1-5 バーコードというバケモノ
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階段の至るところに滴ったまだ新しい血の跡を見て、トゥールは顔をしかめる。ジンはこれほどの出血をしながらも、よく生きていたな、と思ったのだ。
七階、七一〇号室の扉の前まで辿り着く。
「ここがオレたちの基地だぜ」
クラウスが楽しげに紹介するも、ジンは、へぇ、とあまり興味なさそうに返事をした。
「……お邪魔します」
部屋に入る前に、ジンが小声で言った。出会ったばかりのトゥールやクラウスをお前呼ばわりするくせ、そこだけ礼儀正しい。それがなんだか可笑しくて、トゥールは声を出さないように笑う。
部屋の中は勿論照明がつかないため、静かな薄闇に包まれている。廊下の途中にはトゥールの寝室と使い物にならない浴室があるが、先ずはまっすぐとリビングへ進んだ。
「物、少ないね」
ぽつりとジンが言う。彼の言うとおり、白い壁、フローリングの床、窓には多少亀裂がはいっており、部屋の中央に置かれた木の質素なテーブルに、同じく木製の椅子。後は、部屋の隅にクラウスが寝るための白っぽいソファが置いてある。それだけの、こざっぱりしたリビング。他の家具は何もない。
「広くて完璧な部屋だろ? よくわかんないヤツは全部捨てたから、こんなに綺麗になったし!」
「え? 何処が……いや、そ、そうかい」
ジンはあえてそれ以上は何も言わなかった。
彼の言うとおり、部屋にあった家具は殆ど捨て去った。寝泊まりするだけの部屋だから、というのもある。だが、そういう理由よりも、この空間で“何か”と戦闘をすることになったとき、広いほうが動きやすいだろう、と。そっちの意味合いのほうが強かった。
「此処はクラウスの寝室として使っていて、俺の部屋はこっちだ」
トゥールは先程通り過ぎた寝室のドアを引きながら、ジンを手招きする。
トゥールの部屋には、チェストやタンス。部屋の中央には灰色の大きなベッドがひとつ。ベッドの下には黒いラグマットが敷かれている。
「ジンは、このベッドを使って寝るといい」
「は? トゥールの部屋なんでしょ? お前はどこで寝るの」
「俺はいつもラグの上で眠っているんだ。ベッドは使ってない」
「ふうん。じゃあ、有難く使わせてもらうよ」
ジンがベッドに腰を下ろし、置いてあった枕を手に取ると、硬さを確かめるように抱きしめる。トゥールは触れたことも無かったが、歪み具合からして中身は羽毛だろうと予想が付く。大分柔らかそうな枕だ。
ふかふかの枕が気に入ったのか、ジンは枕に顔をうずめ、ここへ来て初めて笑顔を見せた。可愛げの無い話し方をするが、そういう顔をすると、ちゃんとただの子供なのだな、と再確認させられる。
そんなジンをぼんやり見ていたクラウスが、何を思ったのか楽しそうに両手を広げて構えた。
「ジン、枕投げしようぜ! ヘイパス!」
クラウスは今年で十八歳になったはずだったが、頭の中身まで成長するわけではないらしい。
呆れ顔でクラウスを見つめるトゥール同様、ジンも彼に冷めた視線を送り、ガキかよ、と吐き捨てながら枕を元の位置に戻した。
「子供にガキ扱いされた!? ノリ悪いなぁ……」
そんなやり取りでしょぼくれているクラウスが可笑しくて、思わずトゥールは頬を綻ばせる。そのことに気付いたクラウスが何笑ってんだよ! と、冗談交じりに掴みかかってくるのを、軽く尻尾で払い除けた。
「あ、そうだ」
不意にジンが呟いて、クラウスの目の前まで歩み寄って止まった。
どした、とクラウスが訊ねると同時に、ジンの手がクラウスの服の襟元を掴んで、そのまま、くいっと下に軽く引っ張る。
当然、胸元が僅かに露出する。そして、胸元に刻まれた鮮やかな緑色のバーコードが露わになった。
「きゃあああっ、セクハラ!?」
奇行に走るジンの腕を振り払い、クラウスは大げさに後ずさる。ジンの行動にも驚いたが、それ以上に、トゥールは六年間共に過ごして来て初めて耳にするクラウスの悲鳴に、笑いを堪えきれなかった。想像より随分高い声が出るらしい。
「なんなの!? お、お前、セクシュアルハラスメントって知ってるか!?」
大げさに騒ぐクラウスを無視して、翡翠か、と独り言のように呟いたジンが、今度はトゥールの方を見た。トゥールの顔を見上げながら手を伸ばしかけたジンの動きがぴたりと止まった。
「……トゥール、屈んで。見えない」
「知らん。何故俺が低身長に合わせて屈まなければならない。というか、何がしたいんだ」
トゥールを見上げたまま舌打ちをし、手を下ろしたジンが、先ほどと一切変わらぬ声色で言い放つ。
「紅蓮バーコードだったら、殺す」
まるで世間話でもするみたいに、あまりにも普通の口調だった。しかし、言葉に込められた意味は、この場の空気を一瞬にして氷点下に引き下げるには十分だった。
沈黙する三人の代わりに、窓を乱暴に叩く雨粒の音が部屋を満たしていた。雨音に合わせて、心臓が内側から胸を叩く。クラウスは表情を強張らせていた。
重い空気を払拭するように軽く咳払いをして、トゥールは答える。
「……俺が紅蓮バーコードなら、クラウスなんかとっくに殺しているだろう? お前のことだってそうだ。俺も、翡翠バーコードだ」
ジンは、じっとトゥールの瞳を見つめた。そこに偽りがないと納得したのか、そう、と短く答えると、ジンはくるりと体の向きを変え、再びベッドに腰を下ろした。クラウスが深く息を吐く音と共に、部屋の温度が戻っていく。
クラウスは未だに強張った顔をしていたが、どうにかいつもの飄々とした調子を繕って言った。
「まったく、殺すとか、物騒な事言うなよ。紅蓮がアブナイのは……わかるけどさ」
微かに表情を曇らせつつ、クラウスはジンの頭を軽く叩いた。それを煩わしそうに振り払ったジンは、乱れた髪を軽く整え、クラウスを睨みつけていた。だが、やった当の本人はそれ気にする様子は一切無い。
実際に紅蓮バーコードは、厄介な存在なのだ。
そもそもバーコードにも幾つかの種類がある。
実験で生み出される成功品である、深い青色の“群青バーコード”。
実験の失敗作であり、不完全なバーコードとして、トゥールとクラウスの胸にも刻まれている、鮮やかな緑の“翡翠バーコード”。
そして、自分の意思に関係無く殺人衝動に駆られ、誰かれ構わず殺戮を繰り返すようになったり、殺す事を愉悦とする異常な思考に染まる、血のように紅い“紅蓮バーコード”の三種類だ。
三色のバーコードのうち、どれかが心臓の上に刻まれている者の事を、ヒト成らざる異形なバケモノ──“バーコード”と呼ぶのだ。
この街にも紅蓮バーコードは彷徨いているはずだ。普段、トゥールやクラウスが屋上に身を潜めているのは、それの襲撃に備えるためでもある。他の理由といえば、もう、この街にはいないと思いたいが──人間の襲撃や、バーコードの駆除のために特殊な訓練を積んだ集団から逃れる為であった。
バーコードは人間よりも遥かに身体能力が高く、本来人間が持たざる、特殊な〈コード〉を所持している。
例えば自在に空を舞ったり、水を自在に操ったり。体の一部が変形したり、動物のような〈コード〉を使う者、瞬間移動する者等、あらゆる人間に不可能な事を可能にする異質な力を持つ。
故にバーコードは“バケモノ”と呼ばれるのだ。
バーコードという異形なバケモノの存在は、百年近く前に生まれたと言われている。初めは人類の革命等と言われて重要視されていたが、あまりにも特異な〈コード〉や紅蓮バーコードの存在は、世界を混乱に陥れた。
人間は此方がバーコードと知れば、恐れをなして逃げるか、血眼で駆除しにくる。
見た目は人間と一切変わらないのに、得体の知れないバケモノが。自分達の想像も付かない力を持った存在が。途方も無く恐ろしくて仕方がないのだ。バーコードである自分たちでさえ、自分自身が恐ろしいのだから。