコードがいるとは思わなかった。しかも拍子抜けするほどのお人好しだ。ジンがいくら怪我人だとしても、見ず知らずのバーコードを助けるなど、どうかしている。
──オレらに“助けて”って言った、だから。オレはお前を助けたいんだ。
ジンはクラウスの言葉を思い出して、眉間に皺を寄せた。他人と関わることは極力避けようと思っていたというのに、自分の弱さが声に出てしまったのだろうか。そう考えて嫌気が差す。関われば関わるだけ、後で辛くなるのは理解していたはずなのに。
──駄目だ。もう、誰かに頼ってはいけない。これは、僕が自分勝手に始めた事なんだから。
不意にジンの耳が、布の擦れる音を捉えた。顔を向けなくとも、トゥールが上体を起こしたのが気配でわかった。
「起きてるか」
目を閉じているだけのジンに、トゥールが声を潜めて話しかける。こんな夜中に何の用だろう、とジンが起き上がるか狸寝入りするかで迷っていると、もう一度声が掛かった。
「起きてるか、“死神”」