1-4 後悔の意味
◆
一日中曇っていたために、時間の経過が曖昧に感じられたが、気が付いたら辺りは本格的に暗くなり始めていた。夜目が効かないトゥールは、暗くなると殆ど何も見えないのだが、それでも夜が好きだった。闇夜は自分の醜い姿さえも隠してくれる。
空は変わらぬ曇天で、晴れる気配は一切無い。鉛色の雲は今にも落ちてきてしまいそうだ。微かな雨の匂いを感じ取って、今夜中に降るのだろう、とトゥールは思った。
先程クラウスが戻ってきたあと、手当してボロ布を枕に寝かせてやっていた少年。その隣で見守っていたはずのクラウスが、いつの間にか階段室の壁にもたれて居眠りしていた。雨が降る前に起こさなければと、トゥールは彼の体を軽く揺すってやる。
それから穏やかな寝息をたてる少年の手足を確認すると、既に幾つかの傷は塞がり始めていた。大した治癒力だな、と感心しながら起こすために肩に触れようと手を伸ばした。
不意に少年の瞳がパチリと見開かれた。エメラルド色の大きな瞳に写り込んだ蜥蜴男の表情は、驚きで引き攣っている。トゥールの姿を目視して、彼以上に驚いた様子の少年は、慌てて飛び退き、距離を取った。
「誰だてめぇ!」
急に動いたことで傷が痛むのか、小さく呻き声を漏らしながらも、鋭くトゥールを睨みつける。元々悪い目付きが、睨みつけることで更に獣じみた迫力を生み出す。自分はこんな姿をしているのだから、警戒されるのは当たり前だろう。トゥールは自分の頬の鱗に触れながら、自嘲気味に笑う。
「驚かせてすまないな。危害を加えるつもりは無いんだ。俺はトゥールという」
言いながら、トゥールは睨み付けてくる少年の横にいるクラウスを指差した。
「そっちの眠そうなのはクラウスだ。……それで、お前は?」
〈コード〉を使用して透明化していたわけではないのに、少年はそっちの、と言われるまでクラウスが隣で目を擦りながら座っているのに気が付いてなかったらしい。彼はクラウスを横目で見ると、目を剥いて肩を跳ねさせた。
名前を聞かれても、やはり警戒しているのか、少年はクラウスとトゥールの顔を交互に見たり、自分の身体に巻かれた包帯や周りの風景を忙しなく見回している。
「怪我の調子どーよ? 治ったか?」
クラウスはまだ眠たげな声で少年に訊ねる。対する彼は、強張った表情のままクラウスを睨みつけており、武器さえ手元にあれば切りかかってきてもおかしくないような雰囲気だった。そんな少年にクラウスが笑いかけると、ようやく彼はいぶかしむ様に口を開く。
「……これ、お前が手当したのか」
クラウスは、寝起きのせいかふにゃりとした口調と表情で、少年の問いに答えた。
「んや、オレがやろうとしたけど、トゥールに“お前は包帯をクシャクシャにするだけだろう。あんな芸術的な包帯さばきは二度と披露するな”って言われた。から、オレじゃない」
クラウスの一ミリも似ていない声真似か、その発言、どちらに効果があったか定かではないが、微かに少年の頬が緩んだのがわかった。
僅かに緊張の色は伺えるが、比較的穏やかな表情で頷き、少年はトゥールの方を向いて話す。
「そっか。助かったよ、ありがとうね。僕の名前はジンだ」
トゥールは、自分の指先が震えるのを悟った。
「──ジン。そうか。ジン……というのか」
強張った表情で、静かに名乗られた名を復唱する。噛みしめる様に。
そんなトゥールの様子をいぶかしむように見つめつつ、ジンは何も言わなかった。
それよりも、とジンは思う。自分は何をしていたのだろうか。ほとんど顔を確認する暇もなく体中が切り刻まれていて、死に物狂いで逃げてきた事は覚えていた。しかし、何故こんなところを目指したのか。とにかく安全なところを目指した結果がここだったのだろうか。考えていると、思考を阻害するように頭痛と目眩がした。
ジンが痛む額に手を当てると、そこにも包帯が巻かれていることに初めて気がついた。トゥールと名乗った爬虫類男には感謝しなければならないな、と二人に見えないように小さく微笑んだ。
「酷い怪我だったけど、誰にやられたん? 噂の死神?」
クラウスがそう訊ねれば、ジンは顔を青ざめさせて、ゆっくり首を横に振った。
「わからない。よく思い出せないんだ。でも、“死神”か……あれも死神みたいなもの、なのかな」
断片的に思い出される高く耳障りな女の哄笑と、息ができないほどの痛みの記憶を、首を振って払い除ける。
ジンはふらりと立ち上がった。足が痛むのか、苦痛に表情を歪ませている。まだ完治してないくせに、覚束ない足取りで歩き出し、階段室の扉に手をかけた。
何処に行く、とトゥールが声をかけると、顔だけ二人の方に向けてジンが口を開く。
「ありがとう、お世話になりました。僕はもう、行かなきゃ」
「は? ちょ待てよ!」
立ち去ろうとするジンの腕を、クラウスは反射的に掴んだ。丁度そこに傷があったのか、ジンが小さく呻き声を漏らしたが、クラウスは気付きもせずに怒鳴りつける。
「こんな暗い中何処に行くってんだよっ。しかも怪我、治りきってねぇだろ!」
「煩いな。手当てしてくれたのは感謝してるけど、僕らは無関係だ」
「無いけど! でもさっ」
煩わしそうに手を振りほどこうとしていたジンが、黙ってクラウスを睨みつけた。ジンのエメラルドグリーンの瞳を、クラウスはじっと見つめて、落ち着いた声で言い放つ。
「……お前はここに来たとき、オレらに“助けて”って言った。だから、オレはお前を助けたいんだ」
ジンは目を剥いてクラウスを見る。一瞬、何を言われたか理解できなかったようだ。口を何度かパクパクと開閉して、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「なにそれ、馬鹿じゃないの!? それに“助けて”なんて……そんなことッ……」
唇を震わせて、言い淀む。言葉にしようとすると、喉の奥の何かに支えて、上手く行かない。
「僕が、言ったの?」
波紋を立てる水面のように揺れた声色。それを聞き届けた真剣で真っ直ぐな金色の瞳。見ていられなくなったジンは、俯いて黙り込んでしまう。
クラウスがジンの名前を呼ぶと、今度こそ掴まれた手を振りほどき、さっさと階段を降りようとする。
待て、と声をかけて制止させたのはトゥールだった。振り返りながらもトゥールを睨むジンの顔が、どうしてか泣きそうに見えたのは、気のせいか。
「時期に雨が降る。外に行くのは止めたほうがいい。それに、また殺されそうになっても、こんな暗さとその怪我では、今度こそ死んでしまうぞ」
そこまで言ってもやはりジンは表情を曇らせていたが、数秒の沈黙の後、諦めたように嘆息しながらもわかったよ、と首肯した。
嬉しそうに笑んだクラウスを横目に胸を撫で下ろしたのも束の間。トゥールは鼻先にぽつり、と冷たいものを感じて空を仰いだ。
ついに重たい雲の欠片が、地上に落ちてきたらしい。トゥールの顔にぽつ、ぽつりと雨粒が触れて、肌を滑り落ちてゆく。
「うわ、本当に降ってきた! 中入るぞ!」
クラウスが先に階段を降りていったので、トゥールとジンも、それを追うように足を進めた。
「歩けるか」
「余裕だよ」
気遣って声を掛けたトゥールだったが、返ってきたのは淡白な回答。トゥールの目には無理をしているようにも映ったが、本人がそう言い張るなら、無駄なお節介を焼く必要もないだろう。
階段を先に降りる二人を見つめながら、ジンは静かな声で言った。
「後悔、しないでね」
クラウスとトゥールを見据えて。いや、それよりももっと遠くを見つめるような視線と、その声色が相まって、ジンが寂しそうに見えた。
それを聞いて、目を瞬かせていたクラウスだったが、直ぐに笑いながら左手の親指を突き出して言った。
「お前を見捨てたら、多分オレはもっと後悔したと思うぜ」